『私たちの40年!!』関連BLOG2

あるぜんちな丸からブラジルへそして世界に

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≪思いつくままに(7)≫  砂古さんの第7回の原稿が届きました。

サンパウロの大寺院があるセー広場と、裁判所旧館のある広いクローヴィス広場とは、今は繋がって一つの大広場に見えますが、当時は5階くらいの古い建物群で仕切られていました。大寺院の2つの主塔は片方だけが仕上がリ、他方はうんと低く未完成でした。                                                                 

東山銀行は其のクローヴィス広場から入るRua SilveiraMartins 64にありました。 今でも、その建物の鉄扉には、本来は三菱のスリーダイアモンドだったと判る、変形加工された模様が残っています。

SilveiraMartinsの斜め裏通りはRua Tabatingueraで、沖中書店(10数年後に閉店)など日本人の商店のほかに移民呼び寄せ専門の長谷川法律事務所も存在しました。日本人街がガルボンに移り始める頃の日本人界隈の一端です。               

法律事務所の長谷川さんは外語の明治45年スペイン語卒で、戦前は外務省との半官半民の移民会社、海外興業の外交部長としてリオに駐在し、日本移民排斥問題でブラジル議会筋に対しての裏工作に努力をされましたが、アメリカの強い策動もあって結果を出せず、爾来、日本人移民は禁止になりました。しかし、戦後の一時呼び寄せ滞在者に法的に永住権を獲得させる方法に成功した功労者です。                                     

亡くなった、アマゾンの生薬と文筆で有名だった中隅さんがサンパウロ新聞に数回にわたって、詳しくその功績を讃え、社会評価が低すぎたと, 毎回1/4ページを割いて論じられました。 私もパスポートからの永住に切り替えは勿論、同窓会や御自宅の食事に呼ばれたり、後述の同級生太田君と2人で押し掛け食事も頂いたり、お世話になりました。                                               

計画移民枠外で、戦後の一時滞在ヴィザーしか得られなっかた渡伯者は、永住資格移民に切り替えに、直接間接、長谷川さんの世話になっているはずです。 サンパウロ郊外のイタケーラの篤農家が青年を一時滞在で呼び寄せ、青年の持つ農業技術が今後とも必要だとする請願書を持って、1947年以後何回もリオを往復し前例を作ったのが始まりだそうです。 

脱線しましたね、閑話休題。 銀行と言っても、 Banco に昇格するのに、それから1年程を要したCasa Bancária でした。 かって東山全体のグループ総称にも転用され、表玄関名称でもあったCasaTozan は小さくく再発足し、本末転倒して商事部とも別称され、その銀行の一番奥の方に経理もあわせてテーブル10足らずでした。                                            

私の営業部では、上司3名は戦前のベテランでした。新来では入社早々の金谷君がいて、のち、彼はコロニア野球でも有名になりました。ずっと後にリオに移り石川島に入り、独立して何かやっている噂でしたが、早死の風の便りがありました。 同じく、話すのは日本語も上手い、2世の吉井ツヨシ?君がいました。やはり後リオに移り丸紅に入り、夜の大学や英語もマスターしたのでしょう、20年程前に伯 国丸紅副社長の名詞を貰いま したが、和田さんと駒形さん、ご存じないですか?  この吉井君も亡くなったようです。

営業は日本からの直輸入と国内で仕入れた在庫商品の販売以外に、三菱商事を通じてオファーしてくる 鬼針金、ブリキ板,伸線用の銅の棒塊(wire rod)や、東山企業からの住友化学や他社の染料などの売り込みと珈琲の輸出で、私は後者の輸出入の担当でした。 日本との取引はすべて、Italcable Western Radioras の電報経由です。電報が毎朝入電。出来れば商談の進展状況か結果をその日の夕方に返信します。 市外電話は何時繋がるか判りません。珈琲の電報が入ると、クロービス広場にある Lotação と呼称する4・5人乗りの乗合車を捕まえサントスに下り商談し、午後帰社と言った具合です。 納入先は商事経由の明治屋とかでしたが、一回の船積量が100俵前後から200俵まで。当時の日本の消費量は少なかったです。

  

事務所では、輸出入以外の電話でも、私も出るので、勉強させられました。全然見当のつかない未知の商品の問い合わせ電話には困りました。

 当時ジャポンノーヴォと呼ばれ始めた新来が、電話で大きな地声で変な発音のポ語を変にしゃべるので、大勢の若い銀行員(夜学生が大半)は始めは驚いたような顔つきでした。  戦後早々の外語では外人教師はポルトガル人だけでしたし、リオの発音もサンパウロとは又違い、リオでは mesmaを メジマ サンパウロでは メズマ  と言った調子です。

商事部門以外に、別に3人新来がいました。私がリオにいる間に着伯した、いずれも父親が戦前からのブラジル関係者なので呼び寄せ方式で、政府計画移民の始まる前に来れたのです。新来は原則として慣れるまで、幼年学校と称する、同じビルの一階にある、酒の東麒麟の事務所で、ポルトガル語で記入整理する伝票を通じ見習い修業をしますが、來伯順で、すでに見習いを終えた三矢君は銀行に配属され、後に退職するまで長くリオ支店長をやり、リオのまま役員にもなりました。

