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≪和田さんご夫妻の広島訪問について≫ 村さんからのお便りです。


和田さん、奥様、


 広島に滞在される様ですので私からもお勧めをご紹介させていただきます。私共1963年米国で1年間の農業実習を経験した仲間が、毎年各都道府県派遣者が責任持って同窓会を企画実行して来ました。5年前に広島からの派遣者が企画し広島駅集合から始まり23日の日程に出席しました。


 初日は勿論原爆資料館で色島泊でした、翌日高速艇に乗り20分位で江田島の海軍兵学校訪問で2泊、翌日呉に渡り呉市海事歴史科学館(戦艦大和ミュージアム)訪問で呉駅解散でした。


 海外在爺組としえは、是非海軍兵学校訪問で海軍士官の勇ましい雄志、そして特攻の残した遺書等をハンカチ片手に読まれることをお勧めします、その後呉の大和記念館で戦艦大和と言うもの凄いものを日本が建造できる事実を米英に見せ付けた痕跡を見て頂きたい、そこにゼロ戦も見分出来ます。


 多分11月は紅葉が各地で見られ素晴らしい日本の風景に感激できるでしょう、是非日本の運命を今日に伝えた海軍の生きざまをご覧になっていただきたいと願っています。 村さんーCA



カリフォルニアの村さん


広島、呉の紹介有難う。今回お連れするポルトアレグレの女流マラトニスタは、JRのレールパス1週間を購入しており、金沢、京都、奈良の他もう少しレールパスを使いたいとの希望で広島まで足を伸ばしました。京都から広島に移動、1泊して翌日レイルパスが切れるので東京まで戻り2泊して112日に帰国予定で我々は、31日に広島駅で東京に戻るのを見送り萩に向かう予定です。広島では原爆記念館と時間があれば宮島まで行きお猿さんに挨拶するぐらいしか時間がないと思います。夜は、広島焼でも皆で食べますかね?


我々は、何度も広島に行っており恵子が熊野町の筆の里工房に筆を買いに行きたいとの事で行った事があり帰路バスで呉に下り呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)、海上自衛隊呉資料館(てつくじら館)等を見学させて貰っています。時間があれば江田島のクルーズもしたかったのですが、その内、写真のような夕暮れの瀬戸内海のクルーズを試して見たいと思っています。


多分、村さんのお便りがyahoo blog 掲載の最後になると思うので写真付きでBLOGに残して置く事にします。


イメージ 1
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

イメージ 2
海上自衛隊呉資料館(てつくじら館)

イメージ 3
呉港から出る瀬戸内海の夕暮れクルーズ。これに乗って見たい。

日系人経営者らが横浜で交流会開催 サボイア駐日ブラジル大使ら約50人が参加 サンパウロ新聞WEB版より

2019年7月8日
         
イメージ 1
交流会の様子、右から3番目がサボイア大使

 日本にある輸入会社の日系人経営者などが参加した交流会が4日夜、JICA横浜で開催され、エドゥアルド・サボイア駐日ブラジル大使など、約50人が参加した。
 この交流会は、7月3日から5日まで開催された「第7回カフェ・喫茶ショー」に出展した企業などに、一般社団法人ブラジリアンビジネスグループ(BBG)の橋本秀吉代表理事が呼びかけたことで開催された。
 創業者の父の義道さんと親子2代で参加した有限会社ワールドリンクスの野呂義道代表取締役は、「このつながりを大事に、お互いにビジネスを盛り上げていきたい」と感想を語った。

