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あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
万葉集 額田王の歌です。
さて、この紫野行きの ムラサキノが、どこにあったのかというのが論争されて久しい。
ムラサキ草の根っこは、当時最も高貴とされた「紫色」を染め出すために、欠かせなかった。
そのムラサキ草を栽培する今風にいうならば国営の農園がムラサキ野である。
私の説は、船岡山と雪野山と瓶割山に囲まれたあたりに、そのムラサキ野があったとする説である。
現在の町名で言うと、市辺、野口、三津屋、羽田、平木あたりになる。
理由① 整備された二つの道が近くを通っている。
飛鳥時代から中山道の原型となる道が近くにあり、鏡宿から武佐宿、そして老蘇の森へと続いていた。
道と条里制による朝廷の支配は今考えるよりも進んでいたと思う。中大兄や大海人が大津からしばしば来れるぐらいに道は整備されていたと考えられる。
その武佐の宿から、枝分かれして鈴鹿を超える道、今の八風街道(国道421号)の原型がすでに存在していた。
この道は中山道ほどの往来はないが、ある程度開けていた。中世にはその先に市が開かれるようになる。
中山道、そして八風街道を通って、警備の番人(野守)も来ていた。
理由② 現在の地名に名残がある。
「野口」というのはムラサキ野の入り口という意味である。
「平木」は「開き」である。切りひらいた土地であるという意味である。
近年発掘によって、平木地先から、半島の文化を取り入れた「かまど」や「オンドルのような仕組み」付きの先進的な竪穴式住居跡や、後年の役所跡が発掘されていることからも、このあたりが先進的な半島や大陸の技術をもったテクノクラート集団が住んでいたと思われる。
また雪野山は「御行(みゆき)の山」である。この山の上からこの辺りが一望できる。雪野山周辺には数多くの古墳があり、頂上にはなんと前方後円墳まで存在している。
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2014年06月15日
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