『私たちの40年!!』関連BLOG2

あるぜんちな丸からブラジルへそして世界に

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≪思いつくままに(9)≫  砂古さんの第9回の原稿が届きました。

当時の新来男性群像に入ります。 同年代敬称略。                                                                   

東山では, 丸の内ビルで5152年に机を並べた青木大彦と山本譲治が54年に着伯。いずれも戦前ブラジル生まれ。                                                                       

 前に紹介した、三矢、永田、中野、金谷それにリオに横道した砂古を第一陣とすれば、この2人は第2陣である。

青木の尊父、青木林蔵氏は京大卒で総領事館の農業指導官。                                                             歴代の総領事 にも意見をズケズケ進言する理論家で有名。 開戦でも帰国せずブラジルに留まった。

息子の大彦はブラジルで待つ家族のため東山企業を退社し、自己単独渡航。 サンパウロで銀行に入り、結構長くいたが、 三菱と合併の前かに退職し,何かの特殊なケミカル製品の仕事に合資でスタート、徳倉建設のウバツーバでのウナギの                                       養殖、次いでコチヤ産組だったか?が出資した保険会社の社長?を引き受け、更にのち京セラの太陽光発電に着手したが見送り・・・、商工業用大型不動産仲介に関わりながら、プロヴァイダー nethall を日本のKDDと共営で立ち上げ(のちKDDは撤退)最後のヒットはソロカバの広大な工業用地を商品流通税ICM免除手配済のお膳立でトヨタに 売り込みに成功。目下は闘病中。                                                                      

山本譲治はCafelandia生まれの二世で日本では小豆島の出身。映画「24の瞳」に兄弟姉妹全員出演。高松商業のハンドボールで国体選手。東山企業退社、自己渡航。 東山銀行に入る。いい男だったが、酒が多すぎ、ピニェイロス支店長の時に若死。                                 

南米銀行では、すでに、第一陣の呼び寄せ組7人の、神戸商大の坂口、花田、小堀、長谷川、阿部に拓大の森田、 長崎高商(長崎大)の金ヶ江が5112月に着伯。長谷川はのち帰国、ブラジルに現生存者は金ヶ江だけ。神戸商大が多いのは、銀行設立の宮坂国人の母校の故である。神戸でない金ヶ江は、尊父が宮坂と南洋で麻の事業を手掛けた縁と聞いた事がある。拓大の森田もそうした縁故であろう。                                                            

阿部と金ヶ江、それに下記の南銀の後組の五十嵐(W50同姓の司さんの弟)は、ガルボンのペンソン岡田で東山や新聞社の新来と同じ釜の飯を食った親しい付き合いだ。 53〜54年に五十嵐、古谷、西川、深谷、それに空手の原田が銀行呼寄または自己渡伯で到着入行。                                            五十嵐と西川は亡くなり、現在ブラジルでは深谷一人。                                        原田は10数年前突然來伯、空手でヨーロッパ彷徨を続け、イギリスで一寸若過ぎる娘さんを追っかけていたら、其の若い母親の 方に捕まって結婚したと白状。空手で地盤を築き安住との事。およそ猛者と思えぬ、昔ながらの風貌でした。

上記の古谷は入学至難と言われた蔵前高等工業卒で更に東大卒、兄の京大卒の岩見氏の横浜紙器が進出して来たが倒産、その整理を手伝ったあと、三井物産に現地入社。 ペルーかチリーへのプラント売り込みに成功し本社採用になり、最後には専務。99年に我々夫婦は東京でリタイア−だった古谷夫妻に再会。                                              その時早稲田の明石が同席。ビエナールに建築受賞でブラジルに1年滞在した。其の間、気を惹かれる若いお嬢さんが2人いたが、いずれもお袋さん達の気位が                                      高過ぎて駄目だった 。其の一人は有名芸術家と結婚した。僕の好みでもある良いお嬢さんだったが、どうしたものか離婚。もう一人は全然無名の知られない男性と晩婚に終わった。

南銀グループではもう一人いた。小豆島出身、神戸商大の浜岡。プロヅトール倉庫会社に居たが、いつ頃独立したか覚えてない。他人と合資で自動車部品の販売店を開いた。     

のち家族だけで部品専門のとてつもなく大型のスーパーマーケット,SuperDomをサンパウロ市の出口に作り、大変有名で其の成功は皆の羨望の的だったが、倒産し、日本に逃避。 ガンになってサンパウロに戻ったが、亡くなった。

54年末に、今書道で知られる若松孝司が着伯。外語ポ語で砂古・若松と同級の、太田恒夫が石川島納入の伯国海軍小艦サルテ号の通訳で、すでに51年に着伯し、パウリスタ新聞勤務だった。若松の到着は其の蛭田社長の招聘によるもの。若松は、太田帰国の頃、総領事館に移り、経済班に勤務中に、PUCで経済学士となる。本官副領事スタートの招聘を断り、若松経済研究所創立。Sol Nascente 証券会社を興し、日本の山陽証券にも資本参加させ、順風だったが、山陽が潰れ、Sol Nascenteも清算にむかった。

現地で副領事になりキャリアーに昇進したのに、後輩の須山がいる。

武田俊夫先輩がやっていた小さな日南銀行の招聘でやって来て、後に総領事館に入った。日本で天皇陛下の通訳などで一時新聞に名前が出た時代があった。

                        

 

東京都立大学の田尻も若松と同船着伯。彼はコチヤに入ったが、早死。田尻と親しかった宮尾は二世で戦前日本行、信州大学卒で人文研究所一筋。 彼もこの頃、ブラジルに帰国。                                                                             

宮尾と同宿した古庄雄二郎は18歳で移民。先ず大阪商船に勤務。バーロスのセールスマンとして卓上電気計算機販売で頭角を現し、事務機械とオフィス什器一切の販売のFKを設立、今は長男が運営、益々隆盛。柔道、ボックシングをかじり、長かったテニスからゴルフ 狂に転向してもう十数年。

このころ、五十嵐から兄さんの司さん(W50nen)を紹介された記憶が有り、弟の五十嵐は金ヶ江と既に下宿していたから、司さんは後から着伯したと考えています。如水会の御尊父御母堂は、またその後から見えたのですね?

