『私たちの50年!!』関連ブログ

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 ≪思いつくままに≫  戦後移住者の第1号?の砂古さんの【思い出の記】連載が始まりました。
 
砂古です。
勝ち負け闘争での「偽の宮様」を書いたら、和田さんに戦後初期移住に関わる投稿を、分割で良いから「気楽に」とお勧め頂きました。あれから考えました。書ける程のネタがあるのか? と記憶を解きほぐして見ました。不十分と案じましたが、一応やってみます。 
私は東山のサラリーマン移民です。TOZANの名前は今ではカンピーナスの、映画「ハルとナツ」のロケになった農場 & 酒の 
東麒麟の工場が残っているだけです。  
渡伯前後の自己紹介が必要ですが、その背景が伴わざるを
得ないので、ちょっと長くなるのをご容赦願います。
戦前は農場だけでも、W50の吉田さん現住のピンダの、米作水田を含み10000ヘクタールです。 1ヘクタールは100m x 100mですから、サンパウロ大都市近辺での10キロ真四角の面積をご想像ください。酒以外に繊維一貫行程の工場と
鉄工の2工業、銀行、更に特筆すべきは「カーザ東山」で、奥地に手広く支店を布石し、コーヒー・綿の青田買いと精選、サントスでは其の輸出商として知名度最高、サンパウロ本店では一般商品輸出入リオでは三菱商事の代理店として鉱物資源の買い付け・輸出を引き 受け日本実業界のブラジルでの代表的存在でした。                                     
これらが戦後資産凍結解除となり、極めてささやかながら再稼働に取りかかり始めました。       
元本社の岩崎家の東山農事は三菱財閥として解体されていたので、
「東山企業」が在伯資産管理の本社的存在として、旧丸ビル内に 設立され、私は1951年に東京外語ポ語を卒業し、就職しました。
入社一年目に、その社長の君塚さんがブラジル大使に任命され
幸運にも私設秘書として渡伯同行のチャンスが私に訪れたのです。
君塚さんは1920年代はロンドンで三菱銀行駐在員、30年代は上記の多分野に渡る事業に着手・運営する傍ら、平野植民地となった 土地購入希望者全員への 一括立て替え払い、また日系青年層のスポーツ奨励への援助に努力、コローニアとは大変密接な関係がありました。大使赴任に当っては、
戦前関係のあったスポーツグループに数個の持ち回りのトロッヒーを後送荷物にしました。                デヴィスカップの明大出身の藤倉選手をサントス勤務に本社で採用させ、同市のテニスクラブに貢献、同クラブや社交界でも名高い釣りクラブの会長にもおされ、ブラジル人社会にも人望の高い方でした。大使として赴任間もなくSHIN(慎)と記したエンジン付きの釣り船がサントスのクラブから回送されて来て、治安問題皆無の当時で、官邸の目の
前(今のアテーロなき頃)のフラメンゴの岸壁に係留され時折大使夫妻がむつまじく釣りを興じられたのを覚えています。
大戦争中はスマトラの東山農事勤務で、日本に残した英国人夫人は敵国人として苦難の思いで過ごされ、高じて戦後早々離婚し英国に帰国、僕が入社当初、社長は独身でのち再婚されました。
パーティーなどで、外交官生活無経験の新夫人の通訳をキャリアー の本官に依頼するのを心良しと出来なかったのでしょう、それが私設秘書を帯同された理由の一つだったと思えます。それと大使帰国にさいしては、再稼働の「カーザ東山」に僕は残留する、事前了解がありました。 経緯から長い自己紹介になり失礼しました。(続)
 
 
イメージ 1

 
適当な写真が送られて来るまで昨年の9月にブラジル書道愛好者展に来賓として参加されておられた時に恵子が書いた作品の前で撮らせて頂いた写真を貼り付けて置きます。

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砂古 さん
【思いつくままに】始まりましたね。第1回の自己紹介(ブラジルに来られるきっかけ)大変興味深く読ませて頂きました。戦前の東山農場、戦後のカーザ東山の紹介は、勿論のこととして手持ちの日本ブラジル交流史の年表によると1952年日本人のブラジル移住再開。戦後初代大使君塚慎着任と出て居りその私設秘書として来伯された戦後移住者第1号的な、砂古さんの存在は歴史上に特筆されるべき貴重なお方だと分かっただけで大満悦で原稿料も払わず当時の貴重な戦後移住の歴史を生き字引的な砂古さんに連載で書き綴って頂けるとの事で大変嬉しく存じます。
宜しくお願いします。
『私たち40年!!』寄稿集への収録は、1回1万ごとの制限が有りますので少し纏まってからになると思いますが、もし適当な写真等が有りましたらお貸下さい。

2014/12/27(土) 午前 10:17 [ yoshijiwada ]

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砂古さん

東山農場の話を興味深く読みました。小性のカンピーナス市の自宅から東山農場は目と鼻の間です。
都賀

2014/12/27(土) 午前 10:18 [ yoshijiwada ]

