パスターハリーの「説教」と「信仰随想」

今年はいのしし年ですね。右にも曲がらず左にもそれず、まっすぐに、進みましょう!

説教 毎週日曜礼拝で

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《吉川教会礼拝説教》  「人は神の愛によって生きる」   2018.2.18
聖書:ルカ151132                牧師 佐々木羊子
 
今日は、少し早いですが私のお別れ説教となります。4年間という短い間でしたが、本当にありがとうございました。これからも吉川教会の発展を覚えてお祈りしています。
 
さて、皆様は、「神様」と聞くと、何を一番に思い浮かべるでしょうか。多分一般的には神様と聞くと、「正義」ということをすぐに思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、神様は正義のお方ですし、もし、神様が正義のお方でなかったら、困ります。でも、神様の正義というのは私達が考えるような正しいとか、正しくないとかではないのです。神様の正義というのは、私達が、正しくても、正しくありえなくても、生きてて良かったと心から思える、神様を知って良かったと実感できる、そういう現実を与えることなのだと聖書は教えています。今朝開かれた箇所は、そのような神様と人間の関係を主イエス様ご自身が、とても分かりやすい例え話で語っておられる場面です。
5
【メッセージのポイント】
1、 弟息子、父から離れ、破滅する
あるところに2人の息子がいて、弟息子の方は、父親が死んだ後に貰えることになっている遺産を、父が生きているうちに貰って、遠い国に旅立ちました。そして、後先考えずに、湯水のようにお金を使って毎日楽しく飲んだり食べたりして遊んで暮らした結果、食べるのにも困り始めたのです。しかも、悪い事は重なり、飢饉が起きました。弟息子は、豚の世話をする仕事をやっともらってなんとか生きていたのです。しかし、豚というのは、ユダヤ人にとっては、口に入れてはいけない汚れた動物でしたので、ユダヤ人であるこの息子にとって豚の世話をするというのは、相当屈辱的なことだったのです。この息子は、これ以上落ちることはないぐらい、落ちぶれてしまったのです。
この弟息子は、本当の自由を与えてくれる父のもとにいることを嫌だと感じて、自分の幸せを求めて家を飛び出しました。自分は自由だ!と思って、自分の自由を満喫していたかもしれませんが、実はそれは自分の欲望に支配されていただけで、その結果、幸せを見つけるどころか自ら破滅を招いてしてしまったのです。
 
2、 弟息子、父のもとに帰り、悔い改める
どん底に落ちて、やっと現実に目覚めるということがあると思います。弟はそこで我に返って、父親のところに帰って雇い人として雇ってもらおうと思ったのです。ずいぶん自分勝手な息子ですが、この息子にとって今や、父親のもとに帰るしか生き残る道がなかったのです。藁をもすがる思いだったと思います。もちろん赦されるなんて思っていなかったので、息子ではなく使用人として仕事をして生きながらえさせてもらおうと思ったのです。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけたのです。この時、父親は既に相当に高齢だったと言われています。そして、当時、大人が走るのは恥ずかしいことだったようですが、息子を見つけた瞬間、息子を憐みに思い、なりふり構わず家の外に飛び出して息子に走り寄ったのです。そして、首を抱き接吻したのです。息子は用意していた言葉を話し始めます。「おとうさん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」すると、このお父さんは息子の言葉をさえぎるようにして、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足にはきものをはかせなさい。」と言ったのです。指輪というのは、跡継ぎのしるしです。そして履物をはかせるというのも、奴隷が裸足であるのに対して、息子として家の中で自由に生きることを許される証です。お父さんは、息子に「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせませんでした。そのように息子が言うことも分かっていたと思います。でも、「もう、いいんだ。いいんだ。全部分かってるよ」と、息子を抱きしめたのです。
この時、この瞬間に息子は初めて、お父さんの心を知ったのです。正しくないこの自分をどれほど父親が愛していてくれたのかを。だから、息子はこの後、何にも喋っていません。最初は、雇い人の一人になって生きていこうと帰ってきたのです。そのようにして、何とか生き延びようと思っていたのが、もう、パンをもらうことなんかどうでもよくなったのです。このお父さんがいればいい、このお父さんに尽くしたいと思ったのです。弟息子は遠い異国の地で、空しく探していた幸せを、今父のもとで見出したのです。
わたしが10年前に神学校に入ってきた時、今までは罪の奴隷のようにして神様に背いてきたのだから、これからは神様の奴隷として神様の為に生きていこうと、そのような思いで献身しました。しかし、神学校に入って色々なことを学び、経験するなかで、なかなか恩返しするような歩みが出来ない自分に苦しくなりました。しかし、その苦しみのなかで、神様は私のことをそのような奴隷としてではなく、何も恩返しできなくても自分の娘として、また友として、愛してくださっていることを知りました。
自分が罪を犯してしまって何とか赦してもらおうと思う時、私達は反省し、これからはしっかり働いて生かしてもらおう、そのような歩みを通して赦してもらおうと思うものです。しかし、神様は私達が赦してもらうために何かをする前に、すでに赦してくださり、愛してくださり、命を捨ててくださっているのです。私達はそのことを知る時に、はじめて神様に対して心からの感謝と喜びから奉仕が出来るのではないでしょうか。
 
