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行橋紀行4

つづき。
イメージ 1「馬ヶ岳山」
 
 
 
 
 
 
官兵衛も
見下ろしたるかな
秋豊前
 
 
 
 
 
 
 
なんて、完全に頂上に登りきった気分で、一句 詠ったりしたのですが、実はここ、頂上でありませんでした。
もっと道がありました。
残念。
頂上気分を返してほしいです。
 
結局、馬ヶ岳山の2つの峰のうちの1つに登って満足していたみたいです。
もう1つの峰の方が、頂上でした。
 
もうひと踏ん張りして、
 
 
頂上です。
イメージ 2
「頂上」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河ドラマ効果でしょうか。とにかく人が多かったです。
すれ違っただけでも7、8組いました。
日ごろは、ほとんど誰も登らないでしょうに。
その時も頂上に団体が10人くらいいて、お弁当を食べていました。
 
また、頂上は周囲に結構、木が生えており、さっきのニセ頂上の方がパノラマ度はよかったです。
ただ、頂上には、新田氏の表忠碑が立っていましたので写真におさめました。
イメージ 3
「新田氏表忠碑」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
馬ヶ岳城は、942年に源経基(つねもと)が築いたと伝えられ、新田氏などの歴代城主の伝承が残されていますが、確かな記録から歴史がたどれるのは室町時代の1405年からとのことです。
今に伝わる古文書からは、馬ヶ岳城が豊前地域の戦略上の重要拠点で、さまざまな勢力の攻防の舞台であったそうです。特に中国地方を拠点として大きな勢力をもった、大内氏や毛利氏、豊後を拠点としていた大友氏などが、豊前地域の支配をめぐってこの城の争奪戦を繰り返していたそうです。
重要な城だったんですね。
イメージ 4
「馬ヶ岳山」
 
 
 
 
馬ヶ岳
ほら貝高らか
秋の空
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そういえば、この山。14日、行橋市や築上町を自転車で走りましたが、常に遠くから見えます。戦略的に重要な場所にあったのですね。
今まで、気にならなかった山ですが、これからは僕にとっても重要な山になりました。イメージ 5
「馬ヶ岳山」2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1586年、天下統一をめざす秀吉は、停戦命令に従わない島津氏の征討を決定し、官兵衛を軍奉行とした部隊を九州に送ります。当時馬ヶ岳城主であった、長野三郎左衛門が、秀吉方に服属したことから、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれました。
翌年には、秀吉自ら遠征軍を率いて九州に上陸。馬ヶ岳城に2泊しています。その後、秋月を経て、島津攻略に向かい、九州平定に成功しております。
 
九州平定後、秀吉から豊前6郡(京都郡・仲津郡・築城群・上毛郡・下毛郡・宇佐郡)、約12万石を拝領した官兵衛は、最初、この馬ヶ岳城を居城とします。官兵衛がこの城を居城としたのは、古くからこの城が豊前支配の拠点であったことと、豊前南部に黒田氏の支配を不服とする宇都宮氏など地元勢力がまだ多くいたためだとされています。
官兵衛と長政親子はここを拠点に、抵抗する地元勢力の平定を進めました。
1587年の末には、黒田氏と宇都宮氏が和睦し、豊前南部の情勢もようやく安定しました。おそらく、この頃、黒田氏は馬ヶ岳城から中津の地へ拠点を移したと考えられているそうです。居城が中津城となった後も、馬ヶ岳城は支城として黒田氏の領内統治を支えました。
 
面白いですね。
非常に楽しく、勉強になる登山でした。
 
下山後、すぐお隣の、みやこ町の豊津に足を延ばしました。
 
つづく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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