「天皇、そして日本人」を紹介したヨーロッパ人=聖市ヴィラ・カロン在住 毛利律子 ニッケイ新聞WEB版より

朝見の儀を終えた皇太子夫妻、昭和天皇・香淳皇后(サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」より、宮内庁、Public domain)
朝見の儀を終えた皇太子夫妻、昭和天皇・香淳皇后(サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」より、宮内庁、Public domain)
 もうすぐ平成が終わろうとしている――。誰もが、自分の人生と重ねつつ、去り行く平成時代に万感の思いを馳せていることであろう。
 戦後生まれで、NHKスペシャル「映像の世紀」にあるような時代に生きるものは、多くのことを映像から学んだ。過去の二つの世界大戦のことも、悠久の世界史も日本史も、断片的であるにせよ、映像を見て、解説を聞いて学び知ったことは数知れない。
 日常の喧騒の中で、分厚い歴史書や書物を読破することはなかなか難しい。ひと昔前まで、読みたい本や、解らないことを知るためには、時間を工夫して図書館や本屋に通ったものだった。
 ところが今ではインターネットの「グーグル検索」という“大先生”がいるから、どこにいても自分の興味のあることは即座に検索して答えを知ることができる。出回る書物も、大きな活字でよみやすく、分かり易く、簡単に一言で解説、といった触れ込みの本が売れるので、知ったつもりになるが、いえいえ、かえって知らないことが多くなった。
 さて今この時、今上天皇の生前退位と、新元号の報道で、マスコミは沸き、日頃、皇室とは程遠い一般市民が、改めて日本国や天皇、日本人の本質的なことを再考する機会を得ている。普段見ることも使うこともない万葉の漢字や言葉、難しい皇室儀式でのお言葉、数々の古式ゆかしい伝統行事から改めて「日本国」を学ぶ時を得ているのである。
 世界に広がっている日本人も、漫然と一過性の海外報道番組を見て過ごすのではなく、家族揃って、大いに自分のアイデンティー(イデンチダーデ)について顧みるにふさわしい時機にしたいものだ。
1989年2月24日、昭和天皇の大喪の礼「葬場殿の儀」(Website of the Imperial Household Agency)
1989年2月24日、昭和天皇の大喪の礼「葬場殿の儀」(Website of the Imperial Household Agency)
▼初めて目にした「大喪の儀」
 昭和生まれのものは、日本のバブル経済のなかで、1989年1月7日昭和天皇崩御により、平成の時代を迎えた。
 そして平成元年2月24日、氷雨降る中、大喪の礼が執り行われた。そのとき国民は、「畏れ多くも」一連の厳かな皇室儀式を、テレビ画面で、解説者の説明を聞きながら目の当たりにしたのである。
 その中で私自身が最も印象に残ったのは、「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」、いわゆる出棺にあたり、天皇の「葱華輦(御輿)」を担ぐ人達、天皇の棺を担ぐ八瀬童子の姿であった。
「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子(歴史写真会「歴史写真(大正天皇御大葬記念写真帖)」より、Public domain)
「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子(歴史写真会「歴史写真(大正天皇御大葬記念写真帖)」より、Public domain)
 氷雨降る静寂の中、伝統的装束に身を固め、一糸乱れぬ規則正しい足音で、つま先で歩く様子を初めて見た。
 かつて八瀬童子のことを歴史小説で読んだことはあったが、初めて実際に目にして言葉にならない感銘を受けた。それは荘厳極まり、その足音が脳裏に強く刻まれて忘れられない。


