過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

苅田めぐり

今月の週末は、決まって雨で、どこにも出かけられませんでした。
本当に久しぶりの天気でした。
ただ、午前中仕事があったので、近場の旅です。
前から登ってみたかった、松山城跡です。
「松山」
イメージ 1
北九州空港に向かう道路の付け根にあります。
128mの小さな山です。
 
「松山登山道入り口」
イメージ 2
 
 
 
「松山登山道入り口2」
イメージ 3
 
 
「松山城跡」
イメージ 4
山頂まで、僕の足で、15分くらいでしょうか。
階段状に、ほぼ全路、整備されているのですが、逆に歩幅が
合わずに歩きにくいような・・・。
 
「松山城跡2」
イメージ 5
うーん、歴史を感じさせますね。
 
「松山城跡3」
イメージ 6
ここに、城があったのですね。
 
松山城に関して。
時代はさかのぼり、740年。
太宰権帥、藤原広嗣が朝廷に反旗を翻した際(藤原広嗣の乱)に築かれたそうです。
940年には、藤原純友の乱の際に、神田光員の居城となります。そのご、神田家が在城していたが、1157年に平家によって滅ぼされ、その後、平氏の居城となります。1196年には、城井氏の始祖である宇都宮信房が支配。ここでも、松山城は激しい攻防の舞台どなり、長野氏当主の長野直盛が支配することになります。
その後、足利尊氏に従う小弐家にとってかわられます。
その後、周防の大内氏が豊前国への足掛かりとして松山城を重要視して、重臣の杉興信を守護代に命じ城主とします。
1398年には大友氏が反乱を起こし、城代の杉光治は討死。
しかし、大内氏も松山城奪回に成功し、杉光治の兄の杉弘信が入城。1551年まで、杉氏による支配が行われます。
1556年、大内義隆が陶隆房の謀反にあい自害。毛利氏に帰順するが、大友義鎮の支配下、田原親宏の攻撃にあい、杉重吉は討死、落城。
しかし、中国地方の雄に上りつめた毛利元就は、大内領であった北九州侵攻を開始。豊前国の要衝である松山城を攻略して、勇将・天野隆重、杉重良を入城させました。
1562年、松山城は再び、大友氏の攻撃を受けるが、足利義輝の仲介により、毛利氏と大友氏の間に和睦がなり、松山城は大友氏側に引き渡されます。
その後、長野祐盛が城主となりますが、毛利氏、大友氏が侵攻してくるたびに、その従属先を変えてゆきますが、最終的には、両氏から大規模な討伐を受け、長野氏も城を後にします。
入城した、杉重良ですが、今度は、なんと毛利氏に反旗を翻し、松山城を退去して、近くの簑島城に入ります。しかし、その後、杉重良は高橋元種の攻撃を受け討死します。
1586年、秀吉は九州征伐を開始。主力であった毛利軍が松山城に入ると、近隣の豪族であった、城井朝房、長野氏がこぞって基準。島津攻略後、松山城は黒田官兵衛の所領となり、関ヶ原以降は豊前国を拝領した細川忠興の所領となります。
1606年に廃城となり、800年におよぶ血みどろの歴史にに終止符が打たれることとなります。
 
というの事を、帰宅してから知りました。
すごくないですか?単なる、昔の、出先城というイメージしかなかったのですが、交通の要衝にあったことや、大内(毛利)と大友の所領の間にあったことから、これだけの攻防戦が繰り広げられた城なのです。
載っているだけでも 藤原→神田→平氏→宇都宮→長野→少弐→杉→大友→杉→田原→杉→長野→杉→黒田→細川。しかも、ほとんどが城を奪いとっているのです。
こんな凄い城だったとは知りませんでした。
正直、歴史的な価値としたら、伊予の松山城に勝るのではないでしょうか。言い過ぎか。
 
