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小川 又次

いや、読み終わりました。
一気に読みました。
 
 
イメージ 1「篠原 昌人著 
 陸軍戦略の先駆者 小川又次」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
面白かったです。
小川又次(またじ)は、ここ小倉の出身。1848年8月22日生まれですから、乃木大将の1つ上、同郷の奥保鞏元帥の1つ下になるのでしょうか。
 
小倉藩士、小川兼宣の長男として小倉城下の葭原で生まれます。現在、この葭原という地名はありませんが、おそらく、現在の足原なのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
イメージ 2
「小倉北区 足原」
 
 
小川又次も幼少期、足立山を見上げていたのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、江川熟で学び、小倉藩兵として、奥元帥(為次郎)と小川又次(助太郎)は、我ら長州藩と戦うのであります。
なかでも、激戦といわれたのが赤坂の戦い。
ちょうど、鳥越峠からなだらかな丘陵が関門海峡に飛び出たような恰好になっており、ここを突破されたら小倉城は目と鼻の先という場所です。
 
 
 
 
イメージ 3
「赤坂から小倉市街」
 
うーん、やはり目と鼻の先です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここに、激戦のあとを記した碑があります。
イメージ 4「慶應丙寅激戦の址」
 
と書かれてます。
 
 
ここで、熊本細川藩の猛攻を受け、長州兵は次々に倒れ、一時撤退を与儀なくされます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、小川又次は、大阪の兵学寮に入り、台湾征討を経て、歩兵第13連隊大隊長(熊本)となり西南戦争に出征します。ちなみに乃木大将は歩兵第14連隊大隊長(小倉)でした。
 
ここで、小川又次は谷干城司令官の元、薩軍の囲みを突破するなど、奥保鞏とともに獅子奮迅の働きをするのであります。
 
そして、参謀本部第2局長(作戦担当)に就任します。ちなみにこの時の参謀本部第1局長(編制動員担当)は、かの児玉源太郎です。
 
 
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル
 
この年、あの、クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの講義を聞き、メッケルから「児玉か小川が優秀」と言わしめます。そして、野砲・山砲の使い方に関して、こともあろうにメッケルと激論を交わすのであります。恰好よすぎます。メッケルは狭い日本の風土を考え身軽な山砲使用論、小川は重厚な野砲論。
 
メッケルはその後、、「日本陸軍にオガワあり。彼の人は、作戦の何たるかを理解せり。ただし、その器局の狭いことを遺憾とする。」と述べたそうです。
 
創作かもしれませんが、本の中で、第一軍参謀長として出征した、日清戦争、田庄台の戦いで、小川又次が野砲を集中させて勝利した際に、「野砲の威力かくの如し。メッケル親父、思い知ったか。」と叫んだのは痛快ですね。
 
小川又次は作戦立案能力にたけていたため、川上操六から、上杉謙信になぞられて「今謙信」と評価されました。ちなみに、小川又次のライバル田村怡与造は「今信玄」と呼ばれてました。
 
そして、ついに、1897年、陸軍中将に進み、1903年、日露戦争では、第二軍奥保鞏司令官の元、第4師団長として、南山の戦いで大活躍をします。敵左翼への集中攻撃を進言し、攻略の糸口を作ります。弱小?第8連隊が小川師団長の元、活躍するのです。
その後、遼陽会戦で負傷し、師団長を辞して帰国。
 
1909年10月20日、62歳で没し、正二位に叙されました。
 
そのお墓が、小倉北区の菜園場という地名の共同墓地にあります。
 
 
イメージ 5「小川又次 墓」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「為朝墳」と、どっしりと書かれております。
源為朝を父祖とする小川又次が生前に、生まれたこの小倉の地に建てたそうです。
 
 
イメージ 6
「為朝墳 からの眺め」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今は、都市高速に囲まれておりますが、小高い丘の上にあり、昔は相当、見晴が良かったのではないでしょうか。
その、周囲に、碑文が刻まれております。
正面から時計回りに
 
