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<先日、調査に行った上海にある同済大学の総合楼。ここのI研究室にお邪魔しました。>
随分更新が遅れました・・・。
最近は時間があっという間に過ぎ行く感じがします。
今学期の講義は全て終わり、あとは来週以降の試験のみ。
一時帰国までは、数える程度の日数しか残されていません。
今学期は長く感じた去年冬と比べ、何だか早く過ぎました。
さて、今日は先日6日までの上海滞在中のことを少し紹介します。
私は今回の滞在中、上海にある二つの大学にお邪魔しました。
特に重視していたのは、以前から調査依頼をしていた同済大学でした。
そこの建築学のI教授が私の所属する大学院の元留学生という縁で実現した調査でした。
ただ、私が研究するのは建築、特に住宅の歴史ですが、I教授はデザインの専攻でした。
我々の研究分野は少々ずれがあり、私の知りたいことが明らかになるか実は心配でした。
指定された日時に、同済大学(四平路のキャンパス)の総合楼にある研究室へ向かいました。
総合楼は最近出来たビルで、高層で、中は一階から最上階まで吹き抜けになっていました。
思えば、中国では吹き抜けの建築を多く目にするように思います。
しかし、20階以上の高層建築で吹き抜けだと、地震の際に大丈夫なのでしょうか??
そんな心配はともかく、I教授と会い、これまでの自身の研究成果を報告しました。
加えて、現時点で、自分が知りたい情報と、史資料の保存場所、聞き取り調査の依頼もしました。
が、予想した通り、I教授は私の話は一部は分かるものの、全部は対応できないという様子でした。
加えて、1960年の日中国交がない時、建築学者の西山が訪中し、同済大に来ていたことすら知りませんでした・・・。
これには、その瞬間、体がガクッとし、力が抜けていくような脱力感に襲われましたね。
「これは、聞き取り相手を別に紹介してもらい、方向転換するしかない!!」
と調査をしながら考え、途中からはその方向で話しを進めていきました。
すると、そこはやはり中国で建築学をリードする同済大学の教授で、人脈がゴロゴロ出てきました。
何でもI教授は上海万博の委員の1人であった人物で、同済大だけでなく、中国建築界に顔のきく人物だったのです。
加えて、非常にフランクで、何でも気さくに話してくれ、かつ親切な方でした。
例えば、
「私の年間の給与は○元なんですよ。これが同済では一番高いランクです。しかし、実際はみんな外部から委託された仕事の方が大学の給与より多いんです。だから、建築学部の教員は皆正確な給与は分かりませんよ。はっはっは・・・」
ここでは給与が具体的に幾らかをかけませんが、驚くほど高くはありませんでした。
ただ、「副収入」は相当のものと推測されますが。
また、他の例として、
「正月(中国のそれ)は日本へ帰りますか。宜しければ私の家で正月を迎えませんか?家内も日本へ留学していたので、日本語が出来ますから。日本語で話して構いませんよ。」
など。初対面の私を正月招こうとしてくれるような、物腰の柔らかい優しい方でした。
そんなI教授は、次回上海に来た際に、ある人物を紹介してくれると約束してくれました。
それは、西山が訪中時、同済大を訪れた際に同済大教員だったS氏でした。
また、その夫のO氏でした。
彼らは現在、大学を定年退職し、月の半分をアメリカ、そして残りを上海で過ごしているそうです。
特に、S氏は西山訪中後に、上海の建築学会で「DK(ダイニングキッチン)」と類似する主張をした人物で、私も兼ねてから注目していました。
その後、S氏の主張する住宅規格が中国の都市集合住宅に採用されていくのです。
ですから、西山とS氏の間にあったであろう影響の因果関係を解きほぐすことは重要な作業でした。
そのS氏がまだお元気で、かつ、今回お会いしたI教授の縁であったことに驚きました。
さっそく、S氏等にお会いし、当時のことを聞き取り調査で掘り下げたいとお願いしました。
すると、
「分かりました。では、私が仲介役になって彼らに連絡をしてあげます。アメリカから戻ったら、また上海に来て下さい。」
という返事を頂きました。
その後、
「これはMさんの研究に役立つかもしれませんから、差し上げます。」
と中国の住宅史(通史)を記した文献を数冊頂きました。
正直かなりの荷物になりましたが、気持ちが嬉しかったです。
今回は十分に掘り下げられませんでしたが、次回以降は非常に期待できます。
何より、中国の建築界に多くの人脈をつくる機会を得られたことが一番の収穫です。
これをきっかけにし、多くの研究者と縁故を築き、共同研究なども視野にいれていきたいものです。
日頃、勤務校では研究活動の機会が非常に少なく、研究に飢えていた私は何か満たされるようでした。
やはり、こうした研究が活発で、かつ、様々な縁故と出会える場は魅力があります。
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