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砂古さん
≪思いつくままに≫は、連載として気が向いた時に思い出す時にゆっくりと書き綴って頂けたらと願っています。これは『私たちの40年!!』に収録させて頂く予定ですので年末年始のバーチャル座談会には含みませんのでご了承下さい。
第1回を下記BLOGに掲載して置きました。下記注を付けています。
≪適当な写真が送られて来るまで昨年の9月にブラジル書道愛好者展に来賓として参加されておられた時に恵子が書いた作品の前で撮らせて頂いた写真を貼り付けて置きます。≫

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/47952341.html

2014/12/27(土) 午前 10:30 [ yoshijiwada ]

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砂古さん
ピンダの農場は1915年に鹿児島出身の安田良一氏が開墾したところです。その当時は藤崎商会のものだったそうです。砂古さんが東山に入られた頃は安田氏は存命だったと思いますが、安田氏と面識はあったのでしょうか?
吉田

2014/12/27(土) 午後 11:29 [ yoshijiwada ]

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和田さん、 砂古です
はい、バーチャル外と分っております。 お薦め頂いて、時間が経過しすぎると悪いので先ず、渡伯の経緯だけ、やむを得ず書きました。身分不相応な時期でしたので、何時も「最初のリオ時代」でぼかしていた事でした。
新春放談が終わる頃からがいいかと、思っております。

2014/12/27(土) 午後 11:31 [ yoshijiwada ]

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砂古さん
急ぎません。2015年度の期待の欄としてゆっくりと熟成させて行きたいと思いますので≪思いつくままに≫自由に書き残して頂ければ嬉しいです。宜しくお願いします。

2014/12/27(土) 午後 11:34 [ yoshijiwada ]

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拝復、砂古さまへ、
私は来伯後田舎回りの生活をし、ブラジル日系コロニアの
歴史を底辺からみる事は、田舎の連中から色々教えられました。
今回、其の歴史の中心におられた砂古さんから、今までとは違った角度から、ブラジルの日本移民の歴史についてご意見を拝聴できるのは何とも光栄です。特に第二次大戦終結直後からの日系史について教えて下さい。又、砂古さんの長い在伯の、日本移民の移民生活、移住観などについて、忌憚のないご意見おききできれば幸いです。宜しくお願いいたします。
御自愛下さい。 浅海 拝

2014/12/27(土) 午後 11:36 [ yoshijiwada ]

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吉田さん、 砂古です
はい、藤崎商会のものでした。どういう経緯かしりませんが、戦前に東山が譲りうけました。その折、藤崎商会の後藤武夫さんも東山の社員になられました。私のリオ時代は、後藤さんは東山のリオの事務所におられ、其の自宅で、安田良一さんの息子で医学生だった確か Nelson?に何回か会いました。ピンダの医大の先生になりました。 彼の同僚のブラジル人の教授が 私の例のカンポスの家を買ってくれました。 其の兄の商工大臣を短期間やったFabio安田にも、私の息子の所属ゴルフクラブ会った事があります、でも良一さんとはお目にかかった事はありません。
戦前の岩崎家は大変温情深い考え方で東山農事を運営されたと聞き
ます。で、移民がピンがで体を痛めるか ら酒造に踏み切ったと、言われているのは本当だと思います。が、ピンダの米が余剰になったのも理由の一つと言う説があります。

2014/12/28(日) 午前 0:01 [ yoshijiwada ]

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今は、和田さんの説明では、弥勒米を酒造に使っているようで、日本の麒麟の参加もあって、今の東麒麟の SAQUE DOURADO はすごく美味く、私も時折たしなみます。 揶揄されたアタマ・キリンは、昔のレッテルのまま売られていますが、一般には調味料用に使われているようです。

2014/12/28(日) 午前 0:03 [ yoshijiwada ]

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砂古さん 吉田さん 浅海さん 皆さん
砂古さんの≪思いつくままに≫にをベースに当時の出来事、史実を皆さんで語り合い直接質問させて頂く機会が有るので皆さんの参加により砂古さんの想い出話しが生きて来ると思いますので皆さん遠慮なくこの機会を利用して大いに勉強しましょう。来年のMLの大きな楽しみに成るようで大変嬉しいですね。皆さん宜しくお願いします。

2014/12/28(日) 午前 0:17 [ yoshijiwada ]

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砂古さん
早速の返信ありがとうございます。ネルソン氏はタウバテの病院長をしていました。その弟のヘナト氏は歯科大学教授や市会議員をつとめました。お二人には忘年会や会館の催し物の時お会いします。移民の健康を考えて酒造に踏み切ったなどという話ははじめて聞きます。おそらくほんとうでしょう。
温情深い家系だからそこの娘さんがアレキサンダーズ・ホームを創ったのでしょうね。一度ヘナト氏に会ったときにどうして兄弟の誰もが日系人と結婚しなかったのか聞くと、お父さんがピンダに来た最初の日本人でまだ二世の娘さんは誰もいなかったとこたえました。馬鹿なことを聞いたものだとおもいました。
ファビオ氏が商工相、エドワルド氏が州の公務長官兄弟皆怱々たる人物です。この兄弟のお母さんはどのような方だったのか知りたいと思います。あまり時間はありませんが今度聞いてみたいと思います。

2014/12/28(日) 午前 2:53 [ yoshijiwada ]

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