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僕は、生粋の長州人を自覚しています。
生まれは三田尻(防府市)、宇部を経て、下関は長府育ちです。
そうです。乃木希典大将が大好きです。
以前のブログにも、永遠、乃木神社や、二百三高地の話をかきました。
この将軍ならついてゆこう、この将軍のためなら死んでもいい。
そんな乃木将軍と同郷ということが、本当に誇らしです。
そんな中。現在、僕は、北九州市小倉南区に住んでいますが、ここ小倉にも名将軍がおりました。
奥保鞏将軍です。
兎に角経歴がすごいです。
豊前小倉藩に生まれ、藩主小笠原家に従って長州征伐に加わっております。
つまりは、薩長の宿敵側です。
佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱に参加し活躍。
圧巻は、西南戦争の際に熊本籠城戦に参加。
弾丸が口から頬にかけて貫通するも、左手で傷口を押さえ右手で軍刀をもってひるまず包囲網を突破したようです。
その後、薩長でなければ出世できない世界で(長州人から言うのも何とも・・・)、見事陸軍大将に。
そして、日露戦争では、第二軍司令官として目覚ましい活躍をします。
南山の戦いでは、熾烈を極め、その後の特利寺の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦でも活躍。南山の奥と称せられます。
第一軍、黒木為禎、第三軍、乃木希典、第四軍、野津道貫。薩摩・長州・薩摩の中で、唯一奥将軍のみ、幕府側。それでも、「奥だけは外せまい」の意見で、第二軍司令官を任されているのです。
奥将軍は難聴で、筆談で作戦を立てていたとのことですが、その作戦立案能力は非常に高かったとのことです。
凱旋時は、乃木将軍と同様に、多くの戦死者を出してしまったことに対する自責の念から、恥じるように凱旋されたとのことです。
当時、薩長、皇族以外で、初めて元帥になったのも奥将軍です。
また、台湾総督を打診された際も、軍人が政治に関与すべきでないとの考えから辞退しています。
日露戦争後は、政治等に全く興味を示さず、静かな晩年を過ごし、昭和5年7月19日に享年83歳にて没した時も、周囲から「まだ、生きていたのか」という声が上がったそうです。
小倉は、その奥将軍の故郷。また、乃木将軍が長州征伐の際に攻め入ったのが小倉。乃木将軍が、歩兵第14連隊心得に着任したのも小倉。ここで、乃木将軍は、秋月の乱平定に大活躍するのです。
そんな、小倉をもっと知ろう。と、今努力中です。
リバーウォークの南側です。
ここから、出仕していたのですね。
「歩兵第14連隊の跡」
図書館の近くにひっそりと建っています。
昭和3年、小倉北方に移転するまで、ここの地に歩兵第14連隊はあったそうです。
歩兵第14連隊の碑の横にあります。
ただ、あるブログをみますと、
「豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として生まれ、本家の養子となり家督を相続。馬廻知行三百石となり七郎左衛門と改名。小姓、物頭を勤める。
幕末の小倉藩士屋敷絵図によれば生家が分かる。
西顕寺の位置は現在も分かっておらず、今の浅香通りを南に進み、堺町二丁目の交差点の左角あたりがそうではないかと思う。奥利右衛門の名が絵図にはある。」
本来は堺町付近で生誕したものと思われます。
乃木希典、奥保鞏。
明治の軍人はなんて魅力的なんでしょう。
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