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あるぜんちな丸からブラジルへそして世界に

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≪思いつくままに(8)≫  砂古さんの第8回の原稿が届きました。


ブラジルは今カーニバルの最中です。お暇がありましたら、お読みください。
明けて1954年ともなると、日本との往来も急に賑やかになり始めましたが、勝海舟の孫家族の美容院以外に、東京は銀座の山野愛子美容院の進出も有り、美人の 大○さん と ○月さん、 いずれも30才台の美容師が派遣され、リベルダーデ広場近くの今の 中華料理のシーフー辺りにできた新しいビルの2階に大きなサロンでオープンしました。                     
女性の存在に臭覚の強いN君が、会える場所を探し出して、ペンソン岡田の昼飯新来族4・5名で実行に移りました。 行った先は、戸主は Tさんの大きな家で、未婚の娘さんはその自宅で洋裁学校も経営しており,生徒である新來2名ほどを含む若い2世の娘さん達が週末開く社交ダンスパーティーでした。2人の美容師と現地参加の、但し一世の妙齢の美容スタフ1名は、その家の下宿人でしたから、若い校長先生と共に4人で参加するのです。男性では当時この学校の契約計理士だったS氏など若干名の2世氏たちが呼 ばれて来ていましたが、男性不足で我々は大変もてました。                   
あの頃は社交ダンスが良く流行り、家庭、特に娘さんのいる家に招待される事などが多かったです。
FestaJunina とか Festa de São Joãoと言った6月祭でも、家庭でパーティーが催され、Quentão と言うニッケを混ぜたピンガ酒とアメ湯を合わせたような熱いお酒を飲んで、寒空の庭でおしゃべりパーティーにも招かれました。やっぱり娘さんのいる家でしたねー。
一度、そうした家庭パーティーに呼ばれた折、勝ち組のお爺さんが現れて 「旭日」とかの表紙の印刷物を僕に読ませて、日本は勝った筈だと、戦後の新来の僕に、勝ったと言わせたい、それには閉口した事があります。
                                                                                         
彼女たちとは T家の屋内だけに留まりませんでした。二世団体の主催するピラチニンガ・クラブなど他所の大きいダンスパーティーや、お茶の水橋を渡って ビールなども飲めてピアノとバイオリンが聞ける気の利いた、でも古い古い鉄格子のエレベーターを1階上る、 ヨーロッパ風の喫茶店 Austria で駄弁ったり、 たまには少々デートらしく、郊外に。 但し、時代柄、バスです。 肝心の山野愛子のお二人には、外へ迄はお相手して頂いた記憶がありません。                       
美しい日本語に飢えていたので、きれいな人から綺麗な日本語を傍で聞くだけでも良かったから、お姉さまでも良かったのです。それ以上期待してなかったと言えば嘘になりますが・・・。景気の良い中年の駐在員がポチ ポチ現れはじめた時代で、そのうち2人は下宿を出て行かれ、 なんだかアゲを鳶に攫われた感じでした。                                              
その男性は駒埼?さんだったかと覚えていましたが、若しやこのW50年の 駒形 だったでしょうか? 「紀元は2600年、嗚呼一億の胸は鳴る−♪ 」 を覚えておられるのなら・・・。 でも違うでしょう。 ぼくより数歳高齢で、あんな頭の冴えた書き込みは出来ませんよネ。
           
