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写真の整理をしようと思います。
5月3日の写真です。
北九州市在住の私にとって、北九州市は色々なものが隠れているので飽きません。
今日は、こんなものはいかがでしょうか。北九州市民97万人でも知っている人はわずかなのでは。
という私も全然しらなかったのですが・・・
若松区の響灘大橋を渡って右側の方に向かってゆくと、洞海湾に面したところに通称「軍艦防波堤」というものがあります。ふと、北九州市を紹介する雑誌に目を通したら、たまたま載っておりました。これは、いかねば。
大東亜戦争後、多くの艦艇は戦時賠償として連合国に引き渡されるか解体されるかしましたが、何隻かの艦艇は解体された船体が防波堤として利用されました。
運輸省第4港湾局により構築された長さ770mの防波堤のうち、約400mを、駆逐艦「涼月」「冬月」「柳(初代)」の3隻の船体を沈設して作られたそうです。
「軍艦防波堤」
説明がこれっぽっちです。
何度も風害等もあり、完全にコンクリートで補強されたそうです。
ただ、原型は認めますね。
かつて、大海原の波を切って航海した駆逐艦なのでしょうが、寂しいものですね。
むしろ地面に固定されるよりは解体された方が幸せだったのでは。
駆逐艦「柳」。桃型駆逐艦の一つ。1917年5月5日に佐世保海軍工廠で竣工。地中海遠征に参加。1940年4月1日に除籍。佐世保海兵団の練習船として使用。同型駆逐艦に「桃」、「樫」、「檜」があります。
同型駆逐艦「檜」
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/IJN_Hinoki_at_Wuhan_Taisho_12.jpg/300px-IJN_Hinoki_at_Wuhan_Taisho_12.jpg
問題は「涼月」「冬月」です。
軍艦防波堤はこのように構築されており、「涼月」「冬月」は完全にコンクリートの下に隠れてしまっているようです。
つまり、想像するに、
面影もへったくれもありません。
でもって、
おそらく「冬月」
停泊中の輸送船がうらやましい、うらめしいでしょうね。
しかも、この2隻、申し訳ないですが「柳」どころではない重要な駆逐艦なのです。
昭和20年4月7日、帝国海軍が発動した天一号作戦の一環として、沖縄への水上特攻に向かう戦艦「大和」、および軽巡洋艦「矢矧」を護衛する8駆逐艦の内の2隻なのです。
歴史的重要性としてははるかに高いと言わざるを得ません。
いわゆる「坊の岬沖海戦」で「大和」「矢矧」沈没の際に、「冬月」中破、「涼月」大破しながらも帰還しています。
「冬月」は舞鶴海軍工廠で昭和19年5月に竣工。その後、10月に遠州灘沖でアメリカ潜水艦「トレンパン」の魚雷に被弾。呉海軍工廠で修理後、空母「隼鷹」の護衛としてマニラへ。そして、昭和20年4月7日、坊の岬沖海戦にて中破の被害。直撃弾2発を受けてます。戦死12名、戦傷12名。駆逐艦「霞」の乗員を救助したのち佐世保に帰投しました。その後は、第7艦隊の指揮下に入り、関門海峡と対馬海峡の哨戒に任じました。7月23日には、関門海峡への機雷投下作戦で飛来したB-29の編隊に対して対空射撃を行い、そのうち、1機を撃墜しています。8月15日を、門司港で迎えましたが、5日後の20日に門司港内で触雷して航行不能となり最後は、工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就いています。
「冬月」の在りし日の雄姿
「涼月」は長崎・三菱造船所において昭和17年12月29日に竣工しています。第三艦隊、あの小沢治三郎中将の艦隊に配属され、第十戦隊第61駆逐体に属しました。その後、トラック、パラオ、マーシャル群島で護衛任務に活躍します。あの「い」号作戦でも、トラック島からラバウルまで、パイロットや整備兵の輸送の護衛についています。昭和18年5月17日には、戦死した山本五十六元帥の遺骨を載せて日本に向かう戦艦「武蔵」の護衛についています。再び、トラック、ラバウル、マーシャルなどで、軽巡洋艦「鹿島」や空母「瑞鶴」などの護衛の任についています。昭和19年1月15日、ウェーク島への輸送船護衛の際、沖ノ島西方海上で、アメリカ潜水艦「スタージョン」の攻撃を受けます。乗組員多数死亡し、「初月」に曳航されてかろうじて呉に帰投してます。修理後、今度は都井岬沖でアメリカ潜水艦「ベスゴ」の雷撃を受け、すぐさま呉に帰投しております。そして、昭和20年4月7日を迎えます。艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰投。戦死者57名、戦傷者34名です。この際、佐世保港で係留中にも浸水が止まらなかったので、大急ぎでタグボートが手配され乗り組み員を収容したそうです。大破した前方区画の内、前部弾薬庫は区画内部からの防水処置がなされた為、沈没を免れました。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、その区画内部で酸欠死している状態で発見されたとのことです。戦争を通じて3度の被害にあったがいずれも生還し、「秋月」型駆逐艦の中で一番の長命であったとのことです。佐世保船舶工業で解体し軍艦防波堤となりました。
坊の岬沖海戦での「涼月」
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/Japanese_destroyer_Suzutsuki_under_attack_1945.jpg/250px-Japanese_destroyer_Suzutsuki_under_attack_1945.jpg
このような歴史ある艦艇を防波堤にするのはまだしも、完全に埋立てしまい、まさに歴史の中に埋もれさせてしまう日本人の感覚はいかなるものでしょうか。
人はこのような帝国海軍の艦艇をすぐに「負の遺産」「負の遺産」と煙たがります。「負の遺産」として片づけるのは簡単です。でも、この艦艇を愛し、この艦艇を必死に守った日本人がいる。この愛する艦艇に搭乗し、愛する祖国を守ろうとした日本人がいる。このような日本人がいたからこそ、現代の日本人が存在しているということを考えると、「負の遺産」として簡単に片づけようとする現代の日本人こそ「負の遺産」と言わざるを得ません。
軍艦防波堤から遠く戸畑方面をのぞみます。
先人たちがいたからこそ、戦後日本は、どの国にも支配されず(実質はアメリカの属国かもしれませんが)、経済発展をとげ、平和を謳歌しているのです。
すみわたる青空です。
「高搭山より」
若松市街が一望です。
高搭山中腹にひっそりと建っていました。
3艦艇の歴史が刻まれていました。
立派な石碑でした。
安心しました。
大東亜戦争末期の特攻作戦に参加した艦艇達に、まさかここ北九州で会えるとは思ってもみませんでした。ただ、その雄姿はコンクリートの下にありましたが・・・。
意外なところに物語りは埋もれてます。
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