▼壮麗なご成婚パレード
 もう一つは、昭和34年(1959年)の今上天皇皇后両陛下のご成婚パレードだ。このお姿以上に美しいものが、この世にあるだろうかと、当時、10歳の私の心に深く刻み込まれ、今でもその記憶は鮮明に蘇る。また、繰り返し報道される当時の映像を見るたび感動も一入である。
 私は、あの時のお姿以上に美しいものは、未だかつて見たことが無いという感慨を抱いている。
 日本国内にいても、一般市民が平時に天皇皇后両陛下のお姿を目にすることは稀なことなので、「天皇陛下がお出ましのようだ」という情報を得ると、居ても立っても居られない気持ちで家を飛び出し、群衆に交じって無我夢中で手を振る。
 お車はスピードを落していても、ホンの一瞬であるが、ご尊顔を拝することができると、まるで自分に手を振ってくれたかのように感激する。その感激は、何とも言えない幸福感であり、安心感と言えよう。
 両陛下のお姿を拝して平和な日本で生きていることに感謝するひと時。そういう感慨に浸れるということは、取りも直さず国の安寧を実感するときである。
(【注】「八瀬童子=室町期・延元(1336)年、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢を避け比叡山に向かった際、八瀬童子らが護衛し、輿をかついで登った。その功により納税が免除され、戦前まで続いた。現在も天皇の移動時の輿や、葬儀にあたる「大喪」で棺を載せた輿を担ぐ役割も任され、皇室と深いつながりを持つ。現在、同会には子孫ら約110世帯が所属している」
▼日本を紹介した出島三学者
ケンペルの想像図(The original uploader was Fuelbottle at English Wikipedia. [Public domain])
ケンペルの想像図(The original uploader was Fuelbottle at English Wikipedia. [Public domain])
 出島三学者とは、江戸時代、長崎の出島に来日して博物学的研究を行ったエンゲルベルト・ケンペル、カール・ツュンベリー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの三人の学者のことである。
 当時幕府は鎖国政策によりオランダとの交易のみを認めていたが、三人はいずれもオランダ人ではなかった。この三人の学者によって、日本はヨーロッパに紹介されたのである。しかも日本人を讃嘆する書として。
 大阪大学言語文化共同研究プロジェクトの「出島三学者の日本人論」から、一部抜粋して紹介したい。
 エンゲルベルト・ケンペルは、ドイツ人医師・博物学者。元禄3(1690)年から元禄5(1692)年まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。著書『日本誌』は、彼の死後英訳版で発行された。
カール・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg (1743-1828) [Public domain])
カール・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg (1743-1828) [Public domain])
 カール・ツュンベリーは、スウェーデン人医師・植物学者。リンネの弟子であった。安永4(1775)年から安永(1776)5年まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。多数の植物標本を持ち帰り学名を付けた。日本人の通訳者や蘭学者に医学・薬学・植物学を教えた。『江戸参府随行記』を著わした。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツ人医師・博物学者。文政6(1823)年から文政12(1829)年まで出島に滞在。長崎商館医として着任したが、翌年には鳴滝塾を開いて日本人に医学・博物学の指導を行う。 一方で、日本についての資料の収集に努めた。
文政11(1828)年シーボルト事件を起こし、翌年国外追放。安政6(1859)年オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交顧問としても働いた。文久2(1862)年帰国。著書に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』がある。これらの書物はペリーの来航にも影響を与えた。
 ケンペルの記述には、「日本全体が礼儀作法を教える高等学校」であり、この礼儀正しさが、「身分の低い百姓から最も身分の高い大名までたいへん礼儀正しい」。
 シーボルトも、日本には「厳然とした身分制度が存在しつつも、その態度や振る舞いに於いて日本人全般に大差がない」と指摘している。
 ツュンベリーは国民性を讃嘆するとともに、土地が良く開墾され、街道にある一里塚の標識が良く整備されていること。
《その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちがいい旅ができたのはオランダ以外には無かった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである》
 彼らが、ヨーロッパ文化中心主義を基準にした比較論で日本を見ているとしても、「日本はヨーロッパ以外の世界では最も文明化された民族」と述べている。
 ツュンベリーは、日本民族が最も優れた人種であると日本人が信じ切っている。その根拠は、太陽に由来する祖先を持つからである。
 シーボルトは、日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛着を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。