「貫山方向」
イメージ 7
 
 
「足立山方向」
イメージ 8
手前に曽根干潟が見えます。
美しいですね。
 
「苅田方向」
イメージ 9
 
 
「北九州空港方向」
イメージ 10
 
いやあ、そんな歴史を知っていたなら、もう少し、頂上で感慨にふけるべきでした。
この小さな山城をめぐっての、つわものどもの夢の跡を。
いや、物語りは隠れていますね。
 
景色を堪能して、下山です。
帰りがけの駄賃?
「苅田工業地帯」
イメージ 11
決して、北九州市と合併しない町。
それがわかる気がします。
 
下山後、苅田工業地帯を自転車でぶらっとしてみました。
「苅田工業地帯」
イメージ 12
無機質で、すこし不気味な感じもします。
でも、このような産業が日本を支えているのですね。
 
「苅田工業地帯2」
イメージ 13
本当に複雑な構造をしていますね。
ひとつひとつの構造にみんな意味があるのでしょうが、素人からみるとやっぱりすごいですね。
 
ここでもう一つの物語り。
「苅田発電所」
イメージ 14
以前、NHKのテレビニュースかなにかで、「苅田発電所」の再開がどうのこうの
というニュースで、アナウンサーが「かりた発電所」と呼んでいました。
ばかだなぁ、苅田「かりた」と書いて「かんだ」と読むんだよ。
と思っていましたが、なんと、
偶然看板をみたら「KARITA POWER STATION」と書いているでは
ないですか!!
あとで調べたら、1956年の発電所設立時には、町名は「かんだ」であったが、
駅が「かりた」であったため、そちらに合わせたそうです。
では、なぜ、駅名が「かりた駅」であったのか。
1895年に刈田駅(かんだ駅)として開業。
1907年に、苅田駅(かんだ駅)に変更。
1918年、東京の神田駅(かんだ駅)と紛らわしいため、苅田駅(かりた駅)となる。
1959年、やっぱりもとの苅田駅(かんだ駅)に。
ということで、40年近く、かりた駅と呼ばれていたそうです。
そのため、火力発電所は、いまだに「かりた発電所」なのです。
NHKは嫌いだけど、すごいですね!!
ちなみに、この火力発電所の新1号機は、世界最大級の加圧流動床複合発電プラントだそうです。
面白いですね。
 
「苅田工業地帯4」
イメージ 15
こんな大型船が、ほいほい現れます。
苅田もやりますねぇ。。。
 
「苅田町」
イメージ 16
本当に天気が良かったです。
宮崎っぽくないですか?
 
気持ちのいい、一日でした。
 
いや、物語りは隠れていますね。
 
おしまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

月食

平成26年10月8日は「皆既月食」の日でした。
周りでも盛り上がってました。
実際に、「皆既月食」をこんなに真剣に見たのは初めてでした。
イメージ 1
18時28分の月。すでに出遅れました。もう欠け始めています。
 
イメージ 2
18時43分。
 
イメージ 3
18時58分。
 
イメージ 4
19時22分。もう少しで。
 
イメージ 5
19時44分。完全に地球の影に隠れてしまいました。
実は、僕のカメラがバカチョンカメラなので、全く写ってはいない
のですが、薄っすらと赤銅色の満月が見えていました。
これは、地球の周りをとりかこむ大気によって、太陽光線の赤い光の
成分は、いくぶん屈曲をして地球の影の中に入り込んで来るから
だそうです。
非常に神秘的です。いいカメラがほしいです。
 
イメージ 6
20時32分。皆既月食は大体30分くらいだったでしょうか。
その後、月の向かって左側から満月が再び姿を現してきます。
 
イメージ 7
20時46分。
 
イメージ 9
21時00分。半分以上でてきました。
 
イメージ 10
21時23分。
 
イメージ 8
21時53分。
また、もとの、きれいな満月に戻りました。
 
凄いですね、1億4960万km後ろにある太陽と、38万km手前にある月とがまさに一直性になっておこる出来事です。スケールがでかいですね。
 
次回の皆既月食は平成27年の4月4日だそうです。
また、みたいものです。
 
おしまい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

全1ページ

[1]


[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事