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日田のたび1

はじまり
11月2日、3日と仕事が落ち着いていたので日田参りをしてきました。
2日は生憎の曇天。紅葉シーズンだというのに、夕方には雨も降ってきました。
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「曇天の松山」
遠征開始です。
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「豊前市」
天気がいいと、この高台から周防灘を見渡せるのですが、残念です。
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「県境」
福岡県と大分県の県境に流れるのは・・・
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「山国川」
この下流に先日いった中津城があります。
今回は、ひたすらこの川をのぼってゆきます。
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「国道212号線」
2012年7月13日にこの地方を襲った豪雨にて「青の洞門」も被害を受けたそうです。「青の洞門」に行ったことがなかったのでニュースを聞いてもあまりピンと来なかった記憶があります。
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「耶馬溪入口1」
 
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「耶馬溪入口2」
国定公園、耶馬溪の入口です。
北海道の「大沼」、静岡の「三保の松原」と並んで、新日本三景に選ばれています。
 
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「オランダ橋」
山国川にかかる、116mlの石アーチ式橋。
石アーチ式橋としては国内最大だそうです。
また、8連アーチ石造橋も我が国唯一のものだそうです。
美しいですね。
観光道路として架橋されたそうですが、軍事面では日出生台演習場への要路の考慮もあったと言われているそうです。
 
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「青の洞門1」
そしていよいよ、たどりつきました。「青の洞門」
 
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「青の洞門2」
連続した洞門の前後に信号があり、車を向こう側とこっち側で止めて片側交互通行をさせていました。
ということで、車が全く通らない、シャッターチャンスの機会がありました。
 
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「青の洞門3」
トンネルのことを日本語では「隧道」というそうです。
「洞門」とは、山肌などで、片側がひらけている通路をいうそうです。
 
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「青の洞門4」
やっぱり、迫力がありますね。
 
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「青の洞門5」
よく写真とかで見かける風景です。
迫力はあるのですが、いかんせん、天気が・・・
 
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「青の洞門6」
 
江戸時代、1750年ごろ、諸国遍歴の旅にでていた越後の禅海和尚がここに立ち寄り、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、一大誓願。ここに隧道を作り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工達を雇って、ノミと槌だけで、30年かけて堀抜いたといわれているそうです。
 
1750年の第1期工事の完成後には、通行人から4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われているそうです。
 
1906年ころには、陸軍日出生台演習場への輸送路整備のため、大改修が行われ、車両が通行できるようになったそうです。
 
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「禅海和尚の像」
この話を菊池寛が、「恩讐の彼方に」という短編小説で書いているそうです。
 
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「羅漢橋」
兎に角、この地方は、こういった石造りのアーチ橋が多いです。
もともとこの地方は、溶岩石が多く、多くの優秀な石工がいたそうです。
また、川は浅く広いため、このような石造りアーチ橋が有用であったそうです。
 
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「平田城跡」
鎌倉時代に宇都宮一族の野仲重房が築いたそうです。野仲氏の討伐に戦功のあった、黒田家の家老栗山利安(あの善助ですね。)が居城としました。利安の息子の利章が10歳まで過ごしたそうです。栗山家が福岡に移る1600年ころまで使われていたそうです。
ただ、今回はスルーしました。
 
 
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「耶馬溪1」
いい眺めです。天気が・・・
 
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「耶馬溪2」
山と川と紅葉。
 
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「耶馬溪3」
まさに、秋、「山装う」ですね。
 
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「耶馬溪4」
紅葉はいいですね。
 
いい気持に浸っていると、
前方に未確認飛行物体が。
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「かかし」
なんぢゃこりゃ?
山国地区は「かかし」の故郷をウリにしているらしく、山国支所に浮かんでいるPR風船です。
まさか、この風船は耶馬溪六十六景に入っていないだろう、と思いつつ、
 
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「耶馬溪5」
きれいですね。
 
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「大石峠」
ここが日田との市境。おそらく、212号線で一番高いところでないでしょうか。
ゆっくり登ってきた感じで、そこまで苦労はしませんでした。
 
ただ、このあたりから、大雨が。
私の、自転車遠征の際には必ず大雨が。
鹿児島しかり、唐津しかり、徳山しかり。
いつも水浸し。
僕は、鵜飼の鵜か!!
 
