パスターハリーの「説教」と「信仰随想」

今年はいのしし年ですね。右にも曲がらず左にもそれず、まっすぐに、進みましょう!

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お待たせいたしました!お祈りに支えられ、ようやく、新宿西教会のHPができました。


まだ途中の所もありますがご覧ください。このHPが用いられますようお祈りください。
 教会の外観の写真や礼拝堂の写真、イベントや教会の歴史や最近の説教なども載っています。お時間のある方、お出かけください。

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《歌舞伎町の牧師館から》                  2018年5月27日
          「新宿の歴史と詩編91編」

 新宿という地名はどのような意味を持っているのだろう?携帯で検索したらこのような内容が書かれてありました。
1698に、信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まり。新宿と内藤氏とのつながりは、徳川家康江戸に入府する直前の15907月、三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成が、家康の入府に先立ち北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(現在の新宿御苑)を構えた。
江戸時代甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場高井戸までは距離があり、旅人は難儀をしていた。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。
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◇5月27日、新宿西教会の牧師就任式の日に祈りつつ導かれたのは詩篇91篇。全能者の陰に宿る人は、七重の守りと七重の祝福を受けるとの約束。「詩篇91篇は新宿西教会に与えられた聖句!」と思い定めて、心躍る思い。
「主イエスの御宝血により、罪の暗闇から贖い取られ、全能者の御翼の陰を宿とし、神の愛と永遠の命を讃美する最高の人生を証しする教会!」でありたい。ハレルヤ

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《週コラム:ナーハルトーブの里から》No.453  2018年2月25日

「ケズィックの恵み」  深谷牧師
 
あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。創世2217
◇第57回の日本ケズイック・コンベンションは22022日(火〜木)、森林公園のホテルヘリテージで開催されました。箱根から熊谷市の森林公園に移動して二回目の聖会でした。英国からイアン・コフィ―先生、米国からロジャー・ウィルモア先生、日本からは竿代照夫先生が主講師にとして招かれ、豊かな霊の饗宴が繰り広げられました。◇コフィ―先生は、使徒言行録からバイブルリーディングの奉仕をされ、9章、13章、18章から宣教の業への挑戦を語って下さり、ウィルモア先生は詩編63編、創世記22章等から、神のへの渇きと信仰の従順の想像を絶する恵みの世界が語られました。竿代先生はエフェソ518から「むしろ、み霊に満たされなさい」とのメッセージでした。そのほかにも早天聖会での岡田順一先生、永井義信先生のご奉仕、さらにコフィ―先生のリーダーシップ論の特別講義、すべて内容豊かな講義でした。◇私個人としては、リーダーシップのインティグリティ論(高潔さ)とイサク奉献のアブラハムの信仰の姿勢が、4月からの新しい出発に際しての強烈なチャレンジと感じました。24日(土)25日(日)の4回の東京大会でもメッセージでも何が語られるか、楽しみです。ハレルヤ  

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《吉川教会礼拝説教》  「人は神の愛によって生きる」   2018.2.18
聖書:ルカ151132                牧師 佐々木羊子
 
今日は、少し早いですが私のお別れ説教となります。4年間という短い間でしたが、本当にありがとうございました。これからも吉川教会の発展を覚えてお祈りしています。
 
さて、皆様は、「神様」と聞くと、何を一番に思い浮かべるでしょうか。多分一般的には神様と聞くと、「正義」ということをすぐに思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、神様は正義のお方ですし、もし、神様が正義のお方でなかったら、困ります。でも、神様の正義というのは私達が考えるような正しいとか、正しくないとかではないのです。神様の正義というのは、私達が、正しくても、正しくありえなくても、生きてて良かったと心から思える、神様を知って良かったと実感できる、そういう現実を与えることなのだと聖書は教えています。今朝開かれた箇所は、そのような神様と人間の関係を主イエス様ご自身が、とても分かりやすい例え話で語っておられる場面です。
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【メッセージのポイント】
1、 弟息子、父から離れ、破滅する
あるところに2人の息子がいて、弟息子の方は、父親が死んだ後に貰えることになっている遺産を、父が生きているうちに貰って、遠い国に旅立ちました。そして、後先考えずに、湯水のようにお金を使って毎日楽しく飲んだり食べたりして遊んで暮らした結果、食べるのにも困り始めたのです。しかも、悪い事は重なり、飢饉が起きました。弟息子は、豚の世話をする仕事をやっともらってなんとか生きていたのです。しかし、豚というのは、ユダヤ人にとっては、口に入れてはいけない汚れた動物でしたので、ユダヤ人であるこの息子にとって豚の世話をするというのは、相当屈辱的なことだったのです。この息子は、これ以上落ちることはないぐらい、落ちぶれてしまったのです。
この弟息子は、本当の自由を与えてくれる父のもとにいることを嫌だと感じて、自分の幸せを求めて家を飛び出しました。自分は自由だ!と思って、自分の自由を満喫していたかもしれませんが、実はそれは自分の欲望に支配されていただけで、その結果、幸せを見つけるどころか自ら破滅を招いてしてしまったのです。
 