 
イメージ 7
「東側」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為朝墳之記
清和天皇第六ノ皇子貞純親王第八垚(?)
ノ孫贈内大臣源為義ノ第八子鎮西八
郎為朝第三十世ノ商孫小川又次謹テ
此連山ノ地ヲト曩祖為朝公竝ニ家
祖為次公以下二十六垚(?)ノ霊位及ビ曽
祖父為利公祖父利兼公先考兼宣公等
ヲ首ノ一族男女ノ遺骨ヲ合葬シテ以
 
 
 
イメージ 8
「南側」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テ永世祭祀ノ所ト為ス夫レ曩祖公ノ
伊豆大嶋ヲ出テ豊前ニ来ルヤ一子ヲ
舉テ此ニ苗ム為次公是ナリ爾来氏ヲ
小川ト稱垚(?)垚(?)企救郡ノ郷土タリ刈
田蒲生金田菜園場ノ數荘ニ転住シ小
笠原氏小倉城主ト為ニ及ビ其藩士
二列ス降テ又次ニ至リ
皇室中興ノ盛運ニ際會シ中外ノ戦役
 
 
 
イメージ 9「西側」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニ従軍シ勲位爵禄ノ優恩ニ浴ス是レ
蓋シ先考先妣遺徳ノ致ス○(?)抑モ又曩
祖忠孝ノ餘慶ニ由ルモノナリ因テ此
墳ヲ號シテ為朝墳ト稱ス後嗣子孫其
レ念祖報本ノ志業ヲ懈ル勿レ
 
明治三十五年八月十日
陸軍中将 従三位 勲二等 功三級 男爵 小川又次記
 
 
写真を頼りに描出してみました。
疲れましたが、なかなか面白いですね。
本当に、先祖に対する思いが伝わってきます。
 
最後に著者があとがきで、
この明治という、生まれたての、何かしら、誇らしげな時期を生き抜いた人々を
書きたかったと。
また、
高浜虚子の句
「明治とは 誇らしき名や 春の風」
を引用しています。
 
確かに、明治期の人は、何かしら、肩肘張って、窮屈そうだけど、どこか、楽観的で、誇らしげな感じがします。
 
いい本でした。もっと、みんなに知ってほしいです。、
 
 
 

国境石2

続きです。
「高見3丁目の国境石」からさらに
イメージ 1
「道くだる」
 
この辺は、もうすでに、「戸畑区」から、「八幡東区」に入っていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2「高見の住宅地」
 
北九州のビバリーヒルズです。
 
おそらく、この通り付近に国境があたのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、この高級住宅地、坪単価も高いでしょうが、その中に・・・・
イメージ 12「三条の国境石」
 
 
いいですね。今回4個目です。
 
こういう遺産をしっかり残しているのはいいですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから、おそらく、国境は「板櫃川」に重なると考えます。
イメージ 13「板櫃川 大蔵橋」
 
 
ここから、田代を目指します。
 
かつて、河内貯水池参りで、自転車でよく上った道ですが、まさか、国境探索で、またこの道を上るとは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14「板櫃川」
 
ちっこい水車。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15「板櫃川」
 
 
もう少しで、河内貯水池です。
 
さすがに、足が疲れてきた頃です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16
「板櫃川」
 
 
自然界のにくい演出です。
疲れてきた頃の、この景色です。
 
 
北九州大好き!!
日本大好き!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17
「河内貯水池」
 
新日鉄が管理を行う民間企業が所有するダムです。民間のダムなんですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1914年、第一次世界大戦により鉄鋼物の需要が増え、対処するため板櫃川をせき止め、1919年に着工。なんと、その、8年後の1927年に竣工。石造りの立派な造りで、かつて東洋一のダムを誇ったとのことです。かっこよすぎます。
 
イメージ 18
「南河内橋」
 
河内貯水池名物、めがね橋です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19
「さらに上流」
 
 
って、今回の目的は河内貯水池ではありません。
 
さらに上流を目指します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
「田代地区」
 
 
さらに山奥に田代地区はあります。
 
この付近に3個の国境石があるとの情報が。
 
これで、全部で7個。
シェンロンが出てくるのかぁ???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4「田代の看板」
 
ありました。
これで、残り3個は間違いない。
 
 
この案内板を、写真に収めて、側壁のナビゲーターにしました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
「病院内」
 
 
ありました。
国境石、5個目。
 
ただ、この国境石。病院の敷地内にあります。関係者以外立ち入り禁止の看板があったので、ためらっていたら、たまたま、近くで工事をしていいた方が、怪しそうにしていた僕を、招き入れてくれました。
 
ありがとうございます。僕、怪しくてよかった!!
 