その美容師の大○さんは、数年後日本に帰られて、銀座でチャーミング・スクールを開いたと新聞で読みました。                       
女性の歩き方からすべて指導する学校で、週刊誌にも取り上げられ評判のようでした。 
そのT家の校長先生には、親が決めた親戚の許嫁が日本にいて、近々着伯結婚予定でした。ところがN君に惹かれて、気持ちの整理がつかないと、間際になって僕に長々と電話がかかって来たのです。 N君もフィアンセを日本に残してきている上に、本気でないのは、僕には分かっているので、これには困りました。 幸い無事に、二人は結婚され問題も起きなかったようです。
名俳優であった、後監督・製作も手掛ける、映画で大成功の 大日向伝 が、53年にサンパウロ州で牧場を作リ、映画も作る構想で家族と女優さんも 連れて移住してきました。その女優さんの下宿先もこの Tさんの家だったと聞きましたし、そのグループの出入りもあったらしいです。Wikiediaによれば、大日向伝は家族で帝国ホテルに住んでいたとかで、当初はサンパウロの一流ホテルに居を構えたでしょう。日本とも1960年代まで往復を重ね、数本名作を手掛け、ブラジルでは 1954年に「バルガス平野の決闘」とかを製作したとあります。 確かに何かブラジルで映画を作った話は聞いた記憶は有りますが、良く通ったCINE NITEROI でも、その後出来た他の映画館でも見た覚えがありません。 牧場と言うより農場がサンパウロの近郊にもあるとは聞いた事はありますが・・・・・・。 何か尻切れトンボだったような感じでしたね。                                                          
CINENITEROI と言えば良く通ったものです。 日本との繋がりは、電話は論外で、手紙以外は映画だけでした。
ブラジルに着いて2・3年目、カルチャーショックとは言いたくないけど、女優さんの仕種、身のこなし、綺麗な日本語が、殊更に魅力的で、同じ映画を偶には2回も観に行くのは、新来では僕だけではなかったのです。
声の魅惑と言えば、東京で在学中、NHKの連続ラジオドラマ、脚本は内村直也の「えり子とともに」は大好きでした。父子家庭の放送劇で、父親の大学教授役は小沢栄、えり子は声優の阿里みち子。二人の対話の内容も去   ることながら、今でもあの声を若し聞けたらと思う程です。25年ほど前に阿里みち子が亡くなったと新聞で読みました。声優で死亡報道される位だから、矢張り僕が惚れ込むだけの美声優だったのです。ドラマの挿入歌「雪の降る街を」も当時良く聞きました。
そのころ、東山の女子行員の4.5名から、日本語の指導をしてくれとの希望がありました。夜学生が多いので、昼の休憩1時間半の半分を当てました。 彼女たちは、一応話せるものの、会話のトーンが固いなど、かねがね気になっていたのと、{えり子」が頭にあったので、芝居風にセリフの練習を教材に持ち込みました。
演劇と言えば、外語の語劇祭で2枚目をやった以外には,ズブの素人、素養も持ち合わせて無かったので、セリフ指導は長く続きませんでした。自分が女性に求める幻の像への憧れと言えばロマンティックだが、言い換えれば、自分のエゴでもあった訳です。                                                                          
リオにいた頃は、自分は将来ブラジル人と結婚するだろうと思っていましたし、パーティーなどで気に入ったブラジル人の娘さんが親に連れられて現れ、「ああいう人良いですねー」と批評すると、大使夫人に「マー、砂古さん!」 と言われていました。 一方、前に紹介した蜂谷商会の篠又君は、意中の人を日本に残して来ていたせいか、絶対日本人主義でした。
ところが、篠又君は、今はベレンで家族が病院や学校経営、それに公的団体で社会的に著名な、またかっては社会党委員長であり日比谷公会堂で暗殺された浅沼稲次郎と親戚の、高柘卒の戦前アマゾン移民、越智さんの長女、リオの顔役白土貫治さんの家に預けられていたリオ看護大学卒の、日本語が当時皆目分らなかった、現在の Dona Cremilda と結婚、同じ1958年僕は日本から両親に連れられて来て、23年の日本女性と。それぞれにリオ当初の理想と反対現象が起こりました。(続)



