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滋賀県、琵琶湖の東を南北に走る国道といえば、大津から栗東までは国道1号線(おおむね旧東海道と並行する)。そして栗東以北は国道8号線(おおむね旧中仙道と並行する)となるのは、誰もが知っていることである。しかしもう一つ滋賀県湖東を南北に走る国道があることは意外と知られていない。国道307号線〜306号線である。
1号線や8号線が全国に通じる一桁国道でメジャーな国道とすれば、こちらはいわばマイナーなローカル国道。裏街道?ともいえるかも知れない。しかしこのローカル国道は地元の重要な流通路、生活道路であるし、またこの地域の歴史にとって欠きがたい場所を周辺に持っている。
さて、その307号線を車で北に向かって走っていると、突然、日本語とハングル文字の併記された交通標識が現れる。日野町から東近江市にむかう途中、標識に従って307号線を右折してしばらく走ると、ここに到着する。なんとも拍子抜けするほど小さな林がそれである。
さてこの一風変わった名前の神社がどういう場所であるか、すぐに分かる人は日本史をよく勉強している人かもしれない。詳しい説明は後にするとして、蒲生野にはお隣の朝鮮半島の人々や文化と深いかかわりをもっていた場所が数多く存在する。否、それはかつての日本が朝鮮の人々と深いかかわりをもっていたからであって、蒲生野の個性ではない。またそのことは当時の蒲生野が日本の文化の中心であったことを大きく物語る証である。
江戸時代に発見された石柱は後世の作とされる説もあるが、鬼室集斯ら百済系の人々がこの地に移ってきたことは日本書紀に書かれている通りであろう。
ここからは私の勝手な説だが、天智天皇は狭い大津宮(あるいは大津京)の後、いずれはこの広大な蒲生野付近に京を建設しようとしたのではないだろうか。そのための先遣隊として百済系のテクノクラートを派遣しておいたのではないだろうか。すでにこの付近にはアヤ氏、ハタ氏などによる一大文化ゾーンが形成されたいた。天智天皇はすぐに亡くなり、大海人皇子が天下をとらなければ大友皇子はここに京を建設したかもしれない。
なんちゃって。
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