 
 
ただ、今までの国境石と違って、庭石みたいな感じです。恐る恐る、裏に回ると・・・・
イメージ 6
「病院内」
 
間違い、ありません。
 
 
あと、二つ。
 
 
いかんですね。
なんだか、ここまで来ると、国境に思いを馳せるより、とにかく、国境石を見つけたい、そんな、宝探し的感覚になってました。
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
「国境石 入口」
 
 
実は、案内板の地図が、かなりトリッキーで、この獣道が、しっかり道路のように描かれているのです。
 
これを道路のように書かないでよ。
 
この入口を探すのも苦労しました。
 
では、入山!!
 
 
 
 
 
 
数十メートル進むと、
イメージ 8
「国境石」
 
 
ゲットしました。6個目。
しっかりと、
「従是西筑前国」と書いてあります。
 
 
こんな山奥にまで。
 
紛争が存在していた証ですね。
 
 
 
 
 
 
 
あと、一つで、ミッション終了。
しかし、
イメージ 9
「山また山」
 
 
ゆけども、ゆけども、
のぼれども、のぼれども、
 
最後の国境石がみつかりません。
 
 
もう、あのしょぼい案内板の地図はあてになりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
「ちょっとした山頂」
 
 
しまいには、上りすぎて、ちょっとした山頂まで来てしまいました。
 
 
さすがに、これ以上先に国境石がある雰囲気がありませんでした。
 
日も、落ちかけておりましたので、7個目の国境石はあきらめました。
 
次回の宿題に。
 
 
 
あー、シェンロンが・・・
 
なんていうのは冗談ですが、本当に、壮大な物語でした。
人間っていうのは、国境を含めた、縄張りというのを明確にしたがるものなんですね。
200年近く前の、その当時の人にとっては命がけの境界線だったのでしょうが、なんだか今考えると、微笑ましくもあります。尖閣諸島、竹島、北方領土に比べると、本当に、小さな小さな境界線ですね。
 
一つの町に、こんなに明瞭に国境線があるのは、非常に珍しいと思います。
なんて、楽しい町なんでしょう。
いや、物語はかくれてますねぇ。
 
イメージ 11
「合馬地区」
 
 
田代から合馬地区に抜けて、帰宅しました。
 
紫側です。
 
 
北九州、いいですね。
 
日本、いいですね。
 
 
 
 
 
あー、7個目、見つけられなかったの思い出した。くやしぃーです。
 
 

国境石

またまた、写真の整理
 
北九州市在住なmので、またまた北九州市ネタを。
北九州市、もともと、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市、門司市の5市が1963年に合併して、現在の北九州市になりました。ちょうど、今年が合併して市制50周年ということで、色々なイベントがあったようですが、今一つ盛り上がりに欠けていたようです。
その原因の一つに、今一つ、北九州市民は、市民全体の一体感にかけるところにあると思います。その原因は、所詮、ライバル同士であった5市が合併したからまとまりがないのかと思っていましたが、もっと根が深いようです。
原因は、もともと北九州市を構成している地区が、まったく違う国だったということです。それどころか、敵対する国同士の一部が同じ市民になってしまったところに悲劇?があるのです。
つまり、北九州市の半分から東は、旧豊前藩。西は、旧筑前藩。豊前藩は細川氏の後、国入りしたのが小笠原氏。豊前に入国したのは小笠原忠真。播磨国明石藩より入封しました。忠真は徳川家康の外曾孫で、母親は松平信康の娘であり、バリバリの譜代大名なのです。というか、ほぼ親藩です。一方、筑前・福岡藩は、言わずと知れた、外様の中の雄藩、黒田藩なのです。譜代と外様の藩。かつての藩は、ほぼ異国ですから、その住人が一つの「市」という狭い自治体の中にいるのです。いくら現代は、人の出入りが流動的とはいえ、まったく違う風土が100万(弱)都市を形成しているのは、日本広しと言えども、北九州市だけなのではないでしょうか。
では、豊前と筑前の境目はどこなのでしょう。
ということで、物語探しをしました。
例によって、僕の愛車の自転車「璞号」で。
 