3、 兄息子も、父から離れている
25節からはお兄さん息子のことが記されています。今朝の聖書箇所は、弟息子だけの話ではなく、最初に「ある人に2人の息子がいた」とあるように、お兄さんもまた主人公の一人なのです。兄は弟と違ってとても真面目だったようです。
弟が帰ってきた日も真面目に畑仕事をして、疲れて家に帰ってきたのです。すると自分勝手に家を出て行った弟が帰って来て、父親がお祝いをしていると使用人から聞かされます。兄はこのことを聞いて猛烈に頭にきて、家に入ることが出来ませんでした。すると、弟息子に走り寄った父親が、お兄さんに対しても、またしても父親としての権威を捨て、家から出て来てなだめたのです。しかし、兄は父親に対して怒りがおさまらず、父親に辛辣な言葉で不満をぶつけます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』しかし、このお兄さん息子の怒りは最もではないでしょうか。弟のことを憎んでいなくても、自分が疲れて帰って来た時、いきなり怠け者が戻ってきて、それに対して祝宴が行われていれば、だれもが「え、どうゆうこと!?」と思うと思うのです。むしろ、この父親の方が異常です。もはや人間の常識では考えられない、ありえない姿です。こんな怠け者を簡単に赦す父親のもとでは、真面目に生きる人は報われないです。
しかし、この父親はお兄さんに『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と、このようにするのは当たり前だと言い切るのです。この父親の言葉のあと、お兄さんが家に入ったのかどうかは語られていないので分かりません。実は、この兄の姿は罪人と共に食事の席に着く主イエスを非難するファリサイ派の人たちのことをたとえています。ファリサイ派の人たちの怒りは、単なる嫉妬というレベルではなくて、ご存じのように、その真面目さは実際に主イエスを殺してしまうほどのものでした。罪人を赦す主イエスの主張するような正義は、神を冒涜することになると、自分の正義のために何も悪いことをしていない主イエスを十字架につけてしまったのです。
しかし、奇しくもその十字架こそが、今朝の愚かな父親にたとえられている「愚かな愛」を神様が示された場所だったのです。神様はこのような仕方で、人々の罪を赦してくださっているのです。
私達は、今朝の聖書箇所の弟息子に自分を重ねたり、兄息子に自分を重ねたりするかもしれません。でも、どちらかではなく、両方の姿が私たちの内にあるのです。そして、そのような私達を今朝も神様は十字架の上から「もういいんだ。全部分かってる」と包み込んでくださり、自分の正しさのために神の子さえ死に追いやるほどの罪深い私達を赦し、新しく生きる道を与えてくださるのです。
私自身、放蕩娘でありました。しかし、今朝の聖書箇所の弟息子のように救われて、献身生活が始まりました。しかし、不真面目だった人間が真面目に生きようとすることは本当に大変なことです。出来ないことをしようとするなかで、いつのまにか、お兄さんのように感謝がなくなり、喜びがなくなり、不平不満だらけになっていることがありました。神様の近くにいながらも神様の思いとはかけ離れたところで兄息子のように奉仕している自分がいたことを思います。
教会イラスト兄息子が「わたしは何年もお父さんに仕えています」と言った時の「仕える」という言葉は、奴隷労働を表す言葉をわざわざ使っています。つまり、この兄息子は、父を雇用者のように見て、自分は使用人のように思っていたのです。父との関係をそのように思っていたことは、父親を悲しませたと思います。もしたとえこの兄が、弟のように放蕩したとしても、父親は彼を愛するでしょう。それは彼が奴隷ではなく愛する息子だからです。の父の愛を知る時、兄もまた父と共にいることをただ喜び、兄弟と共に食卓につくことを喜んで生きるそのような歩みへと変えられるのです。
私達は、この父なる神の愛によって、罪赦され、復活の命を生きるようになるのです。今朝も神様は私達にそのことを気づかせ、新しい一週間も、神様を喜び、主にある兄弟姉妹と共にいることを喜ぶ歩みの中へと招いてくださっています。 お祈りします。
 
