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めちゃくちゃ繊細です。
弱そうです。
淘汰されるのも無理はない。
葉もすぐに虫にやられそうでした。
この鉢をわけてくださったM氏が
「牛乳を霧吹きでかけるといいよ」と教えてくださったので
その通りにしました。 翌日はダンゴムシの大量発生となりましたが
おかげで他の虫に葉は喰われませんでした。 梅雨のしとしと雨の中に
そっと咲いておりました。 |
蒲生野
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あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
万葉集 額田王の歌です。
さて、この紫野行きの ムラサキノが、どこにあったのかというのが論争されて久しい。
ムラサキ草の根っこは、当時最も高貴とされた「紫色」を染め出すために、欠かせなかった。
そのムラサキ草を栽培する今風にいうならば国営の農園がムラサキ野である。
私の説は、船岡山と雪野山と瓶割山に囲まれたあたりに、そのムラサキ野があったとする説である。
現在の町名で言うと、市辺、野口、三津屋、羽田、平木あたりになる。
理由① 整備された二つの道が近くを通っている。
飛鳥時代から中山道の原型となる道が近くにあり、鏡宿から武佐宿、そして老蘇の森へと続いていた。
道と条里制による朝廷の支配は今考えるよりも進んでいたと思う。中大兄や大海人が大津からしばしば来れるぐらいに道は整備されていたと考えられる。
その武佐の宿から、枝分かれして鈴鹿を超える道、今の八風街道(国道421号)の原型がすでに存在していた。
この道は中山道ほどの往来はないが、ある程度開けていた。中世にはその先に市が開かれるようになる。
中山道、そして八風街道を通って、警備の番人(野守)も来ていた。
理由② 現在の地名に名残がある。
「野口」というのはムラサキ野の入り口という意味である。
「平木」は「開き」である。切りひらいた土地であるという意味である。
近年発掘によって、平木地先から、半島の文化を取り入れた「かまど」や「オンドルのような仕組み」付きの先進的な竪穴式住居跡や、後年の役所跡が発掘されていることからも、このあたりが先進的な半島や大陸の技術をもったテクノクラート集団が住んでいたと思われる。
また雪野山は「御行(みゆき)の山」である。この山の上からこの辺りが一望できる。雪野山周辺には数多くの古墳があり、頂上にはなんと前方後円墳まで存在している。
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先日、蒲生 大塚の住人 M氏から、ムラサキを一鉢いただきました。
とても脆弱な植物なので栽培が非常に難しいと言われています。
M氏は「水をやらないでください」「木陰などに置いてください」などと助言をいただきましたが、
ようするに「日陰でほっとく」しかないのでしょうか?
そのムラサキが先端に白いつぼみを付けました。
早速、写真に撮りましたが、よく見ると葉などが虫に喰われています。
大丈夫でしょうか。M氏に相談してみようと思います。
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こういう日が最も危険なのです。まだ大雪のほうがましです。
前日の夜、比較的温かく、路面が濡れているところへ放射冷却で夜明け前に凍結します。
その上に粉のような雪がまぶされるとこうなります。
スタッドレスで、時速30キロメートルで走っても、滑ります。坂道ではスタッドレスは効き目がありません。
不用意なアクセル、ブレーキ、ハンドルは命取りです。
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昨日の雪で、蒲生野は一面銀世界となりました。このへんでも多いところでは20〜30センチは積もったのではないでしょうか?永源寺などは、きっともっとすごいことになったでしょう。
でも、今日は朝からよいお天気となり、道路の雪はほとんどなくなりました。
写真は、車で通りかかった田圃の様子です。きれいに畝がつくってあります。地面に雪解け水がしみこむようにしてあるのでしょうか。こうしてあると、谷の部分は陰になって、雪はなかなか融けずにじっくり地下に浸透します。
それにしても、造形的に美しいので思わずシャッターをきりました。陰の部分は美しい青に見えます。空の色素が宿っているかのようです。
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