イメージ 1「境川交差点」
 
 
 
戸畑区と小倉北区の境目。
その戸畑区側です。
 
 
この小倉川に、境川という、まさに豊前と筑前の境目になる川があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2「境川河口」
 
境川の一番海側です。
 
こっから物語が始まります。
 
向うに見えるのが新日鉄八幡の戸畑工場。
 
「お汐井汲みの場」という碑が立ってます。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11
「境川」
 
 
上ってゆきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12
「境川橋」
 
都市高速下にある橋です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、その「境川橋」の少し上流に
今回の物語の主人公ともいうべき「国境石」です。
イメージ 13「江口の国境石」
 
 
「従是西筑前国」
と書いております。
 
福岡藩が天保12年、1841年に建てたものだそうです。
 
銘文の筆者は、福岡藩の書家、二川方作という方だそうです。
 
これはレプリカで、本物は、北九州市立「いのちのたび博物館」にあるそうです。行ったことがありますが、気づきませんでした。
 
 
 
イメージ 14「JR 鹿児島本線」
 
もくぐってゆきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15「境川」
 
上流を目指します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16「境川と鳥」
 
なごみます。
 
何の鳥かはしりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17「境川」
 
いい天気です。
 
でも、このあたりの「中原地区」が豊前と筑前の大紛争地帯だったそうです。
 
昔は、これより大きい川だったのでしょうが、目と鼻の先ですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18「境川」
 
これを、川と呼んでいいのでしょうか。ほぼ、溝です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
「両国橋」
 
境川にかかる小さな橋です。
豊前国と、筑前国の両方にかかる橋だから、両国橋???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
「境川」
その後、境溝、もとい、境川は、3号線バイパスの手前でついに、姿を隠します。
 
 
ただ、おそらく、川の流れであろう方向に向かってゆくと・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
「金毘羅池」
 
非常に整備された池に出ます。
 
池の周りはちょっとしたランニングコースになっており、家族連れや、アベックが池を眺めながら、楽しんだり、くつろいだりしていました。
 
その中、黙々と、調査したら・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
ありました。今度はなんと、池の中に
イメージ 6「金毘羅池の国境石」
 
2個目の国境石です。
 
金毘羅池にある事は知っていましたが、この池が以外と大きいので、探すのに以外に時間がかかりました。
 
だれも、見向きもしてません。
 
それを写真で撮るのは、ちょっと気持ちいいです。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7「案内板」
 
「金毘羅池の国境石」の案内板に、他の国境石の情報が、地図付きで載ってました。
 
ここで、さらに情報ゲットです。
 
なんだか、昔やった、テレビゲームのドラゴンクエストみたいです。
 
物語はまだまだ続きます。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8
「おそらく国境であろう道」
 
この辺は、どこが国境かはわかりません。
 
ただ、次の国境石を目指すための、最短路を走っているだけです。
 
でも、200年も前の国境を想像しながら、現代の道を走るのは本当に楽しいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9「皿倉山」
 
豊前国からみる、筑前国の山です。
 
今まで、「皿倉山」をこんな見方をして眺めたことはありません。
 
なんて新鮮なんでしょう!!
 
