ジャズマンス・イン・旭川 blog

旭川ジャズ音楽祭ジャズマンス・イン・旭川のページ

和製ジャズ温故知新

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

ジャズ界の中で○○の天才という言葉をよく使うが、富樫雅彦まさしく、
その言葉が当てはまるだろう。

1940年生まれ。 幼少からヴァイオリンをはじめ、13歳でドラマーを目指す。
14歳(中学2年)にはチャーリー石黒率いる東京パンチョスでプロ活動していた
というから大変な早熟である。
又、10代から八木正生トリオ、秋吉敏子コージー・カルテットなど複数のグループ
でドラマーとして活躍、天才ぶりを発揮する。
イメージ 1
その後、高柳昌行、金井英人らの作る「新世紀音楽研究所に参加、
1963年「銀巴里セッション」に23歳で出演。
以前にも書いた「新世紀音楽研究所」はメンバーそれぞれがフリージャズの要素の強いメンバーが多く、富樫もまた当然のようにフリージャズに傾倒していく。

欧米のジャズはオーネットコールマンの出現により、フリージャズが盛んになる。1960年後半の欧米はベトナム戦争反対の世論真っ盛りの時期で、音楽だけではなくあらゆる芸術活動が混沌として、活況をていしていた時代である。

日本もまた、60年代後半は60年70年二つの安保条約による影響で、社会状況は混沌として
音楽、芸術活動は活況を呈していた時代である。

イメージ 2
しかし、そのような時代でもフリージャズ、現代音楽は時代の主流に
なる事もなく、また民間に注目を集める存在にはならない。
しかし、人間の欲望、混沌を表す一つのツール(ジャンル)として、
フリージャズは一部の市民のから支持されるものになっていく。

1970年富樫は不慮の事故により、ドラマーの生命線と言われる、
両足を失う。普通はそこでドラム生命が断たれるものであるが、
天才富樫は両手のみを使い、常人と同じように繊細なスイングから豪快なパーカッションまで
を叩き分けた。

その後、ドン・チェリー、スティーブ・レイシー、チャーリー・ヘイデン、
セシル・テイラー、マル・ウォルドロン、ゲイリー・ピーコック、
リッチー・バイラーク、ポール・ブレイ等の海外演奏から名指しで共演を求められる
ほどの精神性の高いジャズ世界を作り上げる。

しかし、2002年に体調不良の為演奏を休止。作曲、絵画製作に専念。
そのような彼も2007年67歳で生涯を閉じる。

今でもジャズ演奏家の語り草となるのは、両足のあった富樫は本当にすごかった」という
ことである。 その演奏を本当に聞いてみたかった。
イメージ 3











この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

70年代を牽引したジャズメンに渡辺貞夫、日野 皓正、菊池雅章の3人というのは、
異論のない所であるが今回は、ベースの鬼才「金井英人」を取り上げたい。
イメージ 1

生まれは1931年(昭和6年)東京生まれである。
高校卒業後、南里文雄とホット・ペッパーズ、
西条孝之助とウェスト・ライナーズ、ジャズ・アカデミー・カルテット
(高柳昌行、富樫雅彦、菊池雅章、金井英人)を経て
1962年 高柳昌行と『新世紀音楽研究所』を設立する。

「新世紀音楽研究所」というのが70年代につながる、重要な役割を果たした
研究会である。1963年の幻の「銀巴里セッション」も金井英人なしには
開催されなかったという。

60年代から日本のジャズシーンを底辺から支える役割をして、ベース
という楽器の特徴を最大限に生かし、オーソドックスジャズから
フリージャズまで幅広い活動を行った。

特に旧ソ連、アメリカ(ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ)、香港、上海、
ネパール、ペルー、ポーランド等、海外を股にかけた、絵画、詩とのコラボレーション
を始め、舞踏家大野一雄とのコラボレーションを行うなど、日本のコンテンポラリー
ジャズのアプローチの第一人者と言える。

彼のスタイルは、チャーリーミンガス、デュークエリントンから大きな影響を受けながらも
ジャズと現代音楽の狭間で演奏し続けた、希有な演奏家である。

日本独特の間を取り入れた奏法、どんなジャンルとコラボーレーションをしても
日本人のルーツを感じさせる重厚なベース。

そのような希有な存在も2011年81歳で亡くなる。
亡くなる直前まで、ベースをかき鳴らしていたという、根っからのジャズマンである。

いま、日本にはこのようなベーシスト(ジャズマン)は本当にいなくなってしまった。
本当に残念である。
「テンダロイン」
西条孝之助とウエストライナーズ

五十嵐 明要 (as)
西条 孝之助 (ts)
原田 忠幸 (bs)
今泉 俊昭(tp)
前田 憲男 (p)
金井 英人 (b)
猪俣 猛 (ds)

昭和33年録音

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

和製ジャズ温故知新/補助編の2回目である。

1回目は欧米の70年初頭の事を書いたが、補助編の2回目
は日本の70年代を見てみたい。

そもそも、一度最終回まで行った和製ジャズ温故知新だが、大正時代から
振り返った和製ジャズ温故知新は70年初頭で振り返る事で終わっている。

なぜかというと、その後は自分にとってリアルタイムだからである。
そう、その頃もうジャズ演奏を始め時代の動きと流れの記憶があるからである。

しかし、今からもう40年以上も前の話、一度整理してみるのも悪くないと
思い始め、70年代の事を振り返っている。

「ジャズは70年代初頭に終わった」と言われているが、日本のジャズは
これを境として、大きく盛り上がっていく。
戦後のジャズブームとは大きく違う、和製ジャズの動きが生まれている
のである。