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「日田市境」
ついに日田領内へ
ここから、ノンストップで400mを駆け下るのですが、
兎に角、寒い。寒い。
薄着過ぎました。
ニセコのスキーより寒かったです。
真冬のゲンレンデ並。
 
 
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「日田駅」
何とか、日没前に到着。
雨は上がっていましたが、近くのスーパーで安いコートを買いました。
 
折角なので観光を。
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「豆田町1」
日没際で、逆に人が少なくて雰囲気を楽しめました。
 
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「豆田町2」
風情ありますね。
 
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「豆田町3」
人が多い時は、こんな写真撮れないでしょう。
と、調子にのっておりましたら、
 
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「咸宜園」
閉館していました。
咸宜園は言わずと知れた広瀬淡窓によって創立された私塾。全寮制。「咸宜」とは「みなよろし」という意味で、どんな身分でも男女を問わず受け入れていたそうです。
淡窓は、儒学者、漢詩人でしたが、咸宜園では、四書五経のほか、数学や天文学、医学のような様々な学問に関する講義が行われたそうです。毎月試験があり、その成績で一級から九級まで上がり下がりするそうです。
塾生は遠方からも集まり、その頃には日本最大級の私塾となり、80年間でここに学んだ塾生は4800人にも及んだそうです。
塾生には、高野長英、大村益次郎、清浦圭吾、上野彦馬など、そうそうたる顔ぶれがそろっています。
 
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「三隈川」
仕方がないので、寒い中、川を見に行きました。川を。
実は、この「三隈川」、筑後川のことなんですね。
 
筑後川の水源は阿蘇山外輪山。そこから、「田の原川」→「杖立川」→「大山川」となり、日田市で玖珠川と合流すると「三隈川」さらに下ると「筑後川」となり有明海へ。5回も河川名を変えるのだそうです。
 
日田で一泊することにしましたが、
急遽とったホテルが凄い。
ビジネスホテルで素泊まり6000円なのですが、最上階に展望風呂がありました。
冷えた体、疲れた足腰には最高のサプライズでした。
あの感動は忘れられません。
また、日田に来るときにはこのホテルに泊まりたいものです。
 
日田市内は日曜日のせいなのか、ほとんど人通りがなく、お店も少なかったです。
駅の横にお好み焼きやさんがあったので、そこで一人打ち上げしました。
結構おいしかったです。
その時、知人に日田に来た事をlineで知らせると、日田といえば「慈恩の滝」。そこに行けというのです。
地図で調べると直線距離でも11kmあるので、少し萎えていましたが、あまりにも勧めるので早起きをして「慈恩参り」をすることに。
 
3日、6時に起きて出発。
ひたすら、210号線を東へ、東へ。
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「天瀬町」
思えば遠くへ来たもんだ。
 
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「久大本線」
玖珠川、久大本線、210号が入り乱れながら東に進んで行きます。
 
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「210号線」
耶馬溪に劣らず、きれいな景色です。
 
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「観音の滝」
行きがけの駄賃と言ったら失礼ですが、道路のわきにひょっこりありました。
滝に紅葉が映えます。
 
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「天ケ瀬温泉郷」
雰囲気のいい温泉郷です。
 
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「210号線2」
このころから、すこしづつ天気が良くなってきました。
やっぱり、紅葉は陽光がないと映えませんね。
 
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「玖珠町」
「慈恩の滝」は天瀬町でなく、さらにその隣の玖珠町にありました。
そして、ついに。
 
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「慈恩の滝1」
きれいです。感動です。二段式の滝は初めて見ました。
 
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「慈恩の滝2」
渋みのある紅葉と、真っ白な滝と、真っ青な池。
爆音が無の境地に誘ってくれます。
早朝に訪れたので、観光客がまだ1,2組しかおらず、ほぼ独占状態。
 
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「慈恩の滝3」
爆音が聞こえてきそうです。
 
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「慈恩の滝4」
きゃー。大迫力。
そして、この滝の、最大の魅力が、「裏見の滝」。
 
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「慈恩の滝5」
滝の後ろに小さな洞があって、そこから、滝の裏からの景色が見られます。
こんな、景色、生まれてみたことありません。
 
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「慈恩の滝6」
圧巻です。
アドレナリンの大安売りです。
 