 三人の学者は、日本人の短所についての報告も怠っておらず、三人ともに、日本人が「タテマエとホンネ」を使い分けているということを指摘している。
 ケンペルに対しては、外国人に情報を漏らしてはならないと誓っている当の人物がケンペルに情報をもたらす存在であったこと。
 シーボルトに対しては、通詞(通訳)が「外向け」と「内向き」の二重基準を自覚し、シーボルト本人に公言していたこと。つまり、通詞は外向けには外国人に対して監視をするが、外国人の側の態度によっては、表向きの態度が変化し得る、という訳である。シーボルトは、こうして日本人が表と裏、ホンネとタテマエの二重基準があると指摘した。
▼はじめて皇統について言及したケンペル
天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)。右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ(Kobayashi Eitaku, Izanagi and Izanami, c. 1885. From Wikimedia Commons)
天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)。右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ(Kobayashi Eitaku, Izanagi and Izanami, c. 1885. From Wikimedia Commons)
 オランダ商館付医員として元禄3(1690)年来日したエンゲルベルト・ケンペルは「日本」という国を、初めて体系的に紹介する資料『日本史』を著した。それは、2年間日本に滞在した著者が、帰国後に執筆した日本風物誌である。
 日本にたどり着くまでの、バタビア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)からシャム(タイ王国の旧名称)への旅の記録から始まり、日本の歴史や地理・自然、政治、宗教、貿易などの解説、終盤には江戸への参府旅行での経験、日本の動植物や、政治、文化など、様々なことが詳細な図版とともに客観的に解説されている。
 彼の遺稿はイギリス国王に仕えた侍医で収集家のハンス・スローンに売られた。スローンは『日本誌』(The History of Japan)を英語、フランス語、オランダ語にも訳し、ロンドンで出版された。『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことと、フランスの啓蒙思想家で初めて百科事典を編纂したといわれるドゥニ・ディドロが『百科全書』の日本関連項目に、ほぼ全てケンペルの『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡することになった。
 それは、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、ヨーロッパ19世紀のジャポニスムに繋がってゆくことになった。
 また、志筑忠雄は享和元(1801)年にこの付録論文を訳出したが、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、『鎖国論』と名付けた。日本語での「鎖国」という言葉は、ここで誕生した。
 さて、ケンペルは、日本国天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、要約すると、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明している。
 そしてケンペルは、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると述べ、英語の翻訳では「エンペラー」となった。
 ケンペル以降、欧米からやってきた学者や使節団は天皇と将軍を「皇帝=エンペラー」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録されるようになった。
 歴史的には、「天皇」という言葉は中国などの対外向けに制定された漢語表現であり、明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させた。
 それ以前は、天皇は御所を表す「内裏」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門」と呼ばれていた。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けであったと言われている。
 童謡の「ひな祭り」の歌詞、「お内裏様とお雛様…」の「お内裏様」とは天皇、皇族の名称となる。
 ここでは「天皇」と「王」の表現の違いや外国語に訳した時の「エンペラー」についての説明などは割愛するが、何はともあれ、元号も変わるこの時期に、できるだけ多くの日本の歴史を読んでみたいと思っている。
 旧約聖書では、アダムとイブが人類の父親、母親という設定であるが、日本では伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊耶那美尊(イザナミノミコト)であったと、古事記や日本書紀は伝えている。神武天皇から現代までの天皇のお名前や元号等々、知らないことばかりだ。
     ☆
 あたらしい時代を目前にして、普段触れることの少なかった日本の歴史などを通して、再発見の楽しみを味わいたい。
【参考文献】
Internet Archive、
https://archive.org/
History of Japan
「出島三学者の日本人論 : 日本人の国民性をめぐって」2018
大阪大学言語文化共同研究プロジェクト.(OUKA)「ケンペル『日本誌』及び「鎖国論」:メモ」
http://www.FREEASSOCIATIONS.ORG/