《礼拝説教》     「立ち上がらせるために」     20171231
ルカ2:2538                    深谷美歌子
 
今年最後の聖日なりました。一年間の守りと導きを感謝します。明日は元旦礼拝です。一年の最後と最初の日を礼拝で締めくくり、始められるのは祝福ですね。おまけに二日は新年聖会が当教会で持たれます。恵みに満たされて出発いたしましょう。
先週は、「クリスマス礼拝・イブ礼拝」がありました。「クリスマスはリターンの日」ということで、多くの懐かしい方々や、本当のクリスマスを祝いたいと思われた、新来会者が訪れて、喜びの日でした。「クリスマスは終わらない」という早天のアパルームにもありましたが、一週間後の、クリスマスの記事としては最後と思われる出来事が今日開かれた箇所です。今日がちょうど一週間後なので、今日まで、クリスマスメッセージを取り次がせていただきます。
シメオンとアンナが赤ちゃんメシヤに出会った人として登場します。この二人の場合はどのようだったのでしょう?

 《概説》  
2526節 シメオンが、聖霊によってメシアに会うまでは死ないとお告げを受けていたこと。
2735節 シメオンがメシアに出会って「多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」と語ったこと。
3638  女預言者アンナがイエス様に出会い、救いを待ち望んでいた人々に話したこと、が書かれています。

【メッセージのポイント】

1)    待ち望んでいた人が、会うことが出来た。   (2526節)