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「慈恩の滝7」
あの滝の向こう側に行っていたと思うと、興奮が冷めやみません。
正面から落ち着いてみると、やはり二段式は美しい。
 
いやあ、知人の推薦通り、ちょっと遠かったですが、「慈恩の滝」に来てよかったです。興奮しました。
 
来た道を戻って、また、日田、耶馬溪経由で帰ろうとも思いましたが、折角なので、このまま東へ向かって玖珠経由で中津に戻ることとしました。
また、210号線をひたすら東へ。
 
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「伐株山」
玖珠町内に、変わった形の山があったので採ってみました。
帰って調べてみると、この山の名前は「伐株山」「きりかぶ山」でした。
この山に関する童話があって、もともと、この玖珠盆地に木のてっぺんは天に届き、その影は有明海に届くといわれる大きな楠の木があったそうです。
この木のせいで、この地方一帯はいつも日蔭になっていたそうですが、ある日、一人の大男がやってきて、悪戦苦闘の末、その楠の木を切り倒したそうです。そのきりかぶ跡がこの山だそうです。これにより日が当たるようになって、日田、夜明、朝日、光岡などの地名が付き、楠の木から、「玖珠」になったそうです。
面白いですね。
 
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「玖珠川」
玖珠川に別れをつげ、387号線をひたすら北上。
 
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「387号線1」
天気がいいと、紅葉もきれいで、きつさも忘れます。
 
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「387号線2」
結構な坂が続きます。
 
いやあ、387号もなかなか紅葉がきれいです。
本当に疲れを忘れます。
 
つづく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

苅田めぐり

今月の週末は、決まって雨で、どこにも出かけられませんでした。
本当に久しぶりの天気でした。
ただ、午前中仕事があったので、近場の旅です。
前から登ってみたかった、松山城跡です。
「松山」
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北九州空港に向かう道路の付け根にあります。
128mの小さな山です。
 
「松山登山道入り口」
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「松山登山道入り口2」
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「松山城跡」
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山頂まで、僕の足で、15分くらいでしょうか。
階段状に、ほぼ全路、整備されているのですが、逆に歩幅が
合わずに歩きにくいような・・・。
 
「松山城跡2」
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うーん、歴史を感じさせますね。
 
「松山城跡3」
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ここに、城があったのですね。
 
松山城に関して。
時代はさかのぼり、740年。
太宰権帥、藤原広嗣が朝廷に反旗を翻した際(藤原広嗣の乱)に築かれたそうです。
940年には、藤原純友の乱の際に、神田光員の居城となります。そのご、神田家が在城していたが、1157年に平家によって滅ぼされ、その後、平氏の居城となります。1196年には、城井氏の始祖である宇都宮信房が支配。ここでも、松山城は激しい攻防の舞台どなり、長野氏当主の長野直盛が支配することになります。
その後、足利尊氏に従う小弐家にとってかわられます。
その後、周防の大内氏が豊前国への足掛かりとして松山城を重要視して、重臣の杉興信を守護代に命じ城主とします。
1398年には大友氏が反乱を起こし、城代の杉光治は討死。
しかし、大内氏も松山城奪回に成功し、杉光治の兄の杉弘信が入城。1551年まで、杉氏による支配が行われます。
1556年、大内義隆が陶隆房の謀反にあい自害。毛利氏に帰順するが、大友義鎮の支配下、田原親宏の攻撃にあい、杉重吉は討死、落城。
しかし、中国地方の雄に上りつめた毛利元就は、大内領であった北九州侵攻を開始。豊前国の要衝である松山城を攻略して、勇将・天野隆重、杉重良を入城させました。
1562年、松山城は再び、大友氏の攻撃を受けるが、足利義輝の仲介により、毛利氏と大友氏の間に和睦がなり、松山城は大友氏側に引き渡されます。
その後、長野祐盛が城主となりますが、毛利氏、大友氏が侵攻してくるたびに、その従属先を変えてゆきますが、最終的には、両氏から大規模な討伐を受け、長野氏も城を後にします。
入城した、杉重良ですが、今度は、なんと毛利氏に反旗を翻し、松山城を退去して、近くの簑島城に入ります。しかし、その後、杉重良は高橋元種の攻撃を受け討死します。
1586年、秀吉は九州征伐を開始。主力であった毛利軍が松山城に入ると、近隣の豪族であった、城井朝房、長野氏がこぞって基準。島津攻略後、松山城は黒田官兵衛の所領となり、関ヶ原以降は豊前国を拝領した細川忠興の所領となります。
1606年に廃城となり、800年におよぶ血みどろの歴史にに終止符が打たれることとなります。
 
