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宇佐めぐり

6日、研究会の発表もすみ、思ったより、その日の夜、お酒が入らなかったので久しぶりのプチ自転車旅行してきました。本当は、豊前市をプラプラしてみようと思っていましたが、欲が出て、宇佐まで足を、いやタイヤを伸ばしました。
宇佐神宮は、以前、参ったので、今回は、前から行ってみたいと思っていた、「双葉山の生家」を目指しました。
 
イメージ 1「城井川河口」
築上町です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
「山国川」
 
いつもの越境川です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13「宇佐」
 
だめだ、ここを通るたびに写真に
おさめてしまう。
 
好きです。
U S A
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17「八面山 遠景」
 
ここで、豪雨にあってしまいました。
でも、かなり暑かったので
恵みの雨となりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18「天津」
 
10号線から、双葉山生家へ
至る道です。
きれいな道でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19「天津小学校」
 
なんか、中国に来た感じです。
 
でも、アマツと読みます。
 
中津→今津→天津
 
つーつーつー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20「天津小学校」
 
の一角に、二宮金次郎像がありました。
久しぶりに見ました。
まだ、このような像があるなんて。
 
宇佐の町の風土なのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21
「天津地区遠景」
 
広がる田んぼが青くて
気持ちいいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22「双葉の里」
 
念願の双葉山の生家です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23「超六十連勝力士碑」
 
過去に三人
 
谷風(江戸時代)63連勝
双葉山(昭和)69連勝
白鵬(平成)63連勝
 
のみだそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3「白鵬 63連勝」
2010年1月場所から、11月場所まで
第69代横綱
モンゴル ウランバートル出身
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 「谷風 63連勝」
仙台出身
第4代横綱
1778年3月から1782年2月まで
 
「双葉山 69連勝」
宇佐出身
第35代横綱
1936年1月から1939年1月まで
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5「双葉山記念館」
 
一人旅行なので、
顔を入れることができませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
記念館の中に入りました。
まず目に飛び込んでくるのが、
 
 
イメージ 6
「双葉山銅像」
 
昭和の大横綱
 
威風堂々
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
双葉山の生い立ちが、年表で紹介された後、
ついに、僕の大好きな名言が。
 
 
イメージ 7
「双葉山名言集」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以下、記念館にあった解説をうつします。
 
「われ、未だ木鶏たりえず」
70連勝をかけて臨んだ昭和14年一月場所四日目、約3年間勝ち続けいていた双葉山は、ついに安芸ノ海によって黒星を喫する。双葉山はいつもと変わることなく、土俵に一礼をして東の花道を下がっていったが、その日の夜、知人に宛てて打った電報がこの言葉である。
「木鶏」とは、中国の故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じることない最強の状態にある闘鶏をさしている。無心の境地至れなかった自分を戒めた双葉山だが、相撲道に対する更なる精進を重ね、連勝記録がストップした後も3度の全勝優勝を含む7度の優勝を数えることとなる。
 
「後の先」
生涯1度も「待った」をしなかった双葉山。立ち合いでの相手を受けて立つ姿勢は、一見、立ち遅れているように見えるが、組んだ時には既に先手を取っていることから、「後の先」(ごのせん)と呼ばれている。
双葉山は幼い頃の事故で右目が見えず、右手の小指にも怪我によるハンディを負っていた。立ち合いに「待った」せず、「後の先」を完成させたのも、これらのハンディを乗り越えるために生み出されたものであった。
 
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
双葉山が現役を引退後、親方として弟子達に説いていたのがこの言葉である。
「稽古は本番のように緊張感をもって取り組みなさい。本場所では硬くならず、リラックスして臨みなさい。」という意味と考えられるが、あえてこのような表現に抑えることで、弟子たちへの押し付けでなく、個々の自覚を促す教訓となって聞こえてくる。
技術面を口にせず、「心気体」を相撲道の理念とした双葉山らしい言葉である。
 
「心・気・体」
一般的にスポーツの世界では、「心技体」が重要な理念であるとして知られているが、双葉山は相撲道の理念として「心技体」ではなく、「心気体」が重要であると説いた。また、双葉山が目指した「木鶏」こそ、この「心気体」の象徴であったと考えられている。
稽古場での時津風親方(双葉山)は、ほとんど技術面のことを口にせず、「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」を指導理念とし、「心技体」ではなく「心気体」を強調していた。師匠(双葉山)が稽古場に現れると、私語をかわすものは誰一人となく、体と体がぶつかり合う音と荒い息づかいが聞こえるばかりで、その指導力は優れていたという。双葉山はなくなるまでの25年間親方を務め、1横綱3大関を含む多くの関取を育成した。
 