2、 弟息子、父のもとに帰り、悔い改める
どん底に落ちて、やっと現実に目覚めるということがあると思います。弟はそこで我に返って、父親のところに帰って雇い人として雇ってもらおうと思ったのです。ずいぶん自分勝手な息子ですが、この息子にとって今や、父親のもとに帰るしか生き残る道がなかったのです。藁をもすがる思いだったと思います。もちろん赦されるなんて思っていなかったので、息子ではなく使用人として仕事をして生きながらえさせてもらおうと思ったのです。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけたのです。この時、父親は既に相当に高齢だったと言われています。そして、当時、大人が走るのは恥ずかしいことだったようですが、息子を見つけた瞬間、息子を憐みに思い、なりふり構わず家の外に飛び出して息子に走り寄ったのです。そして、首を抱き接吻したのです。息子は用意していた言葉を話し始めます。「おとうさん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」すると、このお父さんは息子の言葉をさえぎるようにして、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足にはきものをはかせなさい。」と言ったのです。指輪というのは、跡継ぎのしるしです。そして履物をはかせるというのも、奴隷が裸足であるのに対して、息子として家の中で自由に生きることを許される証です。お父さんは、息子に「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせませんでした。そのように息子が言うことも分かっていたと思います。でも、「もう、いいんだ。いいんだ。全部分かってるよ」と、息子を抱きしめたのです。
この時、この瞬間に息子は初めて、お父さんの心を知ったのです。正しくないこの自分をどれほど父親が愛していてくれたのかを。だから、息子はこの後、何にも喋っていません。最初は、雇い人の一人になって生きていこうと帰ってきたのです。そのようにして、何とか生き延びようと思っていたのが、もう、パンをもらうことなんかどうでもよくなったのです。このお父さんがいればいい、このお父さんに尽くしたいと思ったのです。弟息子は遠い異国の地で、空しく探していた幸せを、今父のもとで見出したのです。
わたしが10年前に神学校に入ってきた時、今までは罪の奴隷のようにして神様に背いてきたのだから、これからは神様の奴隷として神様の為に生きていこうと、そのような思いで献身しました。しかし、神学校に入って色々なことを学び、経験するなかで、なかなか恩返しするような歩みが出来ない自分に苦しくなりました。しかし、その苦しみのなかで、神様は私のことをそのような奴隷としてではなく、何も恩返しできなくても自分の娘として、また友として、愛してくださっていることを知りました。
自分が罪を犯してしまって何とか赦してもらおうと思う時、私達は反省し、これからはしっかり働いて生かしてもらおう、そのような歩みを通して赦してもらおうと思うものです。しかし、神様は私達が赦してもらうために何かをする前に、すでに赦してくださり、愛してくださり、命を捨ててくださっているのです。私達はそのことを知る時に、はじめて神様に対して心からの感謝と喜びから奉仕が出来るのではないでしょうか。
 
