『私たちの40年!!』関連BLOG2

あるぜんちな丸からブラジルへそして世界に

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≪思いつくままに(3)≫ 砂古さんからのお便りです。
 
皆さん、
和田さんのお勧めで、未来のない、過去の話だけで心苦しくも感じますが、(3)を送ります。
戦前から君塚さんと親しい多士済々も来訪。そのうちの一人、伯国海軍に石川島のタンカー数隻をすでに売り込み引き渡し実績のあった敗戦認識派でシブラン社長の藤平正義氏(のち、ブラジル豊和社長)は戦前陸上競技選手で君塚さんに大変目をかけられた人です。アナピオ・ゴーメス将軍とも親しかったので政商と言っていいでしょう。勝ち組テロの狙撃を幸いまぬかれた一人です。
 
ある夕、同氏が大使に「砂古君をかります」で、案内された先は Laranjeiras地区の奥高い Rua Alice の「上院」と通称される、最高級の夜の館でした。のちにサンパウロで大変お世話になり、結婚式での仲人役もしていただきました。
「別に下院」が Lapa の Rua Candido Mendes にあり、現在の
サンボドロモに近いマンゲには極めて大衆的な zona があると聞きました。
 
日系2世の最初の政治家、サンパウロで市会議員から州議員になって間もない田村幸重氏(のち連邦議員)も東山の後藤さんともう一人誰かと見えました。当時、サンパウロには日本人と2世子弟家族で構成する洗濯業(チンツレイロ)が軒並みでした。日本の戦勝と日本船が迎えに来るのを信じ、農地を処分してサントス辺りで待機し、諦め、サンパウロに居つき、家族労働力だけの小資本で始められるこの仕事を選んだ人達でした。                                                              
彼らは田村州議の大事な選挙地盤であったので、同州議の言動に曖昧があったのが問題にされていた頃です。
 
こうした傾向は、邦字新聞社と日系の銀行にもありました。 
パウリスタ紙(日伯と合併、現在のニッケイ)は認識派の立場で偽の宮様追求探訪や厳しい社説を載せたのに対し、サンパウロ紙は鷹揚で戦勝派の購読者も積極的に獲得の経営方針でした。                                        
銀行では地味な東山に対し南銀は増資を戦勝派にも求め支店拡張を先行、50年代後半の終わり頃は、東山南銀と言われていたのが南銀東山と逆転しました。
この南銀も消え、東山は三菱銀行に合併され、更に東京三菱となり、一般顧客業務を廃止しビジネスバンクに変貌、隔世の感ありです。
 
公邸探しは、その昔の脱走船員で、大変親切で気前良しの、でもズケズケ物を言う、宝石商で、リオの顔役、白土貫治さんと東山の後藤さんが奔走。
決まったのはグローリアホテルに向かって左100メーターの建物に、屋上には使用人部屋と倉庫付きの、最終6階の全フロワー占有のアパートが決まりました。車が2台ユックリ入る専用の車庫も有り、古いが良い建物でした。内装、家具を整え、ホテル滞在2か月半後に引っ越し、僕はブラジル人宅に下宿しました。
大使夫人の到着も、それから間もなくでした。
 
添付の大使の寫眞はGuanabara湾の奥の宋美齢が逗留したと聞くパケタ島に大使を案内し、レトロ観光馬車上で僕が前の馭者台に移って体を後ろ向きに直して撮りました。Made in occupied Japan の刻印のある Leotax という、普通値段の蛇腹付き写真機で、日本出国前に求めたものです。
 
この島には鳳凰樹が多く、珍しい事に、花が赤だけでなく、真っ黄色
のも2〜3本あるのを十数年前に行って確認しました。 見た樹相は
花の赤・黄に全然関係なく、同じでした。(続)
 
イメージ 1

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砂古 さん
連載3回目、楽しく読ませて頂きました。戦後コロニア史の中心地サンパウロに住んだ事がなく、北ゴヤス(現トカンチンス)での牛飼い2年、リオの石川島播磨造船所勤務1年の後はポルトアレグレ総領事館、丸紅ポルトアレグレ出張所とずっとポルトアレグレ住まいですので戦後コロニア史に出て来られる著名の士は、新聞では存じ上げていますが、直接お会いした方は少ないです。
蛇腹のカメラで砂古さん御自身がパケタ島で撮られた初代ブラジル大使の君塚さんの写真は、博物館にでも飾られるべき貴重な写真ですね。これからの続きが楽しみです。
下記BLOGに写真とともに掲載して置きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35519883.html