ここにあるジャズフェスティバルの記録がある。
「70年ジャズ・フエスティバル・イン合歓」
   ステラ・バイ・スターライト::日野皓正クインテット
   マイルス・トーン:日野皓正クインテット
   けいこたん:山下洋輔トリオ
   セント・ルイス・ブルース:宮間利之とニューハード+南里文雄
   ミニ・ママ:宮間利之とニューハード
   ふり袖は泣く:宮間利之とニューハード
   サン・パウロ:渡辺貞夫カルテット
   ダンシングミスト:菊池雅章クインテット
   墨絵:原信夫とシャープスアンドフラッツ
   A列車で行こう:原信夫とシャープスアンドフラッツ
   マジーズ・タングル:佐藤允彦トリオ
   セレニティ:佐藤允彦トリオ
   1970年7月23日三重県合歓の郷野外ホールで実況録音


このフェスティバルの立役者は明らかに、渡辺貞夫、日野皓正、菊池雅章の3人
だろう。戦後のジャズブームの終盤1960年頃に頭角を現す3人はそれぞれの
個性を発揮し和製ジャズを作り上げていく。

その中でも注目したいのは、日野皓正である。
60年代後半から自己のグループを結成し、マイルスデービスに影響された
サウンドをベースに、「アローンアローンアンドアローン」に見られるような
独自のバラードを発表、サングラスをかけファッション雑誌にも取り上げられ
る様な、ジャズのファッション性を体現する。

それは日野皓正ブームと言ってよいくらいのもので、高度経済成長の時代背景と
相まって、その後の時代においてジャズ演奏家がこれほどブームを作った例は知
らない。

その後日野はサングラスを外し、自分の音楽を確立する為に渡米する。
この辺がただのアイドルではなかった証拠である。

その後、彼は日野サウンドと言うべき、自己のサウンドを作り上げていく。

イメージ 1

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

ジャズは70年初頭で終わったと言われている。

本当に終わった訳ではないが、ジャズの主導者マイルスデイビス
が「Bitches Brew」で過去のジャズにくさびを打ち込み
それからは一挙に「フュージュン」の流れになる。

1975年にマイルスは引退する。
その影響かどうかはわからないが、マイルス黄金期のメンバー
を中心とした、VSOPクインテット(Very Special One-time Performance Quintet)
が結成される。
メンバーはフリディーハバード、ウェインショーター、
ハービーハンコック、ロンカーター、トニーウイリアムス。

フュージュン全盛の時代、4ビートジャズを堂々と演奏したのである。
これは、一夜限りの興行のはずが、あまりに反響が多かったため
以後77年79年と世界ツアーをおこなう。

考えてみると、80年にウイントンマルサリスが登場、ジャズの王道を行く
「新伝承派ジャズ」を生み出していくが、その間の4ビートジャズを80年代に
つなぐ役目をしたのが、VSOPクインテットである。

70.80年代はいずれにしても揺り戻しの時代である。
価値観が多様し、それとともにジャズ音楽も多様化せざるを
得なかったのである。

猛スピードで走り続けたジャズが混迷を深めていく時代ともいえる。

イメージ 1

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

最終回は通常1回だが、今、2012年を振り返り終わりたい。

今は21世紀2012年。
1960年の終わりには、映画スタンリーキューブリックの
2001年宇宙の旅」が製作され、人間が木星探査に出かけた。

その後も人間はスペースシャトルという画期的な宇宙旅行機
を開発し、宇宙に出て行った。

我々の住む地球に目を向けてみると、相変わらず戦争、虐殺、
差別は留まるところをしらない。

ジャズは1960年代後半で終わったと言われるが、本当にそうだろうか?

2012年の今の日本のジャズを見てみると、大きなうねりは私の所には
伝わってこない。
国内ではJPOP(和製ポップス)も大きな力はなく、目立つものは
本当に若年層を対象にした、消費される音楽ばかりである。

国内のジャズは若者が出てきても、50年代のビバップの焼き直し
もしくはスタイルを踏襲したものばかりである。

その中でも活躍しているプレイヤーに小曽根真、守屋純子が作る
2つのジャズオーケストラがある。

国内で無数の多くのプレイヤーがいるはずだが、その存在が見えない。
60年代初期、命をかけて和製ジャズを作ろうとした、気概はどこに行ったのか?。

ジャズの生命力の強さを感じるイベント企画がある事を最近知った。
日本ではなく何と!インドネシアである。ガムランの島である。
その島で、「ジャカルタ国際ジャワ・ジャズフェスティバル」が開かれているという。

2005年スマトラ沖地震で膨大な死者を出したインドネシアが、同年から
国を挙げてジャズフェスティバルを企画開催しているという。
参加演奏家2000人、動員10万人というからアジア最大の規模である。

2011年日本でも東日本大震災で2万人余の死者を出したが、日本にこのような
動きはない。

アメリカで生まれたジャズが、アジアの国々(中国、韓国、インド等)に浸透し
人々に影響を与え続けている。

時代とともに形を変え、人間を巻き込んで成長したジャズの行き着くところ
はどこだろうか。

イメージ 1







この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事