3、 兄息子も、父から離れている
25節からはお兄さん息子のことが記されています。今朝の聖書箇所は、弟息子だけの話ではなく、最初に「ある人に2人の息子がいた」とあるように、お兄さんもまた主人公の一人なのです。兄は弟と違ってとても真面目だったようです。
弟が帰ってきた日も真面目に畑仕事をして、疲れて家に帰ってきたのです。すると自分勝手に家を出て行った弟が帰って来て、父親がお祝いをしていると使用人から聞かされます。兄はこのことを聞いて猛烈に頭にきて、家に入ることが出来ませんでした。すると、弟息子に走り寄った父親が、お兄さんに対しても、またしても父親としての権威を捨て、家から出て来てなだめたのです。しかし、兄は父親に対して怒りがおさまらず、父親に辛辣な言葉で不満をぶつけます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』しかし、このお兄さん息子の怒りは最もではないでしょうか。弟のことを憎んでいなくても、自分が疲れて帰って来た時、いきなり怠け者が戻ってきて、それに対して祝宴が行われていれば、だれもが「え、どうゆうこと!?」と思うと思うのです。むしろ、この父親の方が異常です。もはや人間の常識では考えられない、ありえない姿です。こんな怠け者を簡単に赦す父親のもとでは、真面目に生きる人は報われないです。
しかし、この父親はお兄さんに『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と、このようにするのは当たり前だと言い切るのです。この父親の言葉のあと、お兄さんが家に入ったのかどうかは語られていないので分かりません。実は、この兄の姿は罪人と共に食事の席に着く主イエスを非難するファリサイ派の人たちのことをたとえています。ファリサイ派の人たちの怒りは、単なる嫉妬というレベルではなくて、ご存じのように、その真面目さは実際に主イエスを殺してしまうほどのものでした。罪人を赦す主イエスの主張するような正義は、神を冒涜することになると、自分の正義のために何も悪いことをしていない主イエスを十字架につけてしまったのです。
しかし、奇しくもその十字架こそが、今朝の愚かな父親にたとえられている「愚かな愛」を神様が示された場所だったのです。神様はこのような仕方で、人々の罪を赦してくださっているのです。
私達は、今朝の聖書箇所の弟息子に自分を重ねたり、兄息子に自分を重ねたりするかもしれません。でも、どちらかではなく、両方の姿が私たちの内にあるのです。そして、そのような私達を今朝も神様は十字架の上から「もういいんだ。全部分かってる」と包み込んでくださり、自分の正しさのために神の子さえ死に追いやるほどの罪深い私達を赦し、新しく生きる道を与えてくださるのです。
私自身、放蕩娘でありました。しかし、今朝の聖書箇所の弟息子のように救われて、献身生活が始まりました。しかし、不真面目だった人間が真面目に生きようとすることは本当に大変なことです。出来ないことをしようとするなかで、いつのまにか、お兄さんのように感謝がなくなり、喜びがなくなり、不平不満だらけになっていることがありました。神様の近くにいながらも神様の思いとはかけ離れたところで兄息子のように奉仕している自分がいたことを思います。
教会イラスト兄息子が「わたしは何年もお父さんに仕えています」と言った時の「仕える」という言葉は、奴隷労働を表す言葉をわざわざ使っています。つまり、この兄息子は、父を雇用者のように見て、自分は使用人のように思っていたのです。父との関係をそのように思っていたことは、父親を悲しませたと思います。もしたとえこの兄が、弟のように放蕩したとしても、父親は彼を愛するでしょう。それは彼が奴隷ではなく愛する息子だからです。の父の愛を知る時、兄もまた父と共にいることをただ喜び、兄弟と共に食卓につくことを喜んで生きるそのような歩みへと変えられるのです。
私達は、この父なる神の愛によって、罪赦され、復活の命を生きるようになるのです。今朝も神様は私達にそのことを気づかせ、新しい一週間も、神様を喜び、主にある兄弟姉妹と共にいることを喜ぶ歩みの中へと招いてくださっています。 お祈りします。
 

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《週コラム:「ナーハルトーブの里から」》No.452   2018.2.18

「磐田と浜松で福音を語る」  深谷牧師

  みどりのまきばに導かれる。詩篇232 (新改訳)
皆さん。お祈りを感謝します。去る11日は聖化協力会の一つ、「遠州聖会」(これはイムマヌエル浜松キリスト教会で毎年持たれて今回は22回目)にお招きを頂き、午後2時からの聖会の御用をしてまいりました。浜松市近辺の熱心な方々が恵みの世界を求めて次々と集まられ、最終的には147名集われました。わたしはロマ書から「再臨と聖化」について語りましたが、熱心にみ言葉に耳を傾けられた方々が、説教の最後の招きには、多くの方が講壇の前に出て、ひざまづいて祈られました。
◇また、この日、午前中には遠州聖会の会長、竿代忠一先生の牧会される、インマヌエル磐田キリスト教会で御用をさせて頂きました。こちらも礼拝時間開始のしばらく前から、祈りを以て備えられた礼拝で、約65名の方々が輝く笑顔で礼拝をささげておられました。◇竿代忠一先生の奥様は「まきば」先生で、詩編23編からお名前を取られた方で、ふたごのお姉さまは「みどりの」先生です。お父様は蔦田二雄先生で、イムマヌエル綜合伝道団の総理をされた先生。お二人で「みどりのまきば」になるという。わたしは喜んで詩編23編から説教を語りました。講壇の右には詩編23編の立派な書があり、ホテルも232室で「みどりのまきばに導かれる」という部屋でした。ハレルヤ  

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