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つづき。
さらに上流へ。
「長峡川」2
今回のたびの目標の「馬ヶ岳山」が見えてきました。
標高216m、二つの峰からなる山の形が神馬に似ていることからその名がついたそうです。確かに、かっこいい形をしています。
〇末松謙澄
1855年−1920年。明治・大正時代の。ジャーナリスト、政治家、歴史家。
豊前国前田村(今の行橋市)に生まれる。東京師範学校中退。東京日日新聞社の記者となり社説を執筆。岳父である伊藤博文の知遇を得て、外交官としてロンドンに赴任し、ケンブリッジ大学で学ぶ。その後、衆議院議員、逓信大臣、内務大臣などを歴任した。スペイン風邪に罹患して死去。
という、立派な方が、ここで生まれたのです。
奥さん生子は、伊藤博文の娘。西郷隆盛への降伏勧告状は謙澄の起草と言われている。ロンドン赴任中に、最初の「源氏物語」の英訳を書いた。「義経=ジンギンスカン説」を発表した。日露戦争の間、英国にわたり、日本の立場を説明した。毛利家の依頼で長州の歴史を調べ、維新史の一級資料「防長回天史」を編纂した。など、面白そうな人です。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Suematsu_Kencho.jpg/200px-Suematsu_Kencho.jpg
こんな人が、いたなんて。こんな近くで生まれたなんて知りませんでした。
ちなみにこの人が学んだ私塾が・・・
「水哉園」
「水哉園」。「すいさいえん」です。
1835年に、村上仏山(むらかみぶつさん)によって開かれた私塾です。
孔子の「水哉、水哉」からとられたそうです。
塾には厳しい塾則があり、全寮制で、試験による進級制度も取り入れられ、文学や詩文中心の人間づくり倫理教育が行われたそうです。
1879年、仏山が没した後も、養嗣子の静窓に受け継がれ1884年まで50年間続いて、その間には、関西以西から3000人もの入門者があったそうです。末松謙澄や吉田学軒など、多くの政治家、学者などを輩出したそうです。
仏山は日本の漢詩壇をかざる大詩人であり、「落花紛紛雪紛紛」という桜田門外の変の詩などを収めた「仏山堂誌鈔」は日本中の私塾の教科書になったそうです。
凄いことですね。こんな片田舎から発信されたものが日本の標準になるなんて。
しかも、調べると凄いことが判明。
吉田学軒(吉田増蔵)は、明治〜昭和の漢学者。行橋市のすぐお隣のみやこ町勝山に生まれ、上記の水哉園で学ぶ。森鴎外と深い親交があり。
そして凄いのが、大正15年12月に大正天皇が崩御されると漢学の碩学であった吉田は、宮内大臣、一木喜徳郎から元号の勘進の命を受け、書経の一節
「百姓昭明」、「協和萬邦」の二字をとって、「昭和」の元号を考案し、勘進し、その案が枢密院にて採択決定されたそうです。また今上天皇の「明仁親王」をはじめ、多くの皇族の名を考案したそうです。
「昭和」という意味には、「国民の平穏な暮らしと世界各国の共存共栄を願う」といった意味が込められているそうですが、その願いとは裏腹に、時代は世界戦争に向かってゆくのは何とも哀しい話です。
そして、吉田自身も、宮内省の官僚として米・英に対する宣戦詔書の起草に携わることになったそうです。
「昭和」は、この地から発信された。といっては言い過ぎかもしれませんが、いや、物語は隠れているものですね。
あらためて、恐るべし「村上仏山」、「水哉園」
「長峡川と馬ヶ岳山」
いい景色なんですが、日本は電線が多すぎです。
って、外国を知らないですけど。
寄り道しましたが、ようやく目的の馬ヶ岳山登山です。
「馬ヶ岳山」
つづく。
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