閑話休題。太田が大将になって、若松、砂古、田尻の4人が夜集まって              Caio Prado Juinior の HistoriaEconômica do Brasilの勉強会をパウリスタ新聞社で半年位やった事がある。 Condeの坂の下の 新聞社ビルが出来る前の話で、 Gloria街を終えて、Conselheiroを突っ切って、少し下がった地点から始まる             Bueno de Andrade街 に社屋があった。ウナギの寝床のような、幅の狭い奥長い平屋で、植字工が横の細い通路を出入りした。        

その隣は、日本人の勝ち組の洗濯屋と聞いた。                                          

サンパウロ新聞に、確か早稲田の弁論部だった血色のいい勇壮な近藤もこの一寸後にやってきた。

近藤は日本に引き上げたが、日本が景気の良い時期だったのか、三菱自動車に就職。それにふさわしい能力の彼だった。

彼の後に、玉井が来たが親しくなる機会はなかった。彼も帰国した。

 太田は頭が切れすぎて、評価は高いが遠慮のない発言で敵もいたから、社内でも同じだっただろう。妻子4人で60年ころ帰国。サントスに見送った。外語で講師を2年程やって、三菱電機に入社。何回もブラジルに出張で来た。ヨーロッパ三菱                                    電気の初代社長を8年やり、最後は赤井電機の常務。                              口が祟らなかったら専務になったかもしれない。 この23年首の頸骨不調で読書・メール不能。 たま〜に電話が来る。                                添付写真は、左から若松・砂古・太田(続)


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砂古さん 訂正して置きました。男性群像読ませて頂きました。時代が少しずれますが、私が学生の時に2年間住んでいた頃の事を思い出します。早稲田の高井先輩の所か高井さんが経営しておられたアメカン横町(アメリコ ドス カンポス街)にあった蛇の目寿司でお会いした事のなる空手の原田先輩、サンパウロ新聞記者をしておられた玉井先輩等懐かしい名前に出くわしました。この蛇の目寿司は、早稲田の先輩方の当時の溜まり場になっており私も含め早稲田の連中が≪ツケ≫で飲み食いして金を払わないから潰れてしまったとの話を聞いていますが高井さんの奥さんは苦労されたと思います。

2015/2/22(日) 午前 2:11 [ 和田好司2 ] 返信する

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神戸大学の浜岡さんの呼び寄せで遣って来た浜岡さんの同窓生の小林さんと彼がポルトアレグレ総領事館に勤務していた頃に懇意にさせて貰っていました。当時の男性郡像は、溌剌とブラジルの戦後移住史の一部を作り上げて居たのですね。それにしても良く交友録を残されていますね。丸木さん並みの記憶力に驚いています。続きを楽しみにしています。
下記BLOGに掲載させて頂いています。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35647533.html

2015/2/22(日) 午前 2:12 [ 和田好司2 ] 返信する

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蛇の目寿司は高井さんがやっておられたのですか? 知りませんでした。三菱商事にポルトアレッグレの責任者がいましたね?小柄な方。
あの人の名前も小林❓でなかったですか? 20年ほど前にサンパウロでの商事のレセプションで会いましたが、その後見かけません。 55年かに伯国三菱商事に入ったので知り合いました。

2015/2/22(日) 午後 11:18 [ yoshijiwada ] 返信する

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砂古さん
私がエスツダンテ街の下の方にあるRUGEIROとか云う通りに住んでおられた高井先輩のお宅でサンパウロに戻ると何時もお世話になっていました。小渕先輩と同宿したのも高井さんのお宅のサーラでした。私の方が先に戻るのでソファーで小渕恵三先輩は床に寝ておられました。高井さんは、昼間は、前田木工所で働き夜は蛇の目寿司でサンパウロの早稲田の杜を経営しておられましたが皆して踏み倒してしまったのかも知れませんね。65年にブラジルに戻ったら既に閉めて居たと思います。
砂古さんも蛇の目寿司に行かれた事がありますか?
ポルトアレグレの三菱商事の責任者(出張所長)をしておられたのは確か駒形さんと同じ外務省研修生?で高井邸で紹介された村井 修先輩でした。村井さんはポルトアレグレの後アルゼンチンの水力発電所の現場責任者として店を畳んで行かれました。
三菱商事退職後、現在はサンパウロに住んでおられ(奥さまがブラジル生まれの2世)時々稲門会の会合でお会いします。領事館に勤めておれたのは浜中さんの同級生で小林タクさんと云われる方でした。

2015/2/22(日) 午後 11:22 [ yoshijiwada ] 返信する

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丸木で〜す

砂古さんの同窓がヨーロッパ三菱電機の初代社長でしたか。現在ロンドン駐在の姪夫妻が現役ですから不思議な縁です。順子は阪大法科卒、亭主の永田が京大法科卒。姪は東京本社勤務の独身時代は昼飯と晩飯の弁当二つ持って行ってた猛烈社員でした。ドイツとタイに頻繁に出張してたビジネス法務のベテラン女傑です。

2015/3/2(月) 午前 7:22 [ BAKABUNDO ] 返信する

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