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奉祝、徳仁親王殿下ご即位!=令和の新天皇とはいかなるお方?=「国民の幸せを一番誰よりも先に」 ニッケイ新聞WEB版より

2018年3月、ブラジリアで開催された「第8回世界水フォーラム」のために来伯された皇太子殿下
2018年3月、ブラジリアで開催された「第8回世界水フォーラム」のために来伯された皇太子殿下
 5月1日、皇太子徳仁親王殿下は第126代天皇にご即位され、これを以って新元号「令和」に改元となる。同日、宮中三殿での儀式に臨まれて皇祖皇宗にご即位をご報告され、10月22日の即位礼正殿の儀にて、国内外に大々的に皇位継承を宣明される。
 皇太子殿下は、浩宮時代の82年に初の外国公式訪問先としてご来伯以来、08年にはブラジル日本移民百周年、18年には私的ご旅行として首都で開催された「第8回世界の水フォーラム」にご臨席されるなど3度に亘りご来伯され、当地とも縁が深い。
 「令和」の御世を迎えるに際し、これまでの殿下のご事跡を紹介するともに新時代における天皇像を探ってみたい。
▼陛下のお手許で帝王学を学ばれ
 戦後復興から高度経済成長の途上にあった昭和34年、天皇皇后両陛下(当時、皇太子同妃両殿下)の世紀のご成婚が国を挙げての祝賀ムードの中で催された。その熱気が冷めやらぬなか、翌35年、徳仁(なるひと)親王殿下が戦後初の内廷皇族の親王としてお生まれになった。
 天皇皇后両陛下は、それまでの慣習とは異なり、選任の教育係りを置かずに、浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)親王、礼宮文仁(あきしののみやふみひと)親王、紀宮清子(のりのみやさやこ)内親王をお育てになられた。家庭のなかでお育ちになった天皇としては史上初めてとなる。
 殿下は、後年になり、以下のように両陛下への感謝を語られている。
 《両陛下のお手許で温かい家庭において慈しみを受けながらお育ていただき、また、音楽やスポーツの楽しみを教えていただいたり、留学といった得難い経験をさせていただいたりしたことが、自分にとっても大きな糧となっていることに深く感謝をしております(平成31年、お誕生日記者会見にて)》
 このように両陛下のなさりようをお近くで拝して育ってこられた皇太子殿下は、学習院高等科在学時から、歴代天皇の御事跡や古事記、日本書紀、万葉集など幅広く「ご進講」を受け、帝王学を学んでこられた。
 殿下は《天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです(昭和52年、御誕生日前記者会見)》と話されており、歴代天皇の御事跡を辿るなかで、ご自身のお振舞いを見つめてこられたことが拝察される。
 殿下は、昭和の時代より、両陛下のご公務にご一緒され、また、昭和62年には、病床に臥されていた昭和天皇の国事行為臨時代行を務められた。将来のご即位に向けて、着実に準備を進めてこられたのだ。
▼初来伯で「ヒロ・フィーバ」!
初来伯された若かりし日の皇太子殿下(パウリスタ新聞)
初来伯された若かりし日の皇太子殿下(パウリスタ新聞)
 昭和57(1982)年、浩宮徳仁親王殿下は初の海外公式訪問先としてブラジルをご訪問され、12日間の滞在で11都市を歴訪されるという厳しい日程をこなされた。当時、御年22歳であり、お若く凛とされた殿下にコロニアは熱狂した。
 弊紙前身のパウリスタ新聞では《行く先々でヒロ・フィーバ 若さと笑顔で人々を魅了》と銘打って、当時の様子を伝えている。ご公務の合間を縫ってはテニスのサーブ練習にひと汗流され、若い日系グループとビオラを協演されるなど溌剌と行動されたという。
 一方で、プライア・モーレ港に隣接するツバロン製鉄所では《日本中世史の海上交通論をご専攻なされているだけに、プライア・モーレ港に対しては特に興味を示され、その立地条件、ツバロン製鉄所との関係など、ご専門の立場から突っ込んだご質問をされ、関係者をびっくりさせていた》とある。
 行く先々で人々を魅了し、爽やかさを残して帰国の途に着かれた殿下は、初来伯を終えて以下のようにご印象を文書で回答されている。
 《初期の移民生活のことは読んだり聞いたりしていたが、実際の手作りの道具類や資料を目のあたりにして、当時の苦労はやはり想像を絶するものと感じました。(中略)一言でいうことは難しいことですが、二、三世は当然のことながらブラジル人として育っているということを感じ、いっぽうで一世の伝統と気骨をそのまま受け継いだ若い人々も多いという印象です》
▼ご婚約、そして愛子内親王ご誕生へ
 立太子の礼を迎えられた皇太子殿下は、平成5(1993)年、当時の外務省事務次官であった小和田恆氏の娘で外務省に勤務していた小和田雅子さんとご婚約された。一度はお妃候補から外れるも、殿下の誠実な求婚を受けて、ついには雅子さんも心を動かされて受諾された。
