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花談議466 ≪イペーロッショが満開です≫ 地元ポルトアレグレから

この時期に咲く花には、限りがありますが、街のあちこちに咲いているのがイペーロッショです。風車小屋公園のイペーロッショは、まだ咲いていませんが散歩道の一つに大木のイペーロッショが満開で綺麗に咲いていました。昨日撮った写真を残して置く事にしました。

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中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第1回                                  

IMG_20190702_0001.jpg

文・挿画 櫻井甚作


第1回


太平洋地図2_20190710_0001.jpg


*地図の上をクリックすると拡大してご覧になれます。



                     
ま え が き


 私は大正10年(1921年)生まれの酉年。私と同世代の多くの人たちは、第二次世界大戦に始まった大東亜戦争、太平洋戦争の犠牲となり、内地、外地の別なく、生と死の境を身を以って体験された方が多いと思います。
 じつは私もその一人なのです。真珠湾攻撃の成功も束の間、ミッドウェイ海戦の敗北により、米軍のガダルカナル島反撃がはじまり、日米の死闘が繰り返されましたが、ついに日本軍は、全滅にちかい大打撃を受けました。九死に一生を得た私は、間近に多くの戦友の死に直面し、こうして自分自身が生きていることが、何とも不思議でなりませんでした。

 つたない筆で綴ったこの手記は、当時横浜海軍航空隊工作兵であった私のガダルカナル敗戦記録です。いわば一個人の、それもしがない一兵士の私が実際に体験見聞したものを、すでに忘れかけていた記憶の中から、一つひとつ拾い出したものですから、記述に多少の相違や、正確性に欠けるところもあろうかと思います。二度とあってはならない戦争の隠れた裏面史としてお読みいただければ幸せに存じます。

             1993年4月 
                              櫻 井 甚 作



            
横浜海軍航空隊、フェザーストン捕虜収容所の英霊に捧ぐ





ソロモン諸島周辺2.jp2のコピー.jpg

*地図の上をクリックすると拡大してご覧になれます


その頃の戦局は

1940年(昭和15年)
     9月2日 日独伊三国同盟調印。
1941年(昭和16年)
     6月22日 独軍ソ連(ソビエット)に侵入、独ソ戦勃発。
     12月1日 御前会議、対米英蘭開戦を決定。
        8日 真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。
1942年(昭和17年)
     1月    日本軍、マニラ占領。マレーのクアランプール占領。
           シンガポール占領。ビルマのタボイ占領。ニューブリ

           テン島ラバウル占領。ボルネオのバリクパパン占領。
           ビルマのモールメン占領。
     2月    セレベス島マカッサル占領。シンガポール陥落、英軍
           無条件降伏。チモール島占領。
     3月    ラングーン占領。ニューギニアのラエとサラモア占領。
           ジャワ島蘭印軍無条件降伏。クリスマス島占領。
     5月    ビルマのマンダレー占領。
       3日  ソロモン諸島のツラギ島、タナンボコ島、ガブツ島に           日本軍上陸。ビルマのバーモ占領。ビルマ・中国国境
           竜陵を占領。コレヒドール島占領。
     6月5日  ミッドウェー海戦で、日本軍連合艦隊大敗。
           アッツ島占領。キスカ占領。
       16日  海軍設営隊、ガダルカナル島飛行場建設作業を開始。


運命の糸
      


 横浜海軍航空隊入隊 
                         
 
 一九四一年(昭和十六年)五月、二十歳になった私は家族や友人たちの歓呼の声に送られ志願兵として横須賀海兵団に入団した。この年の十二月、太平洋戦争が勃発した。
 このため海軍工作学校を八か月で繰り上げ修了して実施部隊『横浜海軍航空隊』(通称「浜空」)に同僚の長谷川昌三とともに配属された。主に九七式大艇と二式水上戦闘機の部隊だった。
 その頃、浜空の本隊はニューギニアの北東、ニューブリテン島のラバウルにいた。翌年、昭和十七年四月か六月、私は残留部隊に残るはずだったが、ラバウルへ赴くことになっていた長谷川が急性盲腸炎のためかで行けなくなり、かわって私が本隊へ送られることになった。入隊後わずか二週間たらずのことだった。
 部隊名は『ウの一○五ー五三部隊』(ウのヒトマルゴと読みラバウルを表し、ゴオサンは横浜海軍航空隊を表す記号だ。)この交替が運不運の岐れ目となる最初だった。
 当時、私の家には電話がなかったので、裏の酒屋へ電話して家の者を呼びだしてもらった。行先は秘密にしなければならず、急いでいたので出てくれた二番目の姉に、現在のJR桜木町駅を待ち合わせ場所に指定して電話を切った。
 が、この時はとうとう会えず、飛行機でサイパン経由ラバウルへ私一人が送られた。後からの手紙で分かったことだが、父、姉二人と弟が横浜駅で待っていたと言うのだ。来てくれた家族の一人ひとりに、別れの言葉のひとつでも言って出発したかったのだが、なんとも歯切れの悪い発ち方をして来てしまったと、虫の知らせというか、いつまでも悔やまれてならなかった。
 私は工作兵で飛行機などの修理をする兵隊だったが、溶接専修を修了したばかりの新米、修理をするには熟練が必要で、新米の私などには溶接器など触ることさえできなかった。
 隊には若い兵隊がいなかったので、私は士官の従兵をせよということになった。士官室には大尉の分隊長と星野万吉軍医長の二人がおり、食事、洗濯、伝令などの世話をさせられた。まだその頃は、一通りの用事がすめばあとは呑気なものだった。
                              (明日に続く)