後の二人の見習終了者も銀行に下りてきました。 その一人は父親が海外興業の戦前派遣社員だったので、生まれはブラジルだが青山学院卒の中野君で、東山銀行が吸収されて三菱銀行時代に役員になり退職。  あとの一人、永田君は、移民送り出しで有名な力行会の会長の永田凋さんの息子、おなじく青山学院卒の陸郎君です。 進出の日特NGK自動車プラグの販売をカーザ東山が担当し、当初は東山銀行も少し出資した関係か、永田君は50年代末にNGKに出向し、結局最後まで留まり、NGKの専務で退職しましたが、 早死にしました。 強い酒が好きでした。飲む折に殆ど食べない人は食べる人に較べ短命の感じですね。 私は両方とも過ぎます。私たち50年の和田さんは美食過ぎに見受けします。でも 、あれだけ 歩かれ るので すから、オーヴァーカロリーは吹っ飛びそうなものですがネー。

 私のサンパウロ転勤少し前に、ガルボン街100番(=100メートル)辺りに、最初の日本映画館 CINE NITEROI が出来上がり、今の東洋街、かっての日本人街形成の基になりました。  地階が映画館、1・2・3・4階がホテルで5階がレストラン。  このレストランでは、時折一部を仕切って新聞社主催の俳句の会とか、ブラジル社会にも有名だった日系の画壇、聖美会主催の展覧会もあり50年代終わり頃、小生の水彩一点が初めて入選しました。

同じく50年代の終わりから60年代の話に飛びますが、レストランでTさんと言う、体躯堂々、色白で、気品のある紳士を見かけました。奥さんはガルボン街で後に美容院を娘さんたちと始められました。どの娘さんの名前も月姫とか○姫でした。一人すごく積極的な                                                       

 ○姫さんが、勝海舟の系図をもって総領事館を訪問し、58年ブラジル訪問の三笠宮妃殿下だったか67年の美智子妃殿下かの整髪を承りたいと申しいでた記事を読んだ記憶があります。パライーゾ区の赤坂のマダムや駐在員のトップ達の夫人が利用してた美容院だと、家内が申しますので、皇族の御用もたす事になったかと想像します。

この CINE NITEROI は鳥居のある赤い橋が始まる辺りでしたから、後にあの下の高速道路建設のためガルボンを寸断し掘り下げのため 、取り壊しになり、移転先が近いようで場外れの Av.Liberdadeの角でしたし、他にも映画館が出来て閉館しました。                                            

ガルボン街は100番あたりまでに小さい商店が数軒あるか無いかで、大半はは民家のたたずまい でした。その一軒が看板なしの岡田食堂なるペンソンで、母屋と奥の車庫の階上は下宿人が住んでいました。 下宿の二世たち、外来の南米銀行、東山、サンパウロ新聞及びパウリスタ新聞の新来社員が、特に昼には大半が同じ時間に集まるので、楽しい時間でした。当時は休憩時間は1時間半が普通で、前庭のベンチに食後座り、車量も歩行者も数少なかったガルボンの通りを向いて、美人の娘さんガ通ると、目を瞠り、話題に事欠きませんでした。


東山のデスクでの砂古と CINE NITEROI の寫眞を添付します。

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閉じる コメント(4)

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砂古さん
後先になってしまいましたが、『思いつくままに』7を下記BLOGに写真と共に掲載しました。
砂古さんの若い頃のカーザ東山勤務中の写真恰好良いですね。サラリーマンで若い頃のこんなに恰好の良い写真を撮り残しているのは砂古さん位でしょう。ミスタ―新来青年、ジャパンノーボの写真として博物館入りさせたい写真です。まだまだお倉には珍しいお宝的な写真が残っているのでしょうね。大変楽しみにしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629878.html

2015/2/17(火) 午前 4:30 [ 和田好司2 ] 返信する

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砂古さん
池田です

日系商社などの事知らず過ごしている私には皆さんの苦労と楽しみの中私たち新人の基盤ずくりされたことしみじみ感じております。
今はブラジル市民の中で日本人として胸を張って生きられるのは皆さんのお陰なんですね。有難いことです。

2015/2/17(火) 午前 4:33 [ 和田好司2 ] 返信する

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丸木で〜す

ニテロイホテルはこんなに大きかったのですか、同船者の韓国人が滞在してたので入ったことがありますが、小さなホテルだった覚えがあります。半世紀近くも前の記憶はええ加減なもんですね。

2015/2/17(火) 午前 6:08 [ BAKABUNDO ] 返信する

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和田: 舞台がサンパウロに移り砂古さんの青春群像、思いつくままに面白く成って来ましたね。初めの方に出てくる吉井ツヨシさんは、丸紅ブラジル会社の現地採用組では一番の出世頭でした。初代サルバドールの出張所長として敏腕を奮い合金鉄の原料の輸出、合金鉄工場への合弁参加等の仕事を手掛けておられサンパウロに戻ってからは機械部門、新しいプロジェクトの開発等を担当されて副社長をしておられました。
駒形さんも退職前は、副社長をしておられたのではないかと思います。私は、ポルトアレグレ出張所長を17年間遣らせて貰い最後の数年は現地役員の一員に入っていましたが、小さい出張所とは云え当時112の海外店を持っていた丸紅の海外店の一つで主管者社宅には、女中と運転手が付いていました。都合21年間丸紅ブラジル会社にお世話になり間口が広く奥行きの深い商社の仕事を存分に遣らせて貰いました。もう20年も前の話です。

2015/2/23(月) 午後 8:41 [ 和田好司2 ] 返信する

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