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今日は午前中授業があり、午後は何もありませんでした。
ただ、夜は大学二年生がやりたいと希望した自由会話が入っていました。
これは大学授業ではなく、もっと日本語を話したい学生のため自主的に開設したものです。
言い換えると、日本語コーナーといえば良いでしょうか。
しかし、午後電話があり、外国語学部の宴会があるとのこと。
いわゆる、今週ある中秋節を祝って、外教を招いて行われるものでした。
そのため、自由会話は本日は中止し、来週から開始されることに。
宴会ではあいかわらず、先生方と楽しく飲み食いしてきました。
帰ってきて仮眠をとった後、今はパソコンに向かっています。
さて、今日は自身の専攻する日本近現代史に関わらせて書きたいと思います。
このブログでも数回触れましたが、ここ数日来、日中関係がかなりぎくしゃくしています。
その影響は様々なところで現れ、事態は収束するどころか、悪化の一途をたどっています。
あえて、具体的には触れませんが、目を背けたくなるような状況が現れつつあります。
今日もそんなことが一つあり、軽い衝撃を受けています。
(ファンの方のみ、後日紹介記事を書こうと思います。)
日本近現代史専攻なので、特に敏感に感じているということもあるのでしょう。
しかし、今回の問題はただ傍観者の立場だけではおさまらないのが正直なところです。
ここ数年来、東アジア史の議論が活況を呈しています。
それを示すかのように、それに関わるテーマでの大型科学研究費やCOEが採択される現状にあります。
そうした状況に目をやると、いよいよ一国史的枠組みを越えた「アジア」的視点による研究が進んでいるような印象を持ちます。
こうした動向は日本の国家主義に対する自省であり、同時に広く見れば国民国家体制を相対化する新たな観点として、支持され定着しつつあるようにみえます。
しかし、今回の騒動をみても分かるように、中国(または韓国などでも)でそのような視点を紹介した際、必ずしも好意的な反応が得られないことは否定できません。
それは様々な理由が考えられます。
1、中国などでは依然として一国的ナショナリズムにとらわれている。
2、換言すれば、中国ではそれを超えることに対し、政治的に敏感にならざるをえない。
3、過去に日本が提唱した「大東亜共栄圏」や「大アジア主義」といった構想を想起させる。
これらの理由が関わって、日本では支持されていても「アジア」の中では対照的な反応があるわけです。
今回のように一つの事件からここまで国家関係が悪化していく状況をみると、やはり双方の政治的立場の相違を感じざるをえません。
一国史観を超えていくためには、純粋な学問的議論だけでは不十分であり、この「アジア」的視点が一定の政治性を帯びることを慎重に考えながら議論を進めるべきでしょう。
そう考えた時、まだまだそれは前途多難だと実感しているMです。
去年までは日中間のまだまだ上辺だけを見ていたのだな、と反省しています。
学問は純粋なところにあって欲しいですが、政治と切り離されることは不可能でしょう。
その意味で、私は今まで目を背けていたところに目を向けていかないとならないようです。
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