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《吉川教会礼拝説教》 「人は神の愛によって生きる」 2018.2.18
聖書:ルカ15:11−32 牧師 佐々木羊子
今日は、少し早いですが私のお別れ説教となります。4年間という短い間でしたが、本当にありがとうございました。これからも吉川教会の発展を覚えてお祈りしています。
さて、皆様は、「神様」と聞くと、何を一番に思い浮かべるでしょうか。多分一般的には神様と聞くと、「正義」ということをすぐに思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、神様は正義のお方ですし、もし、神様が正義のお方でなかったら、困ります。でも、神様の正義というのは私達が考えるような正しいとか、正しくないとかではないのです。神様の正義というのは、私達が、正しくても、正しくありえなくても、生きてて良かったと心から思える、神様を知って良かったと実感できる、そういう現実を与えることなのだと聖書は教えています。今朝開かれた箇所は、そのような神様と人間の関係を主イエス様ご自身が、とても分かりやすい例え話で語っておられる場面です。
【メッセージのポイント】
1、 弟息子、父から離れ、破滅する
あるところに2人の息子がいて、弟息子の方は、父親が死んだ後に貰えることになっている遺産を、父が生きているうちに貰って、遠い国に旅立ちました。そして、後先考えずに、湯水のようにお金を使って毎日楽しく飲んだり食べたりして遊んで暮らした結果、食べるのにも困り始めたのです。しかも、悪い事は重なり、飢饉が起きました。弟息子は、豚の世話をする仕事をやっともらってなんとか生きていたのです。しかし、豚というのは、ユダヤ人にとっては、口に入れてはいけない汚れた動物でしたので、ユダヤ人であるこの息子にとって豚の世話をするというのは、相当屈辱的なことだったのです。この息子は、これ以上落ちることはないぐらい、落ちぶれてしまったのです。
この弟息子は、本当の自由を与えてくれる父のもとにいることを嫌だと感じて、自分の幸せを求めて家を飛び出しました。自分は自由だ!と思って、自分の自由を満喫していたかもしれませんが、実はそれは自分の欲望に支配されていただけで、その結果、幸せを見つけるどころか自ら破滅を招いてしてしまったのです。
2、 弟息子、父のもとに帰り、悔い改める
どん底に落ちて、やっと現実に目覚めるということがあると思います。弟はそこで我に返って、父親のところに帰って雇い人として雇ってもらおうと思ったのです。ずいぶん自分勝手な息子ですが、この息子にとって今や、父親のもとに帰るしか生き残る道がなかったのです。藁をもすがる思いだったと思います。もちろん赦されるなんて思っていなかったので、息子ではなく使用人として仕事をして生きながらえさせてもらおうと思ったのです。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけたのです。この時、父親は既に相当に高齢だったと言われています。そして、当時、大人が走るのは恥ずかしいことだったようですが、息子を見つけた瞬間、息子を憐みに思い、なりふり構わず家の外に飛び出して息子に走り寄ったのです。そして、首を抱き接吻したのです。息子は用意していた言葉を話し始めます。「おとうさん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」すると、このお父さんは息子の言葉をさえぎるようにして、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足にはきものをはかせなさい。」と言ったのです。指輪というのは、跡継ぎのしるしです。そして履物をはかせるというのも、奴隷が裸足であるのに対して、息子として家の中で自由に生きることを許される証です。お父さんは、息子に「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせませんでした。そのように息子が言うことも分かっていたと思います。でも、「もう、いいんだ。いいんだ。全部分かってるよ」と、息子を抱きしめたのです。
この時、この瞬間に息子は初めて、お父さんの心を知ったのです。正しくないこの自分をどれほど父親が愛していてくれたのかを。だから、息子はこの後、何にも喋っていません。最初は、雇い人の一人になって生きていこうと帰ってきたのです。そのようにして、何とか生き延びようと思っていたのが、もう、パンをもらうことなんかどうでもよくなったのです。このお父さんがいればいい、このお父さんに尽くしたいと思ったのです。弟息子は遠い異国の地で、空しく探していた幸せを、今父のもとで見出したのです。