37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。 (37節)
シメオンとアンナという二人の老人が、メシアに会ったことがここにあるのは、二人の証言があって、事実が認められるという、当時のイスラエルの人々への証言でもあったでしょう。確かにメシアが生まれましたよ、ということです。 主に出会うことが出来たこの二人に共通することは、神に熱心に仕えていたということでした。
シメオンは「信仰があつく」、と書かれていますが、用心深い、注意深いとの意味があることばです。神様に注意深く仕えていたのです。そして、「聖霊が彼の上にとどまっていた。― 聖霊によって、メシアに会うまでは死なないとお告げを受けていた」と、聖霊に導かれていた人でした。聖霊は神様の思いを伝えてくださる方です。お告げを受けていたというのがそれです。この日も、シメオンは聖霊に導かれて、神殿の境内に入ってきました。そして、幼いメシアに出会いました。
神殿には、毎日、生まれた子を一週間目に捧げに来る若い夫婦はあったのではないでしょうか?けれども聖霊に導かれてシメオンはこの赤ちゃんメシアに会うことが出来たのでした。1コリ123には「聖霊によらなければだれもイエスを主と言うことはできない」と書かれています。
神様の思いに導かれること、聖霊様を心の王座にお迎えしましょう。言い換えれば、自分で何でも考えて行動する前に「神様どうぞ導いてください」と神様に祈って導きを求める生き方のことです。
 もう一人の主に出会うことができたアンナという方は、夫と死に別れて、84才になっていて、神殿を離れず、断食したり、祈ったりして夜も昼も神に仕えていた人でした。夜も昼もとは、神殿にずっといたのかと思いますが、祭司でなければ泊まるところはないので、いつでも神様中心に生活していたことを、こう表現したと思われます。
 アンナも長いやもめ暮らしの中で、試練の時、神様の思いを求めることが確かな道であることを経験しつつ、メシアの到来を待っていたことでしょう。「聖日は一年52回巡りくる春」と言われます。礼拝で神様と、神の家族に出会い、互いに祈り合い、食事をしたりして交わり、神様の思いを求めましょう。この教会では第一日曜日に祈りのファミリーがあります。木曜日には祈り会があります。ぜひ参加してお互いの証しをし、祈り合いましょう。
赤羽教会で「あなたパイプいくつある?」という文章を月報に書いてくださった方がありました。礼拝、祈祷会、伝道会、早天祈祷会、自分のデボーションと、パイプが多いほど神様とつながり、安全です、という内容でした。
人生にはいろいろなことがあります。先日も人生で一番楽しかったのはいつですか?という質問に「子供のころ友達と仲良く、夢中で遊んだ経験」と答えられたお父様のことを語った後、「それではあなたは?」「今が一番です」。同じ答えをされた方が他にもありました。その方はお金がたくさん入った時もありましたし、裁判沙汰に巻き込まれたこともあった人生で、今、毎朝、早天祈祷会に来て、御言葉に聞くうちに福音がはっきり理解できた。それで、平安で、体調的にも調子が良い「今が一番」とのことでした。昼も夜も神様に聞く生活で主に出会い、「今が一番」となるのでしょう。