楽し過ぎます。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、
イメージ 10
「高見3丁目の国境石」
 
本日3個目の国境石です。
 
ドラゴンボールにも似てきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第2話につづきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

軍艦防波堤

写真の整理をしようと思います。
5月3日の写真です。
北九州市在住の私にとって、北九州市は色々なものが隠れているので飽きません。
今日は、こんなものはいかがでしょうか。北九州市民97万人でも知っている人はわずかなのでは。
という私も全然しらなかったのですが・・・
 
若松区の響灘大橋を渡って右側の方に向かってゆくと、洞海湾に面したところに通称「軍艦防波堤」というものがあります。ふと、北九州市を紹介する雑誌に目を通したら、たまたま載っておりました。これは、いかねば。
 
大東亜戦争後、多くの艦艇は戦時賠償として連合国に引き渡されるか解体されるかしましたが、何隻かの艦艇は解体された船体が防波堤として利用されました。
 
運輸省第4港湾局により構築された長さ770mの防波堤のうち、約400mを、駆逐艦「涼月」「冬月」「柳(初代)」の3隻の船体を沈設して作られたそうです。
 
 
 
イメージ 1「軍艦防波堤」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
「軍艦防波堤」
 
説明がこれっぽっちです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5「軍艦防波堤 柳」
 
何度も風害等もあり、完全にコンクリートで補強されたそうです。
 
ただ、原型は認めますね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6「軍艦防波堤 柳」
 
かつて、大海原の波を切って航海した駆逐艦なのでしょうが、寂しいものですね。
 
むしろ地面に固定されるよりは解体された方が幸せだったのでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駆逐艦「柳」。桃型駆逐艦の一つ。1917年5月5日に佐世保海軍工廠で竣工。地中海遠征に参加。1940年4月1日に除籍。佐世保海兵団の練習船として使用。同型駆逐艦に「桃」、「樫」、「檜」があります。
 
 
同型駆逐艦「檜」
 
 
問題は「涼月」「冬月」です。
 
イメージ 7「軍艦防波堤 地図」
 
軍艦防波堤はこのように構築されており、「涼月」「冬月」は完全にコンクリートの下に隠れてしまっているようです。
 
つまり、想像するに、
 
 
 
 
 
イメージ 8おそらく「涼月」
 
 
面影もへったくれもありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
でもって、
イメージ 9
おそらく「冬月」
 
停泊中の輸送船がうらやましい、うらめしいでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかも、この2隻、申し訳ないですが「柳」どころではない重要な駆逐艦なのです。
 
昭和20年4月7日、帝国海軍が発動した天一号作戦の一環として、沖縄への水上特攻に向かう戦艦「大和」、および軽巡洋艦「矢矧」を護衛する8駆逐艦の内の2隻なのです。
歴史的重要性としてははるかに高いと言わざるを得ません。
 
いわゆる「坊の岬沖海戦」で「大和」「矢矧」沈没の際に、「冬月」中破、「涼月」大破しながらも帰還しています。
 
「冬月」は舞鶴海軍工廠で昭和19年5月に竣工。その後、10月に遠州灘沖でアメリカ潜水艦「トレンパン」の魚雷に被弾。呉海軍工廠で修理後、空母「隼鷹」の護衛としてマニラへ。そして、昭和20年4月7日、坊の岬沖海戦にて中破の被害。直撃弾2発を受けてます。戦死12名、戦傷12名。駆逐艦「霞」の乗員を救助したのち佐世保に帰投しました。その後は、第7艦隊の指揮下に入り、関門海峡と対馬海峡の哨戒に任じました。7月23日には、関門海峡への機雷投下作戦で飛来したB-29の編隊に対して対空射撃を行い、そのうち、1機を撃墜しています。8月15日を、門司港で迎えましたが、5日後の20日に門司港内で触雷して航行不能となり最後は、工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就いています。
 