というの事を、帰宅してから知りました。
すごくないですか?単なる、昔の、出先城というイメージしかなかったのですが、交通の要衝にあったことや、大内(毛利)と大友の所領の間にあったことから、これだけの攻防戦が繰り広げられた城なのです。
載っているだけでも 藤原→神田→平氏→宇都宮→長野→少弐→杉→大友→杉→田原→杉→長野→杉→黒田→細川。しかも、ほとんどが城を奪いとっているのです。
こんな凄い城だったとは知りませんでした。
正直、歴史的な価値としたら、伊予の松山城に勝るのではないでしょうか。言い過ぎか。
 
「貫山方向」
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「足立山方向」
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手前に曽根干潟が見えます。
美しいですね。
 
「苅田方向」
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「北九州空港方向」
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いやあ、そんな歴史を知っていたなら、もう少し、頂上で感慨にふけるべきでした。
この小さな山城をめぐっての、つわものどもの夢の跡を。
いや、物語りは隠れていますね。
 
景色を堪能して、下山です。
帰りがけの駄賃?
「苅田工業地帯」
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決して、北九州市と合併しない町。
それがわかる気がします。
 
下山後、苅田工業地帯を自転車でぶらっとしてみました。
「苅田工業地帯」
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無機質で、すこし不気味な感じもします。
でも、このような産業が日本を支えているのですね。
 
「苅田工業地帯2」
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本当に複雑な構造をしていますね。
ひとつひとつの構造にみんな意味があるのでしょうが、素人からみるとやっぱりすごいですね。
 
ここでもう一つの物語り。
「苅田発電所」
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以前、NHKのテレビニュースかなにかで、「苅田発電所」の再開がどうのこうの
というニュースで、アナウンサーが「かりた発電所」と呼んでいました。
ばかだなぁ、苅田「かりた」と書いて「かんだ」と読むんだよ。
と思っていましたが、なんと、
偶然看板をみたら「KARITA POWER STATION」と書いているでは
ないですか!!
あとで調べたら、1956年の発電所設立時には、町名は「かんだ」であったが、
駅が「かりた」であったため、そちらに合わせたそうです。
では、なぜ、駅名が「かりた駅」であったのか。
1895年に刈田駅(かんだ駅)として開業。
1907年に、苅田駅(かんだ駅)に変更。
1918年、東京の神田駅(かんだ駅)と紛らわしいため、苅田駅(かりた駅)となる。
1959年、やっぱりもとの苅田駅(かんだ駅)に。
ということで、40年近く、かりた駅と呼ばれていたそうです。
そのため、火力発電所は、いまだに「かりた発電所」なのです。
NHKは嫌いだけど、すごいですね!!
ちなみに、この火力発電所の新1号機は、世界最大級の加圧流動床複合発電プラントだそうです。
面白いですね。
 
「苅田工業地帯4」
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こんな大型船が、ほいほい現れます。
苅田もやりますねぇ。。。
 
「苅田町」
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本当に天気が良かったです。
宮崎っぽくないですか?
 
気持ちのいい、一日でした。
 
いや、物語りは隠れていますね。
 
おしまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

月食

平成26年10月8日は「皆既月食」の日でした。
周りでも盛り上がってました。
実際に、「皆既月食」をこんなに真剣に見たのは初めてでした。
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18時28分の月。すでに出遅れました。もう欠け始めています。
 
イメージ 2
18時43分。
 
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18時58分。
 
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19時22分。もう少しで。
 
イメージ 5
19時44分。完全に地球の影に隠れてしまいました。
実は、僕のカメラがバカチョンカメラなので、全く写ってはいない
のですが、薄っすらと赤銅色の満月が見えていました。
これは、地球の周りをとりかこむ大気によって、太陽光線の赤い光の
成分は、いくぶん屈曲をして地球の影の中に入り込んで来るから
だそうです。
非常に神秘的です。いいカメラがほしいです。
 