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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(125) ニッケイ新聞WEB版より

 また、もう一方の西部攻撃隊はニューギニア島の南東に向かった。そこは2年ほど前、珊瑚海、ガダルカナル戦で日本軍がアメリカ軍を破ったところだ。アメリカ海軍はギルバート諸島の西から南東‐北西に進路をとり迅速に島や重要な基地を次々占領していくという飛び石作戦を行った。
 1944年5月、この攻撃隊はニューギニア島の北西を占領しフィリピンに向かった。一方、東軍は10月にマリアナ諸島を完全に占領したあと、日本列島の攻撃準備に入った。西軍はフィリピンに到着し、日本海軍に多大な損失を与えた。その月、アメリカ軍はレイテ島に上陸。その3ヶ月後の1945年1月、マニラに到着した。

 同じころ、東軍は日本列島を攻撃するための重要基地となる硫黄島を占領した。航空母艦から飛び立つ飛行機の空襲、そして硫黄島の占領により、日本最南の沖縄をはじめ、四国、九州はては本州の主要工業地帯、軍事基地が空襲を受けた。本州には東京をはじめ、大阪、京都、神戸、広島が存在するのだ。
 1945年3月終わりには東軍、西軍が共同作戦で沖縄の襲撃を開始しようとしていた。

 マッシャードス区に住む保久原家の家族は増えていった。1934年から偶数の年に房子は子どもを産んでいたが、1944年11月5日、女の子をもうけた。ちょうどアメリカ軍がフィリピンで日本海軍を破り、諸島を侵略しようとしている時期だった。
 子どもはヨシコと名付けられた。アララクァーラでパステースの店をもっていた平良の未亡人、パステルヤー ヌ オバーの娘のうちのひとりの名前をもらったのだった。平良未亡人にはウサグァーの死亡申告をした仲宗根源佐の嫁マリアのほかに、ヨシ
コという娘がいた。もうひとりのヨネコは津波元一の息子マルチニョともうすぐ結婚することになっていた。
 彼は正輝の親友の津波元一の息子の一人だった。アララクアーラの沖縄県人どうしはこうした婚姻によって結びつきを強くしていった。正輝と房子の長男ニーチャンはすでに10歳になっていた。次男のアキミツは8歳だった。セイキはまもなく7歳になる。
 三人はもう、畑仕事を手伝っていた。「Purishiza pushaa inshaada de pikeno,para apurendee turabaio na roosa.(小さいときから鍬をすいて、畑仕事をおぼえろ)」と正輝はへたなポルトガル語で息子たちにいった。農家の男子は幼いころから激しい農作業を体で覚えるようしむけていた。
 両親を目の前にして、子どもたちは懸命に働いた。野菜栽培には農園の灌漑システムで水を送るほかに、毎日じょうろで水かけする必要があった。
 じょうろは子どもらの体の大きさで、前年、家族の一員に加わったセーキは以前から農作業をてつだっていた兄たちより幼く、じょうろの大きさがこたえた。じょうろによ
る水かけは日がのぼる以前にしなくてはならなかった。強い日光で水が温まり作物をいためたり、育ち盛りの葉を焼いてしまうからだ。葉がやけたり、傷ついた野菜は値が落ちた。マサユキたち3兄弟は日が出る前にじょうろに水をくみ、野菜畑まで運び、水をまかなければならなかった。
 そのあと、決まった時間に野菜畑の灌水システムの水を下の野菜畑に移す仕事があった。それだけで終わるわけではない。各野菜畑をくまなく見回り、雑草を抜かなければならなかった。全部の作業がおわるころには畑はみごとに手入れされていた。