わたしが10年前に神学校に入ってきた時、今までは罪の奴隷のようにして神様に背いてきたのだから、これからは神様の奴隷として神様の為に生きていこうと、そのような思いで献身しました。しかし、神学校に入って色々なことを学び、経験するなかで、なかなか恩返しするような歩みが出来ない自分に苦しくなりました。しかし、その苦しみのなかで、神様は私のことをそのような奴隷としてではなく、何も恩返しできなくても自分の娘として、また友として、愛してくださっていることを知りました。
自分が罪を犯してしまって何とか赦してもらおうと思う時、私達は反省し、これからはしっかり働いて生かしてもらおう、そのような歩みを通して赦してもらおうと思うものです。しかし、神様は私達が赦してもらうために何かをする前に、すでに赦してくださり、愛してくださり、命を捨ててくださっているのです。私達はそのことを知る時に、はじめて神様に対して心からの感謝と喜びから奉仕が出来るのではないでしょうか。
3、 兄息子も、父から離れている
25節からはお兄さん息子のことが記されています。今朝の聖書箇所は、弟息子だけの話ではなく、最初に「ある人に2人の息子がいた」とあるように、お兄さんもまた主人公の一人なのです。兄は弟と違ってとても真面目だったようです。
弟が帰ってきた日も真面目に畑仕事をして、疲れて家に帰ってきたのです。すると自分勝手に家を出て行った弟が帰って来て、父親がお祝いをしていると使用人から聞かされます。兄はこのことを聞いて猛烈に頭にきて、家に入ることが出来ませんでした。すると、弟息子に走り寄った父親が、お兄さんに対しても、またしても父親としての権威を捨て、家から出て来てなだめたのです。しかし、兄は父親に対して怒りがおさまらず、父親に辛辣な言葉で不満をぶつけます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』しかし、このお兄さん息子の怒りは最もではないでしょうか。弟のことを憎んでいなくても、自分が疲れて帰って来た時、いきなり怠け者が戻ってきて、それに対して祝宴が行われていれば、だれもが「え、どうゆうこと!?」と思うと思うのです。むしろ、この父親の方が異常です。もはや人間の常識では考えられない、ありえない姿です。こんな怠け者を簡単に赦す父親のもとでは、真面目に生きる人は報われないです。
しかし、この父親はお兄さんに『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と、このようにするのは当たり前だと言い切るのです。この父親の言葉のあと、お兄さんが家に入ったのかどうかは語られていないので分かりません。実は、この兄の姿は罪人と共に食事の席に着く主イエスを非難するファリサイ派の人たちのことをたとえています。ファリサイ派の人たちの怒りは、単なる嫉妬というレベルではなくて、ご存じのように、その真面目さは実際に主イエスを殺してしまうほどのものでした。罪人を赦す主イエスの主張するような正義は、神を冒涜することになると、自分の正義のために何も悪いことをしていない主イエスを十字架につけてしまったのです。
しかし、奇しくもその十字架こそが、今朝の愚かな父親にたとえられている「愚かな愛」を神様が示された場所だったのです。神様はこのような仕方で、人々の罪を赦してくださっているのです。
私達は、今朝の聖書箇所の弟息子に自分を重ねたり、兄息子に自分を重ねたりするかもしれません。でも、どちらかではなく、両方の姿が私たちの内にあるのです。そして、そのような私達を今朝も神様は十字架の上から「もういいんだ。全部分かってる」と包み込んでくださり、自分の正しさのために神の子さえ死に追いやるほどの罪深い私達を赦し、新しく生きる道を与えてくださるのです。
私自身、放蕩娘でありました。しかし、今朝の聖書箇所の弟息子のように救われて、献身生活が始まりました。しかし、不真面目だった人間が真面目に生きようとすることは本当に大変なことです。出来ないことをしようとするなかで、いつのまにか、お兄さんのように感謝がなくなり、喜びがなくなり、不平不満だらけになっていることがありました。神様の近くにいながらも神様の思いとはかけ離れたところで兄息子のように奉仕している自分がいたことを思います。
私達は、この父なる神の愛によって、罪赦され、復活の命を生きるようになるのです。今朝も神様は私達にそのことを気づかせ、新しい一週間も、神様を喜び、主にある兄弟姉妹と共にいることを喜ぶ歩みの中へと招いてくださっています。 お祈りします。
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