「勝負師は寡黙であれ」
前人未到の69連勝など、土俵上で無敵を誇っていた双葉山であるが、幼い頃の事故で失明となった右目と、家業を手伝っている最中に潰してしまった右手小指という2つの大きなハンディを負っていた。しかし、現役中、そのことを決して他人に語ることなく相撲を取り続け、引退まで黙り通している。
2つの大きなハンディを乗り越えるため、必死の努力を続けてきた双葉山のこの言葉は、「木鶏」を目指し、たとえ買っても喜ぶ姿を相手に見せなかった双葉山の土俵哲学といわれている。
 
番外編〜笠置山の言葉〜
「双葉山関に勝ったらその場で引退しようと思っていた」
戦前の土俵を沸かせた力士の一人に笠置山という出羽の海部屋の力士がいた。彼は当時としては珍しい早稲田大学出身のインテリ力士であった。
関脇まで昇進するものの、双葉山にはどうしても勝てなかった笠置山は、昼夜を問わず双葉山の取り口を研究し、ついには雑誌に論文を載せるほどであった。笠置山が記した「双葉山論」を参考に出羽の海部屋の力士達稽古を重ね、ついに昭和14年一月場所、安芸ノ海が打倒双葉山を果たすことなる。
結局、笠置山自身が双葉山を倒すという願いを叶えることができなかったが、後に笠置山が語ったこの言葉は、打倒双葉山に対する思いがいかに強かったのかを伺い知ることができる。
 
「我未だ木鶏たりえず」。かっこいいですね。こんなこと言われると、恥ずかしくなります。「我、未だ、ひよこのもなりえず」。道というのは、究めることができないということですね。自我を押し殺して、感情に流されず、もくもくと人生を生きたいものです。
また、とかく人間は、自分の自慢話、苦労話を他人にしたがるものですが、双葉山はその真反対ですね。確かに自分もその傾向がありますが、とかく自分の話を他人にベラベラ話して、同情を誘ったり、賞賛を求めるのは、一歩引いてみると情けない感じがします。
過去の偉人で、その道を究めた人は、以外にもその道にハンディがあるものですね。不思議なものです。
また、隻眼の乃木大将に通ずるものもあります。
 
あと、ここに載ってはいませんでしたが、僕の好きなエピソードを一つ。
双葉山の70連勝を阻止した安芸ノ海は、部屋に戻ってから師匠の出羽の海に報告した際、出羽の海は、「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したといいます。
 
 
イメージ 8「双葉山の生家」
 
質素な邸宅です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9「生家の内部」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10「双葉の里から八面山」
 
双葉山も幼少期、
このような風景を
目にしていたのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なんて、感慨にふけっていたら、「双葉の里」の観光案内板に、「城井一号掩体壕」という表示があるではないですか。これは、行かないと。と、例のごとく、地図を一見した後、感を頼りに。
 
 
イメージ 11「城井1号掩体壕」
 
今回初めて知りましたが、宇佐には海軍の航空基地があったそうです。
 
この「掩体壕」とは、米国の空襲、B-29の空襲から航空機を守るための防御壕のことだそうです。
 
このような「掩体壕」が、宇佐の田んぼ地帯に、ぽっこり、ぽっこりあるのです。
現在では、計10個、「掩体壕」が残っているそうです。
 
 
 
 
イメージ 12
「掩体壕」
 
きれいに戦闘機の形になってます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14
「掩体壕内部」
 
陛下から頂いた戦闘機をどのような思いで格納したのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15
「神風特別攻撃隊」
 
この宇佐航空隊からも、
150名近くの若者が、特攻隊として散華したそうです。
 
本当に、感謝申し上げます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16
「掩体壕」
 
と、英霊たちに思いを馳せてましたら、その近くの掩体壕。
 
ひどくないですか?
トラクターの物置にしてます。
 
こんな、トラクター、誰も空爆しません!!
 
 
 
 
 
 
 
 
続きます。

軍人

 
奥元帥をテーマにした1冊です。
なかなか、奥元帥に関する資料が少ないのでしょうか。
軍記ものとしては、面白かったのですが、もう少し、奥元帥の人となりが書かれていたら。というのが感想です。でも、長州人の僕としては、奥将軍が、乃木将軍に心の奥で共感する場面は、こみあげてきました。「同じ日本人なんだから」。
今度は、同じ小倉人の軍人、小川又次の本を読んでみようと思います。メッケルに、児玉か小川か。と言わせた男です。楽しみです。
 
軍人・軍隊を、頭から否定する輩が多いですが、もちろん、一部の日本軍人のモラルを貶めるような軍人がいることは否定はできないですが、もっと、このような、誇り高い軍人を勉強するべきだと思います。
 
それとは別にふと、日本軍人の、痛快な、ある記事を思い出しましたので書いてみます。
2000年7月4日。
20世紀最後のアメリカの独立記念の記念式典。世界各国の帆船170隻、海軍の艦艇70隻もの大規模な洋上式典が、ハドソン河河口のニューヨーク港に集まりました。
 