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≪砂古画集99作品紹介 作品編その17

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60  ポンポンダリアと無名君 アクリル画 20x20

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同じくミニ版です。
 無名の葉っぱは、イビラプエラ公園に隣接の苗育成所から4・5年まえ一枚失敬して増やしたものです。群生すると茶色の枯れ葉も目立たず一面が綺麗な趣になります。
 我が家のベランダを飾り、20階建て40戸のアパートの入り口一角にも群生させています。密集したら、別の一角にも移させようかと考えています。
 絵描きで同僚のおばさんがこの絵を買ってくれました。
      ↓「アパートの入り口に群生している無名君」
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61  向日葵 アクリル画 50x40

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 サンパウロから北方数十キロのAtibaiaへパークゴルフに行く友人から向日葵をもらった。

 Atibaiaは Cotia移民の花卉栽培業者が多くヨーロッパ輸出でも有名なだけに、頂いた向日葵は素晴らしく、何日かかけて描く間にも花の生気が衰える事がなかった。

   2011年、南フランスを長男運転のレンタカーで旅行し、向日葵のゴッホが住んだアルルの町や広大な向日葵農園、を思い出して描いたがゴッホのように主観的な味のある絵にはならず、相変わらず自然美尊重の客観的絵におわった。持ち前の感覚の限界というべきか。

62  巨木 Fugueira アクリル画 50x70

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 サンパウロのイビラプエーラ公園のRepublica do Libano側のportão(入口)7 から入って左のBosque de Leitura内に Figueira の巨木が3本ある。一番下側に水平に伸びる枝は重さに耐えられないほど太くて長く、そのため支えがしてあるが、絵には都合が悪いので、支柱を描くのは見送った。2015年の作。

 Figoはイチジクの果実でFigueiraはイチジクの木である。これほどの巨木ではないが、他の公園でも矢張り並外れて大柄のFigueiraを見るが、果実が付いているのを見た事がない。何方か説明してもらえないものだろうか。我々の食べるイチジクの木はもっと小ぶりだったと思う。

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ボリビア日本人移住120周年=眞子さまご臨席し盛大に ニッケイ新聞WEB版より

ボリビア日本人移住120周年式典にご臨席された眞子さま(ボリビア日系協会連合会提供)

 15日にペルーからボリビア入りされた眞子さまは、17日午前11時にロス・タヒボス・コンベンションセンターで開催された「日本人ボリビア移住120周年記念式典」にご臨席された。
 ボリビア政府からは、アルバロ・ガルシア・リネラ大統領代行が出席し、約250人(主催者発表)で記念の年を祝った。ボリビア日系社会の中心となる日系団体、ボリビア日系協会連合会事務局の安仁屋滋事務局長に、当日の様子を取材した。
 この日、眞子さまは淡い色を基調に緑の楓が描かれた着物をお召になりご出席。
 日比野正靱式典実行委員長(岐阜県)が挨拶し、続いて安倍晋三内閣総理大臣、河野太郎外務大臣、愛媛県、熊本県からの祝辞を披露した。

 眞子さまは、お言葉で「ボリビアではすでに日系6世の方が誕生していると伺いました。また、日系団体の活動に参加する若い世代の方々も増えていると伺い、喜ばしく思っております」と述べ、この歴史が未来に引き継がれることを願い「ムチャス・グラシアス」と締めた。
 式典後は、午後12時10分から祝賀会が開催され、移住120周年のために作曲された「Los Pioneros」、美藤会の日本舞踊、琉球國祭り太鼓ボリビア支部の演舞が披露された。最後に式典に駆けつけた福岡県の小川洋知事が祝辞を述べた。
 祝賀会後、眞子さまは戦前移住者子孫とご接見され、普段合う機会の少ない日系団体間の親睦を深める機会となった。
 眞子さまは15日にラパス市に到着し、エボ・モラレス大統領を表敬訪問。16日にはラパス民族博物館を視察し、サンタクルス日本語学校の生徒らと交流された。
 今後はサンタクルス中央日本人会、サンフアン移住地、オキナワ移住地をご訪問され、20日に帰路につかれる。

眞子さまのボリビアご訪問写真グラフ
ボリビア日本人移住120周年式典でお言葉を述べる眞子さま(ボリビア日系協会連合会提供)
120周年式典会場の様子(ボリビア日系協会連合会提供)
眞子さまに旗を振るボリビアの子どもたち(ボリビア日系協会連合会提供)


□関連コラム□ 大耳小耳

 7月17日に行われた日本人ボリビア移住120周年記念式典」では、在ボリビア日本大使館が企画し、JICAボランティアの安達由香さんが取材等を務めた記念映像が上映された。この動画には、120年にわたる日本人移住者のボリビアとの共存がまとめられている。現在ユーチューブで公開されており、16分の長編(

)と6分の短編(https://youtu.be/9jP5d4HcUsM)が視聴可能。ぜひ鑑賞してほしいところ。

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