イメージ 6
20時32分。皆既月食は大体30分くらいだったでしょうか。
その後、月の向かって左側から満月が再び姿を現してきます。
 
イメージ 7
20時46分。
 
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21時00分。半分以上でてきました。
 
イメージ 10
21時23分。
 
イメージ 8
21時53分。
また、もとの、きれいな満月に戻りました。
 
凄いですね、1億4960万km後ろにある太陽と、38万km手前にある月とがまさに一直性になっておこる出来事です。スケールがでかいですね。
 
次回の皆既月食は平成27年の4月4日だそうです。
また、みたいものです。
 
おしまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

豊前紀行2

つづき。
 
イメージ 1「中津城」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中津城の続きです。
讃岐の高松城、伊予の今治城とともに、日本三大水城と呼ばれています。
きれいですね。
 
ということで、官兵衛シリーズを満喫しました。
中津といえば、福沢諭吉ですが、一万円札は好きですが、福沢諭吉自体はあまり好きでないし、以前も行ったことがあるので、スルーしました。
 
すると、この時点でまだ12時。
時間と体力を余らしていたので、豊前の求菩提山へ行くこととしました。
 
イメージ 2
「山伏像」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
現代語でいうと、「きもかわ」でしょうか。
いずれにしましても、山伏に歓迎されました。
 
路はそんなに急ではなく、なだらかな登り道が13kmくらい続きます。
少し、曇ってきましイメージ 3たが、それでも景色は和ませてくれます。
「求菩提への道」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みのりのシーズン。いたるところで稲刈りをしていました。
 
イメージ 4
「岩岳川」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中から、路の横に、「岩岳川」という川が合流してきました。
心なしか、神秘的な川に見えます。
 
イメージ 5
「岩岳川」2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山もそうですが、川も色々な表情を出しますね。
その中を、水は黙々と海に向かって流れてゆく。
川はいいですね。
昔は、山伏たちの喉を潤していたのでしょうか。
 
求菩提山は、なだらかな道を登っている間、ずっと見えないのですが、あるカーブを曲がると、どーんとその神秘的な山姿を現します。
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「求菩提山」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
右手前に見えるのが、求菩提山。真ん中奥が、犬ヶ岳。
イメージ 7
「求菩提山」2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
見れば見るほど、神秘的ですね。
求菩提山。修験の山としての縁起は「求菩提山縁起」によれば、526年に猛覚魔卜仙なる人物が開いたといわれます。782mの円錐形の山に、「一山五百坊」と呼ばれるくらい、山伏たちが集まっていたそうです。
そこから、護摩焚きの煙や、念仏の声などが立ち込めていたんでしょうね。
イメージ 8
「結界」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山頂を中心に上のように結界を張っていて、
イメージ 9
「東の大鳥居」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここに東の大鳥居があったそうです。
想像しただけでも神秘的ですね。
そして、
イメージ 10
「岩岳川と求菩提山」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本日のベストショットです。
あ、さっきもあったですか。
求菩提山が川に映えます。
イメージ 11
「水車と求菩提山」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なぜか、水車があったので、撮ってみました。
きれいですね。
残したい、日本の風景です。
イメージ 12
「彼岸花」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
路の途中に、赤い彼岸花はよく見かけるのですが、
白い彼岸花は初めてみました。きれいです。
 
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「求菩提山」3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本当は、頂上まで登ってみたかったのですが、時間の関係で(ウソです、体力の関係で)、資料館のあるこの場所で今回の求菩提参りは終了としました。
 
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「犬ヶ岳」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
犬ヶ岳を見ながら、岩岳川の横で、おにぎりを食べました。
至福の時です。
 
今度は、早めに出発して、求菩提山の中に入ってみたいと思います。
知人からは、秋の紅葉シーズンがとてもいい、と聞いております。
この秋、再度、求菩提参りをしようと思います。
 
帰りは、なだらかな下り坂。行きは1時間以上かかったのに、帰りは30分で下までおりれました。
 
帰りは、10号線でもなく、58号線でもなく、京築アグリラインという、広域農道を通って帰りました。結構アップダウンが激しく、ちょっと後悔しました。
 
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「求菩提山遠景」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
求菩提山遠景。求菩提山がなかなか遠くからわかりにくいのです。基本的には犬ヶ岳より低いので、山の形で見つけなくてはならないので。たぶん、真ん中のとんがり山だと思うのですが・・・
うん、そういうことにしておきます。
求菩提山、またお参りしますよ!
 