 皇太子殿下は《私自身本当にこの度の雅子さんのことに関しては、本当に全力投球でと申しますか、一生かけて、本当に力を入れていたことでもありますし(中略)本当に側にいてあげて、そして相談にのって、そして全力で守ってあげるということが、私としては絶対に必要ではないかというふうに思います(平成5年御誕生日記者会見)》と語られている。
 その後、平成11年にご懐妊の兆しが見られたものの流産。13年にご長女となる敬宮愛子内親王殿下がご誕生された。
 皇太子殿下は《地球上に人類が誕生してからこの方、絶えることもなく受け継がれているこの命の営みの流れの中に、今私たちが入ったということ、そういうことに新たな感動を覚えました》と父君となられた喜びを語られた。
 雅子妃殿下も《初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました。(中略)生命の誕生、初めておなかの中に小さな生命が宿って、育まれて、そして時が満ちると持てるだけの力を持って誕生してくる、そして、外の世界での営みを始めるということは、なんて神秘的で素晴らしいことなのかということを実感いたしました(平成14年、愛子内親王殿下ご誕生記者会見)》と涙ぐまれた。
▼適応障害を家族愛で乗り越えて
 第一子を授かって子育てにご奮闘される一方で、皇太子妃としての特別のお立場やお世継ぎ問題のプレッシャーが重くのしかかり、平成15(2003)年末、雅子妃殿下は帯状疱疹を発症してご入院。翌年には、適応障害を患われた。
 これを受けて《外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました(中略)それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です(平成16年外遊前記者会見)》と話された皇太子殿下の『人格否定宣言』は波紋も呼んだ。
 長期療養に入られた雅子妃殿下は、地方行啓など外出を伴うご公務ご出席が叶わなくなる一方で、通学に不安を抱えられた愛子内親王殿下への付き添いが長期化したこと等に対し、メディアからは言われなき批判にも晒された。だが、皇太子殿下はそのお言葉にもあった通り、温かく妃殿下を見守り全力で支えられ、ご家庭を大切に守り抜いてこられた。
 雅子妃殿下は心身の不調を抱えながらも、こうした安らぎあるご家庭のなかで徐々に快復の兆しが見えはじめ、様々な工夫をしながら出来る限りの活動をするため努力を続けてこられた。平成25(2013)年には、11年振りとなる外国公式訪問となるオランダ訪問に皇太子殿下と揃ってご出席され、近年では地方ご訪問も増えており、着実に快復に向かっていると言える。
 妃殿下は《この先の日々に思いを馳せますと、私がどれ程のお役に立てますのか心許ない気持ちも致しますが、これまで両陛下のなさりようをお側で拝見させていただくことができました幸せを心の糧としながら、これからも両陛下のお導きを仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下のお力になれますよう、そして国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております(平成30年御誕生日に際し)》と新皇后となられるご覚悟を語られている。
 まだ快復途上にある妃殿下を温かく見守りつつ、コロニアにとっては新天皇皇后両陛下としていつかブラジルの地をともに訪ねてくださることを期待したいばかりだ。
▼新天皇への静かなるご覚悟
2008年6月、移民百周年の折、リオで写真をとるポーズをされた皇太子殿下
2008年6月、移民百周年の折、リオで写真をとるポーズをされた皇太子殿下
 両陛下のお手許でたくさんの愛情をうけて育ってこられた皇太子殿下は、妃殿下とのご婚約から現在に至るまで家族愛を貫いてこられた。
 《私は家族を思うことと、それから国や社会に尽くすということ、これは両立することだと思います(平成14年、御誕生日記者会見)》とする一方で、《いずれにしても国民の幸福を一番誰よりも先に、自分たちのことよりも先に願って、国民の幸福を祈りながら仕事をするというこれが皇族の一番大切なことではないかというふうに思っています(平成16年、御誕生日記者会見)》とのお言葉からは、いかに時代が変遷しようとも「私」より「公」を大事になされる歴代天皇の伝統をしっかりと継承されていることが拝察される。
 平成最後の御誕生日記者会見では、《引き続き自己研鑽に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います(平成31年御誕生日記者会見)》と語られている。
 また、今年の歌会始めでは、以下のような御歌をお詠みになっている。
 雲間よりさしたる光に導かれわれ登りゆく金峰の峰に
