二十四考

二十四節気に思うこと

夏至

<夏至>
「日長きこと至る(=きわまる)」という意味、1年中で一番昼間が長い。日の出から日没までの時間は東京で14時間35分、冬至のときと比べると5時間も長い。黄道という太陽の通り道のなかで高度がもっとも高いところを通過するからである。夏至の前後20日程度を一般には梅雨というが、今年の東京の梅雨前期は空梅雨だった。今日からの後期は梅雨らしくなるという予報だがどうなることやら。俳句では昼間の長さより夜の短さ(短夜)を詠んだ句が多い。「短夜のあけゆく水の匂かな」(久保田万太郎)
 
先週京都は宇治の松殿山荘の見学会に参加した。普段は非公開ながら団体の場合は見学できるという仕組みになっている。
松殿というのは平安時代関白藤原基房の別荘のあったところ、ここの10万坪の土地を大正時代弁護士であった高谷宗範が買い取り、その後十有余年をかけて今の建物と庭園に仕上げたものとのこと。
最初に通された大書院から眺める庭園にはほととぎすや夏鶯の鳴き声が響き渡る。(写真①)中書院でお茶とお菓子をいただく。高谷宗範は当時中心であった小間の草庵式のお茶だけではなく、広く一般の多くの人が楽しめる広間の書院式のお茶を広めようと新たに山荘流という流派を立ち上げた。松殿山荘には17の部屋があるがそのうち13が広間とのこと。またお茶碗の受け渡しも、懐石のお膳をそうするように手渡しでありまごついた。2階の眺望閣にも案内された。(写真④)標高は100mくらいとのことではあったが、西南の方向に大阪のアベノハルカスまで見通せるのには驚いた。遠くには二上山、生駒山、近くには男山、東山連峰から比叡山と満目青山といった趣。建物のいたるところに○と□の造形が織り込んである。心は円満に丸く、行いは常に正しく四角く、という方円の思想に基づくものだという。不忘庵という小間があった。にじり口は貴人にじり口といい、立って入れるくらいの入口、小間といえども窮屈さを排除するということか。(写真②)小間に続く楽只庵は大阪にあった七畳の茶室を移したものでその床柱は蔵の轆轤であったものらしく、ここにも丸と四角の穴が空いていた。庭に出る。庭には方円の池が配されているが、残念なことに涸れている。何でも近くにゴルフ場を建設した際、配管にトラブルがあり池に水がこなくなったようだ。涸れた池に草が生い茂りこれはこれで風情があるという人もいるらしいが、かつて蓮の花に囲まれ水に浮いていたという書院を見てみたいものだ。(写真③)
 
藤原基房の娘の子が道元であり、ここは道元が生まれた地でもあるらしい。帰りに近くの法界寺(日野薬師)に立ち寄ったがここは親鸞の誕生の地である。
今やお寺の数では一二を争う曹洞宗と浄土真宗の教祖がこんな近くで生まれ育ったのかと思うと感慨深いものがあった。(ちなみに二人の入寂の地は、それぞれ石碑が建っているが、さらに接近しており、道元が京都市内の西洞院高辻西入るに対し親鸞は西洞院松原東入る。高辻の一つ南の通りが松原というのだから驚く。道元の入寂した9年あとに親鸞が続いている。)

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芒種

<芒種>
芒(のぎ)のある穀物を撒く時期とある。芒というのはイネ科の植物の花の外郭にある針のような突起のことで、したがってイネ、ムギ、ヒエ、アワなどを植える時期ということになろう。
 
土曜の夜は近くの禅寺で坐禅を組んでいる。無念無想というがなかなかできるものではない。さて6月である。旧暦では5月、だから五月雨は梅雨のこと、五月晴れは梅雨の晴れ間のこと、とまことしやかにいわれるが、5月の雨の日や晴れの日はなんと言えばいいだろうとつい突っ込みたくなる。(これを五月蝿いという。)
 
