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二百三高地(6)

続き。
「映画 二百三高地」より
二百三高地陥落後、無線電話にて。
 
児玉「児玉だ。そこから旅順口は見下ろせるか。」
将官「まる見えです。旅順港内、一望のもとです。」
 
これです。
この絵です。
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「二百三高地頂上より旅順港を見下ろす」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Wikipediaより「当時の二百三高地より旅順港を見下ろす」
いやぁ、あまり変わっていないですね。
この「絵」の為に鉄血が注がれたんですね。
どうですか。
直線距離にして4km程度。
28サンチ砲の最大射程が7.5kmだから、十分な距離ですね。
(実際には砲弾の効果はあまりなかったという話もありますが、それはおいといて。)
 
そして、そこにそびえるのが、
イメージ 2
「爾霊山 慰霊碑」
 
当時の薬きょうや大砲の残骸を合わせて作られました。
乃木大将の字で「爾霊山」と書かれています。
 
同じ字体を、「長府乃木神社の宝物館」で見かけました。
 
 
 
 
 
 
 
当初は、「爾霊山」の横に「乃木希典書」という文字もあったそうですが、剥ぎ取られたそうです。また、慰霊碑の先端部分は文化大革命の際に一度失われたようですが、後に復活したそうです。何たることや。
そして、私、父、そしてツアー客を(実際にはあまり居ませんでしたが・・・)激昂せしめた文章が、この観光案内版。
 
イメージ 3
「二百三高地 観光案内版」
 
上から、「中国語」、「英語」、「日本語」で書いてあるのですが、「日本語」しか読めないので、その全文。
 
 
 
 
 
 
「203高地の紹介
203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い争いをし、結果、ロシア軍側では死傷者5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残骸でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊三はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。」
(誤字もあり)
 
ふざけるな。この時、あなた達、中国人は何をしていた。国家として他国の蹂躙に甘んじていて、そのくせ、腐敗政治や賄賂の横行、民族としての自覚も誇りもなく、日本民族がこの地で白人を撃退せしめなければ、アジアもろとも欧米の真の植民地になっていたのだぞ!あなた達は卑怯だ!自分たちが命がけで守った聖なる地がないからうらやましいんだろう。
もっと、怖いのが、このような観光案内を見ても、何も感じない日本人観光客がいる事。さらに怖いのが、この観光案内をみて、日本人は罪深い事をしたと感じてしまう日本人がいるのではないか。マインドコントロールをかけたがる米国人、中国人、マインドコントロールにかかりやすい日本人。
乃木大将や、この二百三高地を始め「旅順攻囲戦」で散華した1万6千の御霊もさぞかし悲しんでいることでしょう。
 
イメージ 4「二百三高地より東鶏冠山方面を望む」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、笑いにもならない話が。
ツアー客のひとり。
「日本軍も、こんな遠くから旅順を攻撃しないで、もっと近くから砲弾を打ち込めばいいのに。」
 
にゃろめ、お一人様、日本にお帰りです。
 
続く。

二百三高地(5)

続き。
これが、これが、イメージ 1万人斉しく仰ぐ
「二百三高地」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思わず上の漢詩をつぶやいてしまいました。
感動です。
確かに、山形は改まったのでしょうか。
Wikipediaに載っている、過去の写真では
「二百三高地」
です。
まあ、それはさておき、いよいよ「二百三高地参り」です。
 
実は、ここの観光の時間は20分程度(短いよ)だったのですが、僕と父は興奮して実は5分くらい集合に遅刻してしまいました。すると、ツアーの人から露骨ではないけど、ブーたれた視線が。
「こんにゃろ、みんな、さっきのショッピングの時は遅れただろがぁー。こっちは必死なんじゃい。」なーんて事は言わずに「二百三高地」へ。
 
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「二百三高地 車窓より」
 
もう少し、二百三高地にふもとから攻め上っている感覚になりたかったのですが、バスで中腹までシャシャカ、シャッシャカ上るんですもの・・・
 
 
 
 
 
 
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「二百三高地 入口」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4「二百三高地 頂上までの途中」
 
中国では「日露戦争」でなく、
「日俄戦争」のようです。
 
 
 
 
 
 
そして、登山道を抜けて頂上からは、
これです、
この景色です。
これを待ってました。
 
続く。

二百三高地(4)

続き。
いきなり、
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「旅順口」
 
でた、「旅順口」です。
これが、「旅順口」です。
 
日本の命取りになりかけた「旅順口」です。
広瀬武夫少佐の眠る「旅順口」です。
 
猛烈な感動でした。
 
旅順港内の「ロシア旅順艦隊」と「バルチック艦隊」が呼応させない為に、軍令部は「旅順湾閉塞作戦」を施行。旅順湾の幅は273ml。実際に艦が航行できる深さのある幅は91ml。そこに日本の老朽艦を沈めて封鎖させる作戦です。
1904年2月24日、3月27日、5月2日に3度にわたって作戦実行するが、いずれも不発。2回目の作戦にて、広瀬武夫少佐(死後中佐へ)が命を落とした。
まさに、その場所にたっていたのでした。
 