 
「冬月」の在りし日の雄姿
 
 
「涼月」は長崎・三菱造船所において昭和17年12月29日に竣工しています。第三艦隊、あの小沢治三郎中将の艦隊に配属され、第十戦隊第61駆逐体に属しました。その後、トラック、パラオ、マーシャル群島で護衛任務に活躍します。あの「い」号作戦でも、トラック島からラバウルまで、パイロットや整備兵の輸送の護衛についています。昭和18年5月17日には、戦死した山本五十六元帥の遺骨を載せて日本に向かう戦艦「武蔵」の護衛についています。再び、トラック、ラバウル、マーシャルなどで、軽巡洋艦「鹿島」や空母「瑞鶴」などの護衛の任についています。昭和19年1月15日、ウェーク島への輸送船護衛の際、沖ノ島西方海上で、アメリカ潜水艦「スタージョン」の攻撃を受けます。乗組員多数死亡し、「初月」に曳航されてかろうじて呉に帰投してます。修理後、今度は都井岬沖でアメリカ潜水艦「ベスゴ」の雷撃を受け、すぐさま呉に帰投しております。そして、昭和20年4月7日を迎えます。艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰投。戦死者57名、戦傷者34名です。この際、佐世保港で係留中にも浸水が止まらなかったので、大急ぎでタグボートが手配され乗り組み員を収容したそうです。大破した前方区画の内、前部弾薬庫は区画内部からの防水処置がなされた為、沈没を免れました。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、その区画内部で酸欠死している状態で発見されたとのことです。戦争を通じて3度の被害にあったがいずれも生還し、「秋月」型駆逐艦の中で一番の長命であったとのことです。佐世保船舶工業で解体し軍艦防波堤となりました。
 
坊の岬沖海戦での「涼月」
 
 
このような歴史ある艦艇を防波堤にするのはまだしも、完全に埋立てしまい、まさに歴史の中に埋もれさせてしまう日本人の感覚はいかなるものでしょうか。
人はこのような帝国海軍の艦艇をすぐに「負の遺産」「負の遺産」と煙たがります。「負の遺産」として片づけるのは簡単です。でも、この艦艇を愛し、この艦艇を必死に守った日本人がいる。この愛する艦艇に搭乗し、愛する祖国を守ろうとした日本人がいる。このような日本人がいたからこそ、現代の日本人が存在しているということを考えると、「負の遺産」として簡単に片づけようとする現代の日本人こそ「負の遺産」と言わざるを得ません。
 
 
イメージ 10「戸畑方面」
 
軍艦防波堤から遠く戸畑方面をのぞみます。
 
先人たちがいたからこそ、戦後日本は、どの国にも支配されず(実質はアメリカの属国かもしれませんが)、経済発展をとげ、平和を謳歌しているのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11「高搭山より軍艦防波堤方向」
 
すみわたる青空です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
「高搭山より」
 
若松市街が一望です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4「慰霊碑」
 
 
高搭山中腹にひっそりと建っていました。
 
3艦艇の歴史が刻まれていました。
立派な石碑でした。
安心しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大東亜戦争末期の特攻作戦に参加した艦艇達に、まさかここ北九州で会えるとは思ってもみませんでした。ただ、その雄姿はコンクリートの下にありましたが・・・。
意外なところに物語りは埋もれてます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

宇佐めぐり2

続きです。
イメージ 7
「宇佐航空基地 滑走路あと」
 
ここから、戦闘機が離着陸していたそうです。
周防灘へまっしぐら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8「柳ヶ浦小学校」
 
もともと国民学校だったようで、数多くの人が避難していたようです。
 
宇佐は航空基地があったため、B-29の標的になっていたようで、実際に壁に機銃掃射の弾痕が残っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9「弾痕」
女・子供が避難している国民学校にまで機銃を向けるとは。
 
アメ公、許せじ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10「柳田何某の石碑」
 
空襲で、真っ二つです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11「忠霊碑」
 
宇佐航空隊の、特攻隊の忠霊碑です。ひっそりとありました。
 
誰も気づかないような場所に建ってました。
ただ、新鮮なお供え物があり、日本もまだまだ捨てたものではないなと思いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12「エンジン調整室」
だそうです。
 
こちらも、貴重な戦跡なのに、一般人の物置になってます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「通信室」
だそうです。
草、ぼうぼう。
保存する気あるのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14「レンガの建物」
何の、建物かはわかりません。
ただ、壁に所せましと、機銃掃射の跡が残っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1「レンガの建物」
 
弾痕。
畜生、アメ公め!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2「電信室」
 
何も知らない、平成の子供たちが、電信室跡で遊んでました。
何の、建物だったかも知らずに。
 
父祖達が、命がけで守った、この祖国に感謝する心を、この子ども達もいずれ自覚してくれるのでしょうか?
 