2015/1/17(土) 午前 0:36 [ 和田好司2 ]

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砂古様
白土・リオ氏とか藤平・spl氏とか戦前からの豪傑の名前が出て来て懐かしいですね。
君塚、田村とか往年の名士も登場です。砂古さんは戦前と戦後を繋ぐ50年代を経験された歴史的人物ですね。
戦後の新移民草創期のことを語れる人はもう少なくなっているので、先生もそのころの日系社会・人物についてもう少し語られたら如何でしょう。
駒形

2015/1/17(土) 午前 0:41 [ 和田好司2 ]

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丸木で〜す

南米銀行と東山銀行が同じ会社とは知りませんでした。東山の頭取されてた藤井さんの甥が慶應在学中に僕の家内からポルトガル語を習ってました。卒業してから入社された三菱銀行ではブラジルに派遣されずニューヨーク駐在員になり、ゴールドマンサックスにスカウトされ(経緯は繁田一家の残党参照)、超巨大M&Aを手掛けたのでチェースマンハッタン銀行にスカウトされ、日本支店長に赴任後はスイスのワールブルグ系(悪グループ)ジロンリード投資銀行の代表となり、日本では外資系金融界の重鎮になられました。

2015/1/17(土) 午後 9:27 [ yoshijiwada ]

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丸木さん

東山(銀行)と南銀は最後まで別銀行です。 50年代は東山南銀と邦字新聞が2行をまとめて呼称したのに、60年代には社会的ステイタス評価が逆転して東山南銀でなく南銀東山と、新聞にかかれるようになった意味です。
「東山、南銀」「南銀、東山」が正しかったのですね。失礼しました。邦字新聞にも「、」があったのでしょう。アタマに残っていた4文字だけを羅列して失礼しました。

ハーバードのビジネススクールを卒業し、世界漫遊奨学金?かを得て、岩崎家の薦めでブラジル東山で3〜4か月過ごし、後に三菱商事社長をやり、経団連入りした、槙原稔の息子もゴールドマンサックスに入社、20数年前に初任給5000ドルと、親父さんから聞きましたが、その後どうしたか聞きません。丸木さんの奥さんの教え子の藤井さんの息子はすごいキャリアーですね。

2015/1/17(土) 午後 10:29 [ yoshijiwada ]

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子供の時ポルトアレッグレへコーラスツアーで和田さんにお世話になった私の次男は、ヒューストンの大学へテニスの誘いで在学中に、ゴールドマンサックスに次ぐスミスバーニーから話があり(柳川高校にテニス留学卒業でしたから)、東京事務所に直接赴任しましたが、後に同業のキャンターフリッツ東京事務所に移り、中国派遣の話のあっ後、仕事を変え、現在はアメリカでグリーンカードを得て地味にやっております。

2015/1/17(土) 午後 10:31 [ yoshijiwada ]

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砂古さん 随分昔の話が出て来ましたね。御子息がThe Little Singerのメンバとして吉田指揮の下で歌って居られたのは何時頃の話になりますかね。高井先輩が団長で来られたのが最初で2度目の時は高井夫人が引率で確か砂古さんの奥さまもご一緒だったと思います。御子息はその後、高井義昭さんと一緒に我が家に来られインテルの試合が見たいとの事でBEIRA RIOに3人で出掛けダフ屋から高い入場券を購入したらそれが何と当時コレイアと呼ばれていた立見席で雨に濡れながら観戦しました。
当時からサッカーよりテニスで頭角を現しているとの事でしたが、現在はアメリカに住んでおられるのですか。月日の経過を感じます。当時は、ご尊父の砂古さんを存じ上げて居なかったのでコロニアの貴重な存在とは知らずに失礼しました。

2015/1/18(日) 午前 0:09 [ yoshijiwada ]


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