6歳の66日は稽古始めにいいという。6歳になった孫に正座をさせお茶を点てさせたが、稽古始めが稽古終いになるのに時間はかからなかった。66日というと「オーメン」という映画も思い出す。この日の午前6時生まれたダミアンという子が実は悪魔だったというホラー映画だが、黙示録に666という数字が出ているらしい。仏教にも六道とか六波羅蜜とか六に縁のある言葉がある。六道の輪廻から解脱し、彼岸に到る修行が六波羅蜜といわれるもので、そのなかに「禅定」があるが、坐禅はその手段のひとつだ。
 
旧暦では6月を水無月という。三角形を氷に見立て、しん粉餅の上に小豆を散らした水無月という銘のお菓子がある。しん粉の代わりにういろうや小麦粉仕立てのものもあるが、葛仕立てがおいしい。数年前「夏越の茶会」でこの水無月を用意したことがあったが、葛は期間限定となっており手に入れるのに苦労した覚えがある。夏の疫病除けの行事として夏越しの祓えや茅の輪くぐりなどがあるが、水無月という菓子にもその願いが込められているそうだ。かくして六念六想と相成った。
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小満

<小満>
万物しだいに長じて満つるの意。「小満やどの田も水を湛へをり」(小島雷法子)。先日伊賀上野へ行ってきたが、伊賀鉄道の沿線にもそんな風景が拡がっていた。
 
伊賀上野で見たかったのは一つは芭蕉の足跡である。芭蕉は1644年伊賀で生まれ、1672年頃江戸へでる。1684年「野ざらし紀行」の旅で、1687年には「笈の小文」の旅で、1690年は「おくのほそ道」の旅の帰りに、そして最後になるが1694年「おくのほそ道」の清書本の完成後に、それぞれ伊賀に帰郷している。今回回ったのは生家と江戸に出る前に「貝おほひ」を奉納した上野天満宮、1688年立ち寄った服部土芳の「蓑虫庵」である。(3箇所での句碑と写真は次の通り。生家(写真1)「古里や臍のをに泣くとしのくれ」、上野天満宮「初さくら折しもけふはよき日なり」、蓑虫庵(写真2)「みのむしのねを聞にこよくさの庵」)蓑虫庵にある「古池や」の句碑に、飛び込む前の蛙と水輪が浮き彫りされていたのだが、これは蛙が複数いたという説(小泉八雲はこの句の英訳に際してflogsとしている。)に基づくらしい。もっとも蕉風開眼と言われるこの句は江戸でつくられたのではあるが。庭の青楓が折からの薫風とあいまって眩しかった。
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二つ目は伊賀越。伊賀越というと本能寺の変のあとの家康の伊賀越と荒木又右衛門の鍵屋の辻の仇討が浮かぶが、鍵屋の辻のあたりを見てきた。ここには津に至る伊賀街道と奈良に続く大和街道の分岐点を示す石の道標(「ひだり奈ら道」「みぎいせミち」)が建っていた(写真3)。また荒木又右衛門らが待機していたという茶屋、今は数馬茶屋という名になっているが、も再現されている。
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三つ目は伊賀焼であるが、これは白亜三層の優美な天守閣をもつ伊賀上野城で見ることができた(写真4)。江戸城も造ったと言われる築城の名人藤堂高虎のお城だけのことはある。さて伊賀焼であるが、伊賀上野城を最初に築いた筒井氏が焼かせた筒井伊賀とその後城主となった藤堂氏が焼かせた藤堂伊賀がある。日本一耐火性の強い土のため炎の極限まで焼くことができ、緑のビードロ釉が特徴。隣の信楽焼が無作為の自然美であるのに対し、伊賀焼は作為の人工美と言われる。そういえば上野公園内にある「俳聖殿」に鎮座する芭蕉坐像も伊賀焼でできているそうな。
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立夏

<立夏>
暦のうえでは今日から夏が始まる。暦のうえと断らなくても、クールビズも始まり初夏といえば今頃。そしてこの佐佐木信綱作詞のこの唱歌も今頃。
 
卯の花の にほふ垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音もらす 夏は来ぬ
 
忍音というのはまだ上手に鳴けない時鳥の声をそういうのだそうだ。春の鶯、秋の雁と並んで夏の時鳥はその初音を楽しみにしていたという。そういえば初鰹もこの時期ならではのもの。江戸っ子は初物が好きだった。
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今年はこどもの日とも重なったが、世は挙げてゴールデンウィークの喧騒に包まれている。花見といい行楽といい、どうも日本人は群れたがる性癖がある。混んでいる時にわざわざ出かけなくてもと思うのだが、人出を見ないと安心できないとでもいうのだろうか。
 