なんか、現代を象徴するような1枚ですね。
 
 
 
 
 
 
イメージ 3「宇佐航空基地 遠景」
 
天気は悪かったですが、のどかな田園風景です。
 
とても、ここに一大航空基地があって、多くの人々が「祖国を守る」という共通の目標に向かって、純粋に、必死に、手と手を取り合って生きていたとは・・・
 
この田園一帯に莫大なるエネルギーが存在していたのですね。
 
 
 
 
 
 
いつものプチ旅行のように、今回も本当に思いがけない発見ばかりでした。
本当に自転車に出会えた事を感謝してます。
自転車最高です。
 
宇佐市は、宇佐八幡宮がやはりメインです。日本全国の八幡総本山なのですから。でも、双葉山しかり、宇佐航空基地しかり、見どころ満載です。
双葉山の求道心は、文章では知ってましたが、やはり、その現場に行くと伝わってくるものが違います。
宇佐航空基地跡も、もう少し整備されていればもっといいのでしょうが、祖国を守った人々の息遣いを感じることができました。大東亜戦争は決して遠い過去の話ではないのです。実際に掩体壕は民家の横に存在するし、弾痕の残る建物は普通に住宅地にあるのです。どうして、現代の日本人は、このような戦跡をみて「我々の先祖が、必死な思いをして祖国を守ろうとしていたんだな。」という発想で考えないのでしょう。米国の非道な絨毯爆撃に対して、一死報いようとして、虎の子の戦闘機を守るために掩体壕を作った、そんな日本人の心意気をなんで評価しないのでしょうか。
戦争が良くないのは当たり前です。そんなの、改めて言う必要がないくらい自明のことです。わざわざ「戦争はよくないです。」って、街頭で高らかに謡うやからは、それを堂々と言っているのが、はたから見てこっちが恥ずかしいくらい当たり前のことです。
でも、大事な人を守るため、大事な祖国を守るために立ち上がらなくてはならない時があるのです。それを実践して散華していった人々になぜ感謝しないのでしょうか。
 
 
イメージ 4「滑走路跡地のモニュウメント」
 
定番の、安っぽいモニュメントです。
なんでしょうか。
平和への願いっていうのは。
 
完全に宇佐海軍航空隊滑走路跡が、「負の遺産」として扱われています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みんな、「戦争」の反対を「平和」と勘違いしてます。
「戦争」をしていたって、本当に民族が団結して、人と人とのつながりが強ければ「平和」という状態はありうると思います。
「戦争」の反対は「交渉」。同じ、外交用語なのです。
「平和」の反対は「混沌」「混乱」。
よっぽど、現代のほうが、「平和」と反対の道を進んでいるのではないでしょうか。
 
なんて、思いを馳せながら、宇佐から帰宅の途に就きました。
たった、10時間程度のプチ旅行でしたが、充実したものとなりました。
「いまだ木鶏たりえず」 個の境地に少しでも近づきたいものです。
 
 
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「虹」
 
帰宅の途中、大雨にあいました。
いわゆるゲリラ豪雨というやつでしょうか。すぐにやみました。
 
ふと東の空を見上げると、うっすらと虹がかかってました。
 
虹をみたのなんて、いつ以来でしょうか。
本当は見ていたのかもしれませんが、気づかなかった、認識していなかっただけなのかもしれません。
 
 
 
 
ちょっと足をのばせば、もとい、タイヤをのばせば、物語っていっぱい落ちているものですね。
高級な車も、海外旅行もいりません。
「近所にある小さな物語を、愛車にのって探しに行く」
これで十分です。イメージ 6
 
 
 
「花子」
 
「ま、ご勝手に。」
って言ってそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おしまい。

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