翌5日に、英国の豪華客船「クィーンエリザベス号」も入港してきました。
ところが、ハドソン河の流れに「クィーンエリザベス号」は流された格好になってしまい、係留中の我が国の海上自衛隊の護衛艦「かしま」の船首部分に接触しました。
 
相手は軍艦です。事と次第によっては国際問題にもなりかねない状況です。
着岸した「クィーンエリザベス」号から、すぐさま、船長のメッセージを携えた機関長と一等航海士が「かしま」の船内に謝罪にやってきました。
 
丁重な謝罪を受けた「かしま」の艦長。
その際の返答。
最高です。

「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。
それよりも、女王陛下にキスされて光栄に思っております。」

なんとも、痛快な発言です。
 
人生、日々の出来事でも、こんな痛快な返しができる人間でありたいですね。

奥将軍

僕は、生粋の長州人を自覚しています。
生まれは三田尻(防府市)、宇部を経て、下関は長府育ちです。
そうです。乃木希典大将が大好きです。
 
以前のブログにも、永遠、乃木神社や、二百三高地の話をかきました。
この将軍ならついてゆこう、この将軍のためなら死んでもいい。
そんな乃木将軍と同郷ということが、本当に誇らしです。
 
そんな中。現在、僕は、北九州市小倉南区に住んでいますが、ここ小倉にも名将軍がおりました。
奥保鞏将軍です。
兎に角経歴がすごいです。
豊前小倉藩に生まれ、藩主小笠原家に従って長州征伐に加わっております。
つまりは、薩長の宿敵側です。
佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱に参加し活躍。
圧巻は、西南戦争の際に熊本籠城戦に参加。
弾丸が口から頬にかけて貫通するも、左手で傷口を押さえ右手で軍刀をもってひるまず包囲網を突破したようです。
その後、薩長でなければ出世できない世界で(長州人から言うのも何とも・・・)、見事陸軍大将に。
そして、日露戦争では、第二軍司令官として目覚ましい活躍をします。
南山の戦いでは、熾烈を極め、その後の特利寺の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦でも活躍。南山の奥と称せられます。
第一軍、黒木為禎、第三軍、乃木希典、第四軍、野津道貫。薩摩・長州・薩摩の中で、唯一奥将軍のみ、幕府側。それでも、「奥だけは外せまい」の意見で、第二軍司令官を任されているのです。
奥将軍は難聴で、筆談で作戦を立てていたとのことですが、その作戦立案能力は非常に高かったとのことです。
凱旋時は、乃木将軍と同様に、多くの戦死者を出してしまったことに対する自責の念から、恥じるように凱旋されたとのことです。
当時、薩長、皇族以外で、初めて元帥になったのも奥将軍です。
また、台湾総督を打診された際も、軍人が政治に関与すべきでないとの考えから辞退しています。
日露戦争後は、政治等に全く興味を示さず、静かな晩年を過ごし、昭和5年7月19日に享年83歳にて没した時も、周囲から「まだ、生きていたのか」という声が上がったそうです。
 
小倉は、その奥将軍の故郷。また、乃木将軍が長州征伐の際に攻め入ったのが小倉。乃木将軍が、歩兵第14連隊心得に着任したのも小倉。ここで、乃木将軍は、秋月の乱平定に大活躍するのです。
そんな、小倉をもっと知ろう。と、今努力中です。
イメージ 1「乃木大将の居住地跡」
 
リバーウォークの南側です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから、出仕していたのですね。
 
イメージ 2
「歩兵第14連隊の跡」
 
図書館の近くにひっそりと建っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和3年、小倉北方に移転するまで、ここの地に歩兵第14連隊はあったそうです。
 
イメージ 3「奥保鞏生誕の地」
 
歩兵第14連隊の碑の横にあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ただ、あるブログをみますと、
「豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として生まれ、本家の養子となり家督を相続。馬廻知行三百石となり七郎左衛門と改名。小姓、物頭を勤める。
幕末の小倉藩士屋敷絵図によれば生家が分かる。
西顕寺の位置は現在も分かっておらず、今の浅香通りを南に進み、堺町二丁目の交差点の左角あたりがそうではないかと思う。奥利右衛門の名が絵図にはある。」
本来は堺町付近で生誕したものと思われます。
 
乃木希典、奥保鞏。
明治の軍人はなんて魅力的なんでしょう。
 

はなこ

花子です。
ヘルマンリクガメです。
めちゃくちゃかわいいです。
本当は、男の子が欲しくて、「かめきち」
という名前にしたかったけど、
いざ、手にしてみたら、この子が一番かわいかったのでそのまま買いました。
女の子だったので、「花子」と名付けてみました。
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みずな、食べ過ぎでしょう。
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頭隠して、尻隠してよ。
 
かわいい・・・・

久しぶりに

ひさしぶりのブログです。
 
北九州空港にサイクリングに行った時の写真。
こんな近いところにこんな絶景が。
イメージ 1
 
イメージ 2
 
海外旅行なんか行かなくても、こんな景色が見られるんですね。
 

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