 当時高校生でいらっしゃった殿下が、山梨県と長野県の県境にある金峰山に登られた際のことを詠まれた御歌だ。当日は、曇りで時々日がさす天候であったが、山頂付近で差してくる光に導かれるように歩みを進められたという。
 皇太子殿下は御年59歳で、歴代天皇のなかでは2番目に最年長でのご即位と見られ、皇太子として30年間に亘って様々なご経験を積まれてきている。小さい時から「道」にご関心を持たれてきた殿下らしく、「令和」という新たな時代への道のりをまさに登ってゆくという、静かなる、そして、強いご覚悟が行間から滲んできそうだ。
▼水問題に見る新時代の天皇像
世界水フォーラムでご講演された
世界水フォーラムでご講演された
 新しい時代に則した公務として、皇太子殿下が長年に亘って携わってこられたのが「水」問題だ。学習院大学ご在学時に交通・流通史を専攻し、英国オックスフォード大学留学時にはテムズ川の水運史を研究されてこられた。
 こうして「水」問題への理解を深められるなかで、視野や活動の幅を広げられる大きなきっかけとなったのが、平成15年に京都にて開催された「第3回世界水フォーラム」であった。
 水を巡る問題が社会的弱者や地球環境、自然災害など多方面に渡ることに驚き、理解を深めたいと考えられるようになったのだ。以来、昨年の首都ブラジリアで開催された「第8回世界水フォーラム」まで4回ご臨席され、基調講演を行われた。
 昨年の基調講演では「水による繁栄、平和、幸福」をテーマにご講演された。慢性的な水不足で争いが絶えなかった安城ガ原に明治用水が導入されたことで農業地帯に発展した例等を引き合いに、日本の過去の歴史的教訓を紐解かれて「水」問題に纏わる世界的な連携を呼びかけられた。
 日本の国土は急峻であり、大雨が降れば洪水となり、雨が降らなければ日照りになりやすく、古より「水」問題に悩まされてきた。それゆえ古代の歴代天皇は池や堤をつくる詔を出され、その国民の安寧を祈る聖なる祈りが、強靭な国土作りにも繋がってきたのだ。平成でも、東日本大震災による津波被害や異常気象による集中豪雨など、日本は数々の「水」問題に直面している。
 殿下は、「水」問題への取組みの意義について、以下のように語られている。
 《私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、自然災害、例えば台風や豪雨、津波などの影響を受けやすいことから、「水」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います(平成31年御誕生日記者会見)》
世界水フォーラムの折、首都の大使館で日系人と懇談された皇太子殿下
世界水フォーラムの折、首都の大使館で日系人と懇談された皇太子殿下
 天皇皇后両陛下は、皇室の重要な公務の一つとして、国際親善で多くの実りを上げてこられた。そのなさりようから学ばれ、30カ国以上を親善訪問されてきた皇太子殿下が、新時代の公務の一つとして確立されたのが「水」問題だ。
 歴代天皇の御事跡から歴史的洞察に基づいて、平和のメッセージを世界に向けて積極的に発信された殿下のお姿は、まさに世界平和を希求する日本国の新時代の天皇像に相応しいものと言える。
▼「令和」の御世はいかに
 4月1日、日本政府は平成に代わる新元号を「令和」と発表し、5月1日の新天皇即位とともにいよいよ改元となる。新元号は、万葉集第5巻・梅花の歌三十二首の序文《時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ・・・》を典拠として、『令(よい)』と『和(なごやか)』の漢字2字で構成される。
 序文を略説すると、大宰府の大伴旅人の邸宅で梅の花を愛でる宴会が開かれた。梅の花の華やかさのみならず、それを取り巻く周囲の景色も美しく大変に居心地良いものだった。一座の人々は満ち足りて膝を近づけ酒を交わすなど和やかな雰囲気のなか「歌を詠まずにどうして心を表現できるだろうか」として四群に分かれて八首ずつ順に梅の歌を詠んだのである。
 安倍首相は《厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました》と説明している。
 昭和天皇のご崩御により国中が悲しみに沈むなか、始まりを告げた平成。『史記』の五帝本紀の「内平かに外成る」及び『書経』の大禹謨の「地平かに天成る」という文言を出典とし、「国の内外にも天地にも平和が達成される」ことを願って命名された。ご退位を控えるなか、天皇陛下は《平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています(平成30年御誕生日に対して)》と話されている。
 平成で築かれた平和と繁栄の基盤の上に、令和の御世に新たな日本文化が興隆して栄え、希望に満ちた時代となることを切に祈りたい。(大澤航平記者)