以上、2日間で、京築地区、満喫の旅でした。
でも、まだまだ、いろいろな物語が隠れている。そんな予感がしました。
 
おしまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

豊前紀行1

連日の快晴で、テンション上がり、また、自転車たびをしました。
13日に馬ヶ岳城跡に行ってきたので、官兵衛シリーズとして中津にいってきました。
 
イメージ 1「長峡川河口」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨日散策した長峡川の河口です。
大きな立派な川ですね。
 
ひたすら南へ。
イメージ 2「馬ヶ岳山」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
注目してみると、馬ヶ岳山って、どこからでも見えます。
本当に要衝の山なんだなぁと、あらためて思いました。
 
イメージ 3
「八景山」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨日登った、八景山です。頂上付近に護國神社が見えます。
 
イメージ 4
「築上町」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どうですか?この景色!
北海道ぽくないですか?
 
いつもは中津に行くときは、国道10号線を通るのですが、今回は県道58号線を通ってみました。
58号線、最高です。
車通りは多いのですが、直線で、舗装されているし、なによりも景色がいい!
イメージ 5
「城井川」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2週間前、上流までいった、「城井川」です。
青、緑、そしてまた青。
イメージ 6
「築上町」2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
58号線最高!
いままで損をしてました。10号線、さよなら。
 
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「県道58号線」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この道を、天気の日に車で通るなんてもったいないです。
絶対、自転車で通るべきです。
 
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「築上町」3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本日の僕のベストショットです。
 
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「築上町」4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こんな景色が続くのです。
 
そんな58号線も終わり、豊前市へ。
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「宇島駅」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここ豊前市には、小笠原藩の支藩の千束藩があったところです。
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「千束」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ということで、千束まで行ったのですが、1万石の風景はありませんでした。でも、帰って調べてみると、千束神社というところに城の跡を残しているそうです。しまった。今後、リベンジに訪れます。
 
そして、いよいよメインの中津城へ。
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「山国川と中津城」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5回目の訪問ですが、なんど来ても、きれいな城です。
イメージ 13「中津城」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
官兵衛効果で、兎に角人が多い。人、人、人。
 
で、ついて真っ先にいったのが、お城の横にある、「城井神社」。
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「城井神社」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
官兵衛のライバル、宇都宮鎮房を祀る神社。
城井谷城主、宇都宮家は、信房より鎮房に至る16台、およそ400年の間、豊前国主として徳政を布きました。
1587年5月、豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前6郡を官兵衛に、2郡を毛利勝信にあたえ、鎮房には四国今治(12万石)移封の命令を出します。鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、命に背いたため、宇都宮一族は官兵衛、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦では長政を敗走させます。
そこで、秀吉は官兵衛と謀り、所領安堵を条件として長政と鎮房の息女、鶴姫との婚を約し、和睦します。
ところが、1588年4月20日、鎮房は、中津城に酒宴に招かれるのですが、その席で謀殺されます。
そのまた、鎮房の父・長房も城井谷城に攻め寄せた黒田勢に殺害されます。嫡男の朝房は一揆鎮圧のために官兵衛と同行して出陣中であった肥後で暗殺。鶴姫は長政によって13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされ殺害されます。
おのれー、官兵衛です。
2週間前、城井谷を訪れてからは、宇都宮一族ファンですので、まさに、悪!官兵衛、あっかんべーです。
1891年、長政は深く感ずるところがあって、場内に守護紀府、城井大明神として鎮房を祀り、福岡移封後は、その地に警固大明神として祀ったそうです。
一節には、鎮房の霊が夜な夜な中津城に現れ、長政を悩ましたそうで、このような神社を建てたとか。
まずは、そちらからお参りをしました。
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「中津城」3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本当にきれいです。
さすがは、官兵衛、といいたいところですが、今のは模擬天守で、昭和39年に、萩城天守を参考に作られたそうです。残念。でもきれい。
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「中津城」4
 
 
秋空に
天守をのばす
中津城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「中津城最上層」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
行橋方向を望みましたが、残念ながら馬ヶ岳山は確認できませんでした。
貫山、平尾台は確認できましたが・・・
 
鎮房の霊も確認できませんでした。
 
つづく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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