写真添付を忘れました。                                                           女性は山野愛子美容院の3名。左端の大○さんが後、銀座でチャーミングスクールを設立。                                                     右端は熟年会会長で歌の会も世話する、丸木さんもご存じの五十嵐さんの弟。慶應の出身。当時南米銀行。のち東京銀行。10数年前に亡くなりました。
前列の左端は、明石君。早稲田建築卒。ビエナール展受賞に来聖。                             アメリカのMITに入学したいとかで、申込書記入を手伝ったりしたが、どうしたのか直接帰国。ここで彼も知り合った、後三菱商事社長の槙原稔の駒込の自宅を明石にやって貰ったと槙原の言。1999年東京で明石君と再会。夫人の介護中で苦労と洩言。                        白ワイシャツが砂古。 右の蝶タイが、僕と同年の久保田鉄工の駐在員、矢野君。

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砂古さん カーニバルは、サンパウロで休養中ですか。我々もおとなしくがら空きの静かなポルトアレグレでのんびり過ごしています。夏の間は、ガウショは、100km離れた大西洋の海浜に別荘を持っているかグラマード等山の上に別荘を持ち出掛けて行くようで本当に静かな住みやすい町になります。カーニバルが終われが新学期も始まりブラジルも新しい年の経済活動が始まります。今年はサンパウロでは水不足、電力不足で夏時間の1ヶ月延期も検討されたようですが予定通り21日(土)で夏時間が終了し正常に戻ります。

2015/2/16(月) 午後 10:59 [ 和田好司2 ] 返信する

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砂古さんの『思いつくままに』8を読ませて頂きました。独身当時の砂古さんの青春彷徨楽しく読ませて頂きました。BLOGには6が最後となっておりトラックバックを貼った関係上≪7≫としましたが、既に7は、送って頂いているでしょうか?チエックして見て下さい。6でリオでの生活を終えてサンパウロに居を移されるとの事でしたが、サンパウロでの生活の始めとして7が存在するのでしょうか?今回送って頂いた物が7に相応するのか教えて下さい。
≪7≫は、下記BLOGに掲載しております。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629329.html

2015/2/16(月) 午後 11:01 [ 和田好司2 ] 返信する

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和田さん、
今、7 を再送しました。 どこかで消えていたのですね。
8 の五十嵐さんの舎弟と山野愛子美容師3名プラス小生プラス2名の
後送寫眞届いていますか?

2015/2/17(火) 午前 4:03 [ 和田好司2 ] 返信する

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砂古 さん
思いつくまま 7を受け取りました。有難う御座います。写真2葉も取り込みました。
先に送って頂いた8は、BLOGでも8に訂正して置きます。7は新規に写真と共にBLOGに掲載して置きます。愈々面白く成って来ましたね。9以後をお待ちします。別送頂いた8の写真は、下記BLOGにも貼り付けておきました。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629329.html

2015/2/17(火) 午前 4:05 [ 和田好司2 ] 返信する

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丸木で〜す

五十嵐さんは弟さんの分まで長生きされてるようです。
真ん中の女性チャーミングですね、タンガがお似合いかも。
コンセリェーロフルタードのペンソンを追い出されてから、プラサダスバンデイラスのアパルタメントで久保田鉄工社員と雑魚寝したことがあります。この方ではなさそうですが

2015/2/17(火) 午前 8:33 [ yoshijiwada ] 返信する

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丸木さん、

久保田鉄工から2番目に駐在で来たのに、メガネをかけた色白中背の北田君がいます。その後、工場を作ってからも居ましたから、時期的には、可能性が有りますが、其のころはもっと別の社員もいたから、違うかも知れません。

丸木さんの言う真ん中の女性、気持ちもいい人でした。タンガの姿は拝んだこと有りません。進出美容院に現地から参加したスタフです。 彼女結婚してから、一度偶然会いましたが早く亡くなりました。 私と彼女ともう一人の女性3人の写真を添付します。ここでは彼女右端です。これを撮ったN君と4人でお茶の水橋を渡っていた時と思います。

2015/2/18(水) 午前 3:32 [ yoshijiwada ] 返信する

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