新時代到来へコロニアの声=平成に感謝! 令和に期待!=ご来伯や思い出を振り返る ニッケイ新聞WEB版より

熟年クラブの樫原暉子さん、藤永ローザさん、中村テルさん
熟年クラブの樫原暉子さん、藤永ローザさん、中村テルさん
 4月30日をもって、平成の天皇陛下がご退位された。上皇上皇后両陛下は1967年、78年、97年と3回にわたりご来伯され、ブラジルの日本人移住者とその子弟にお心を寄せられてきた。また「令和」時代の新天皇陛下は、皇太子殿下時代の82年、08年、更に昨年に私的ご旅行でご来伯され、移民とその子弟の熱烈な歓迎を受けた。当地の移住者と子弟による上皇上皇后両陛下に対する感謝の思いと、新天皇陛下への期待を込めた声を集めた。

 ブラジル日系熟年クラブ連合会(上野美佐雄会長)で、友人と楽しくお喋りをしていた中村テルさん(92、北海道)。8歳で伯国に移住した中村さんは、当地在住84年を数える。父親が健在の幼い頃、正月には昭和天皇の写真が額縁に飾られていたという。
 「父から天皇陛下は尊く人々の中心にいる方だと教えられ、写真を拝んでいました。正月には家の神棚に供え物をして、おごそかに新年の祝賀儀式をしたものです」と中村さんは振り返る。現在は写真を飾ってはいないものの、NHKで新年一般参賀等の皇室に関する番組はよく観ている。
 平和で穏やかな平成時代の上皇陛下は、国民に対し思いやりのある方だと感じたという中村さん。第2次世界大戦の戦没者を慰霊するため沖縄県を何度も訪問していたのを番組を観て知り、「上皇陛下は尊い方だなぁと関心を持っているんですよね」と語る。
 新しい「令和」時代はどうなるか想像がつかないとしつつ、平和が続くと確信し「国民も戦争がなくて一安心でしょうね」としみじみ語る。改元後も皇室の番組を楽しみにしていると微笑んだ。


美智子上皇后陛下と写真撮影、家宝として保管

 中村さんと友人の藤永ローザさん(78、二世)は、父親が「らぷらた丸」でパラナ州カンバラ市のバルボーザ耕地に入り、自身はパラナ州ジョアキンタボラ市で生まれた二世。「だからこそ皇室に関心があるんですよ」と胸の内を語る。
 藤永さんは、幼い頃に伯父が聖市に行く際買ってもらった本や、愛読していたサンパウロ新聞に載った皇室の話を読み耽ったという。
 その時に藤永さんは「昭和の天皇陛下は、国民が食べ物が無いので自分も麦飯を食べたそうで」と驚いた話を披露。「偉い人だなぁと感動しました」と関心を持ち、新聞で皇室の記事が出た時には勿体無いと切り抜いて集めていた。
 藤永さんは、美知子上皇后陛下と一度だけお会いしたことがあるという。09年に「歩こう会」で訪日し、皇居内の清掃奉仕に参加した時だ。上皇后陛下がお越しになる際、ブラジルと書かれた旗と帽子を身に付けていた藤永さんは、列の一番前に並んだ。「美知子様は気づかれて、あっという顔をされたのよ」と藤永さんは嬉々として語る。
 上皇后陛下は伯国の日本人移民を非常に気にかけており、温かく接されたという。藤永さんは写真も撮影させてもらい、家で大切に保管している。「美知子上皇后陛下は非常に上品な方。あの時に行って良かったです。私は運がいい」と微笑む。
 また、藤永さんは08年の移民百周年祭で当時の皇太子徳仁親王殿下がご来伯された時に、ガルボン・ブエノ街や、サンボードロでのパレードも一目お姿を見に行った。
 「やはり皇太子殿下も普通の人と違って、とても品が良いと思いました。きっと新天皇陛下として立派に務めを果たされるはず」と新時代への期待を口にし、近い将来雅子新皇后陛下と共に再びご来伯することを願った。


□関連コラム□ 大耳小耳

 藤永ローザさんに取材した際に、「実は私が嫁いだ家に美知子様の写真が飾ってあったんですよね」という驚きの逸話を披露した。どうやら、義理の父親が飾っていたのだとか。「実は美知子様に憧れていたのでしょうか」と冗談めかして笑う藤永さん。そんな藤永さんは、美智子様が皇室初めての民間出身であることから「尊敬も親しみも覚えて良かったと思う」と語る。一時期は批判にさらされ想像を絶する苦労をしたが、強い心を持って務めを果たし続けた美知子様。ご退位後は、上皇陛下と共にゆっくりと過ごされてほしいものだ。

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