先週茶道具(といっても茶碗がメインなのだが)の展覧会をはしごした。一つは東京国立近代美術館の「茶碗の中の宇宙」展、もう一つは東京国立博物館平成館の「茶の湯」展である。セット割引やらシャトルバスやらを用意し、国もはしごを奨励するかのよう。しかしさすがにはしごは疲れた。ひとつだけでも展覧会が成り立つといってもいいような国宝、名品の数々が勢揃いしているのを、しかも雑踏のなかで見てまわろうというのだから。
 
東博は今から37年前の1980年に「茶の美術」展を開催したが、熊倉功夫先生に言わせれば、そのときから茶道具は美術品に格上げされ、道具屋は美術商に衣替えしたというくらいにインパクトのある展覧会だったようだ。それ以来ということで今回のプロデューサーの一人赤沼多佳先生は前回に劣らぬ名品を出品してもらうのに奔走されたと聞いた。(熊倉先生も赤沼先生もいま新宿の「柿傅」で茶の湯の講座を担当されておられ、双方を受講しているところ。)茶の湯の歴史に沿ってその時代の茶道具が展示されているのだが、とくに利休の時代からすると400年も経っているにもかかわらず、しかも当時は道具として実際に使われてきたにもかかわらず、傷ひとつなく、現存していることにまず驚く。合わせて400年もの間基本的な茶の湯の価値観が維持されてきたということにも。それが面白い。
 

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穀雨

<穀雨>
春の最後の節気である。穀雨とは穀物を育てる雨という意。「まっすぐに草立ち上がる穀雨かな」(岬雪夫)
 
茶の湯も春が終われば、炉から風炉に切り替わる。今月いっぱいで炉には炉蓋をして塞いでしまう。「炉塞ぎ」「炉の名残」
という季語はこの時期のものである。「塞がむと思ひてはまた炉につどふ」(馬場移公子)、寒い冬のあいだ炉があったからこそみんながここに寄り合ったのだろう。「炉塞や坐つて見たり寝て見たり」(藤野古白)、今まで炉が切ってあったところが畳で塞がれてはしゃぎたくなる気分もわかるような気がする。
 
歴史をたどればもともと茶の湯は広間で年中風炉を使っていた。それが小間に炉を切って冬と春の半年間(11月から4月まで)、釜を掛けるようになったのは茶祖といわれる室町中期の村田珠光の頃からと言われている。寒い時に火は何よりのご馳走であり、お客様をもてなすというわび茶の始まりと軌を一にしているのも頷けるものがある。お茶のお稽古を始めた頃は、半年かかって炉のお点前を覚えたと思ったら、今度は風炉、お点前も道具も炉と風炉では決して小さくない違いがあり、結構手古摺ったものだ。その後も今日に至るまで、忘れていたものを思い出し、さあこれからというときに切り替わるという繰り返しを、季節の移ろいとともに重ねてきた。
 (炉の写真)
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4月ともなるともはや火が恋しいという季節ではないものの、それでも炉は続く。風炉の10月に火が恋しくなることもあるように、炉と風炉の境目の頃は気候も気持ちも落ち着かないところではあるが、茶人はいろいろ工夫を凝らしてきた。たとえば4月は透木釜(すきぎがま)といって炉の中の火や灰を隠すように大きな羽のついた釜を掛け、少しでもお客様から暖を遠ざける配慮だったり、10月は中置きといって風炉をお客様の方に少し移動させて暖を近づける忖度をしたり、という具合に。もちろんそれでデジタルに涼しくなったり暖かくなったりするわけではないが、そんな亭主の心馳せに涼しさや暖かさを感じるのが客の心意気というものだった。堅苦しいものと見られがちだが、茶の湯というのは結構自在に対応してきているのだ。
(風炉の写真)
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