「第二次 旅順口閉塞作戦」
向こうに、旅順口がみえます。
 
「広瀬武夫軍神」
豊後高田出身です。今度いってみなくては。
 
  1. 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
    荒波洗ふ デッキの上に、
    闇を貫く 中佐の叫び。
    「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。
  2. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
    呼べど答へず、さがせど見へず、
    船は次第に 波間に沈み、
    敵弾いよいよあたりに繁し。
  3. 今はとボートに 移れる中佐、
    飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
    旅順港外 恨みぞ深き、
    軍神廣瀬と その名残れど
この、広瀬武夫少佐の「死」から旅順の戦い、旅順の悲劇が始まったのです。
そして、ついに、ついに、ついに、その「白玉山」から、あの「二百三高地」を拝むことができました。
それが、
 
続く。

二百三高地(3)

続き。
いよいよ、「二百三高地参り」の日がやって来ました。
バスでホテルより1時間30分くらいでしょうか。
途中の車窓は、やはり、高層ビル群が続き、開発ラッシュです。なんでこんなに景気がいいんだろう。「億ション」も今は中国の富裕層で直ぐに完売との事です。
 
そして、ついに旅順区内へ。
 
イメージ 1
「旅順軍港」
 
もともと1,2年前には、観光目的にて旅順区内には立ち入り禁止だったそうです。
車窓から撮ったのでいまいちですが、駆逐艦でしょうか。
 
 
 
 
 
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「旅順駅」
 
ロシアが作っただけに、ロシアぽいです。
 
 
 
 
 
 
 
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「旅順博物館」
 
「旅順博物館」は、日本統治下で「関東庁博物館」として使用。中には、大連西本願寺の大谷光瑞が中央アジアで集めてきた「大谷コレクション」の一部も展示してある。展示品の質では定評があるらしいです。
博物館の案内人(自称兼歴史研究員)曰く、北京、西安とここの博物館が、中国国内の博物館の中でも格が上との事でした。
 
 
 
 
 
 
確かに、内部には、ガラスケースに整然と並べられた様々な展示品があったのですが・・・
最後、小さな部屋に通された所、そこには中国の古美術品が。すると事もあろうに、その古美術品の解説後、我々にその品を売ろうとしてきました。理由は、このような古美術品を整理して、その収入で、博物館の整備・維持に充てる為。いやいや、その古美術品は旅順博物館所蔵のものでしょ。しかも、博物館は国営でしょ。しかも、北京、西安と並ぶ格式の高い博物館が、自分の博物館の展示物を販売して運営費に充てるなんて。すると、その自称歴史研究員、だんだん調子に乗ってきて、「古美術品を3つ買って頂ければ安くします。」だとか、「今ならこの漆塗りの展示棚までお付けします。」とか、「保証書もついてます。」など、日本のテレビショッピング顔負けの販売をしてきやがりました。
今回、私の家族でツアーに参加していたのですが、私と父でゲラゲラ笑ってました。「まるでテレビショッピング。買う人なんかいるんかいな。」っていう会話をしていてら、同じツアーで来られていたご婦人が購入。日本人がなめられるのもうなづけます。
別に写真に撮る価値もないんですが、「チャイナネット旅順」ってことで載せてみました。
 
気をとりなおして旅順散策。
イメージ 4
「白玉山にそびえる表忠塔」
 
旅順市街を一望できる白玉山に、乃木大将が日露戦争で亡くなられた人々の御霊を鎮魂するために作られた。
 
 
 
 
 
 
バスに乗り換え、白玉山頂上へ。そして・・・・・
 
続き。
 
 
 

二百三高地(2)

続き。
イメージ 1「ヤマトホテルのロビー」
 
大理石でできていおり、格式が高い。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2「ヤマトホテルの応接室」
 
本来は入れない場所ですが、ガイドさんの計らいにて特別に見せて頂きました。
風格がありますね。
 
 
 
 
 
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「ヤマトホテル 2階より中山公園を望む」
 
中山公園は、円形の形をして、その周りを車がロータリのようにまわってります。
町の開発をしたロシアの人々が、ヨーロッパの「パリ」のようにしたかったとの事です。
正面に見えるのが「中国銀行」。昔の「横浜正金銀行」。
 
 
 
ただ、この「大連市」。大きな交差点でも信号がないのです。明らかに信号が少ない。だから、危ない危ない。良く事故が起こらないものだと。この中山公園の周りのロータリーでも割り込みや、クラクションが絶え間ありません。運転の下手な人、控えめな人だと、このロータリーから出られなくて、いつまでもグルグル回っているのではないかと心配です。また、それだけ混乱している車道を、普通に人が歩行で渡るのです。しかも、小走りもせずに、ふてぶてしい表情で堂々と。交通マナーはひどいもんでした。
 
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「大連フラマホテル」
 
宿泊したホテルです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5つ星のホテルとの事でしたが、日本の中流のホテルの方が、よっぽど良いと思いました。窓ガラスは汚いし、玄関には無造作に停められた車が多数あるし、最も腹立たしいのは接客の態度です。日本人が嫌いなのでしょうか。愛想の「あ」の字もないし、5元の支払いに対して100元札を出したら、フロントの女性が、露骨にため息を出してお釣りを持ってきました。5つ星のホテルの顔であるフロントの女性がですよ・・・。怒りというか笑いが出てしまいました。
たぶん、中国の5つ星ホテルというのは、単に
 
ただ、このホテル、数か月前、北亡国の「キムの何某」が北京に視察で向かう時に立ち寄って休憩をしたらしいです。その際は、東館、西館のうち、西館を全部貸し切りにしたらしいです。
 
続き。


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