2)    立ち上がらせるために。

34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。   (34節)
幼子を腕に抱いたシメオンは、聖霊に導かれて「この子は万民
のために与えられた救いをもたらす器ですが、倒したり、立ち上がらせたりする」と語りました。
今も聖霊に導きを求めると、メシアに出会うことが出来るとお伝えしました。が、イエス様に出会っていても、倒れる人もいると語られています。この人々は、自分の考えに固執して、イエス様がもたらした救いを受けることができなかったのでした。
パウロも律法によって義とされたいと一生懸命守っていましたが、ロマ書7章でそれが出来ない自分を吐露しています。「だれがこの死の身体から救ってくれるでしょうか。私達の主キリストを通して神に感謝します」と語っています。
立ち上がることができます。それは「キリストによって」です。
この頃、共産主義がなぜ崩壊したのか?という会話をしました。皆が平等に利益を分かち合う、というのは、素晴らしいことです。しかし、それができない、罪、自己中心が私達の性(さが)になっていること、が処理されないままの理想が、崩壊の原因だったということに一致しました。そんな私達を愛し、赦すために主は十字架上で、救いを完成してくださいました。この主のもとに「私をお願いします」と祈る時、主は待っていて、立ち上がり、生きるようにしてくださるのです。
その後はシメオンやアンナのように、夜昼、聖霊様に寄り頼み、祈り求めると、助けと導きをいただき続けることができます。もし思い煩いが心を占めるようなことがあったら、「そうだ主が良いことをして下さる約束だった」と思い出して、「思い煩うな」との御言葉に「はい」と答えて立ち上がらせていただきましょう。
  1. 幼子のことを話した。
     そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した  38
     アンナは非常に年を取っていたと書かれています。84歳になっていた。とありますが84年間、ともとれる表現です。もし夫の死後84年間でしたら、15歳くらいで結婚したとしても、106歳です。さすがに現代でも106才はまれです。そのような年齢になって、アンナはメシアに出会い、このことを語りました。忍耐して待ち望んでいたことでしょう。そしてこのメシアについに出会って、喜びあふれたことでしょう。
 語ると共に神を讃美し、とありますね。羊飼いたちもイエス様に会った後、神を讃美しながら帰って行ったとありました。讃美は心を神様に向け、満たされることです。私も金曜日の午後七時から讃美集会をしています。その信仰の讃美によって恵まれます。昨日もここで、ユースの讃美練習が、三時間以上されていました。練習とは言っても讃美です。心が満たされます。それをもって、聖会に臨むので、「きっと用いられるよね」と富山希望先生と語り合いました。アンナは主に出会った喜びをもって、人々に語り続けました。
 しかし、その救いは十字架と、死を打ち破った復活、によって完成されました。このことは、まだ赤ちゃんイエス様の時は、シメオンに言われても、何のことか解らなかった、と思います。人類の救いが成就したことは、すぐには実感されませんでした。
「聖霊が降るとあなた方は力を受け、ユダヤとサマリアの全土で、さらには地の果てまでわたしの証人となる。」とのイエス様の約束の御言葉があります。聖霊様が来られて、新しい命の経験をした時、弟子たちは告げずにいられなくなって、大胆に伝え始めました。私達もこの命を喜び、讃美し満たされて、語る者とされますように。
(祈り)
父なる御神、旧約時代から待ち望まれていた救い主を、2000年前にお送りくださったことを、感謝します。今、イエス様に祈り求め、立ち上がらせていただきます。この礼拝の中で、讃美を捧げ、御言葉に励まされ、神と人を愛する愛を頂いて、生かされ続けますように。ご再臨も2000年間、待ち望んできました。待ちくたびれたと思っておりましたが、忍耐しておられるのは神様です、とこのごろ悟りました。72億の世界中の人々が神に立ち帰るリバイバルのために祈らせてください。目を覚まして待ち望ませてください。主の聖名によってアーメン。
《吉川教会礼拝説教》  「闇にきらめく光」     2017.12.17

聖書:マタイ2112               牧師 佐々木羊子
 
クリスマスになると街中でかかる歌で、ジョン・レノンの「ハッピークリスマス」という歌があります。「War is Over」と繰り返し「望みさえすれば争いは終わる」と歌います。しかし、この歌がつくられてから約40年が経ちますが、この歌が呼び掛ける恐怖のない世界は、いまだ実現していません。私たちのこの1年を振り返ってみても弾道ミサイルの脅威や、理不尽な殺人事件など、様々な恐ろしい出来事がありました。しかしそういう中で、私達は今年もクリスマスを迎えようとしています。そして、主イエスが産まれた時も、暗闇に満ちた時代であったことを思い返します。その時、私達は暗い闇が覆っている現実の中にも、慰めと希望という光を与えられます。
 
今朝、開かれましたマタイによる福音書には、東の方から占星術の学者たちが星に導かれてやって来て、主イエスを礼拝したと記されています。
学者たちは、星に導かれ救い主を探す旅に出たわけですが、途中で、星が消えてしまい、道が分からなくなったようです。ユダヤ人の王となる者が誕生したのだから、場所はエルサレムの宮殿に違いないとエルサレムに向かったのです。しかし、そこに主イエスはおられませんでした。
 
【メッセージのポイント】
1、2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。』(2,3節)  
⇒ 不安を抱いた
占星術の学者たちの質問に、ヘロデ王は不安を抱いたと聖書は伝えています。新改訳では、「恐れ戸惑った」と訳されています。ヘロデ王は主イエスの誕生を聞いて恐れたのです。新しく王として生まれた者に自分の王としての地位を奪われることを恐れたからです。
ヘロデ王という人は、若い時はかなり有能な人物であったようですが、晩年は猜疑心が強くなっていたのです。学者たちの質問も「おまえなど、王の名を語るとんでもないやつだ。本当の王はどこにいる?」と聞こえてしまったのです。そして、この不安や恐れは、祭司長や、律法学者達にも及んでいました。彼らはユダヤの王が生まれる場所を知りながらも、誰もそこに行っていないのです。それは、ヘロデを恐れたからです。
しかし、ヘロデやエルサレムの人々が抱いた不安を思う時に、このような不安や恐れというのは、私たちの中にも潜んでいるといえるのではないかと考えます。私達は、人に対しても、自分に対しても、また、神様に対しても、信じるという事ができなくなっています。
占星術の学者たちは王に謁見するだけの地位や財力もあった人たちであろうと思います。しかし、地位や名声やお金があったとしても、彼らもまた、本当の平安がなかったのではないでしょうか。だから、遠くからはるばる救いを求めて、危険をかえりみず旅をしてきたのです。しかし、救いを探し求めながらも、道を間違って歩む彼らに、御言葉が与えられたのです。救い主は宮殿ではなく、ユダヤのベツレヘムという片田舎に生まれるという、自分たちの見ている方向は全く違う方向を指し示す御言葉が与えられたのです。そして、御言葉に導かれて、ベツレヘムに向かっていると、一度消えて、見失っていた星がもう一度現れて、ある家の上に止まったのです。
 
2、2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた』(910節) 
⇒ 喜びにあふれた
占星術の学者たちの前にもう一度現れた、夜空に不思議にきらめく星は、何の変哲もない一軒の家の上にとまったのです。こんなところに救い主が?と疑問に思うほど普通の家であったと思います。しかし、聖書は「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と言います。
 
私の娘が産まれた時…
 
ここで聖書は、学者達の「喜び」を強調して語ります。この「喜び」は、聖書の元の意味では、「大きな喜びを大いに喜ぶ」という風に、非常に強い「喜び」だそうです。長い旅をしてきて、やっと目的地にたどり着いたという程度の喜びではないのです。今まで経験したことのないような、次元の違う喜びなのです。実は、これはマタイ28章で、復活の朝、主イエスの墓に出かけて行った女性たちが、天使に会い、主イエスが甦られた事を知らされた、その時の「恐れながらも、大いに喜んだ」というその喜びと同じ言葉が使われています。マタイは、復活の主に出会った時の喜びをここに持って来ているのです。そういう喜びが学者たちをとらえたと言うのです。それは、ちょうど、あの復活の知らせを受けた人たちが、本当に喜んで、弟子達に伝え、主イエスに出会って、礼拝したように、この時、占星術の学者たちは、私達の罪の為に死に、私達を贖い取って下さり、甦って下さる、その為にこの世に人となって来て下さった、そういう御方と出会って喜びに満たされたのです。
私たちの人生は、良いことばかりが起こることを神様は保証してくださっていません。時に波風があるし、トラブルが起こります。仕事を失ったり、愛する人を失うという、私達にはどうすることもできないことも起きてきます。そのような荒れ狂う人生のなかで恐れるのです。そして、私達はそこで「助けて下さい、怖いです。どうしてこんなことが起こるんですか」と叫ぶ人生です。しかし、そこで「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない。」という主の声を聞くのです。そして、嘆きを受け止めて下さる存在に私達は出会うのです。
私たちは、それぞれに、不安と恐れ、悲しみの人生の中から、様々な出会いを通して不思議に導かれて、この礼拝の場へとやってきたと思います。神様は私たちを、慰め、本当の喜びを与えるために、主イエスと出会う礼拝へと招いてくださるのです。主イエスは今も、私たちの礼拝の真ん中にいてくださいます。クリスマスはキリストのミサ、主イエスを礼拝する時です。占星術の学者たちは、異邦人で初めて主イエスを礼拝しました。私達の礼拝の原型がここにあります。
 
3、2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った』(11節、12節) 
⇒ 別の道を通って
占星術の学者たちは、この世の出来事とは思えないほどの特別な天からの喜びを与えられて、主イエスの前にひれ伏して拝み、ささげものをしました。
王のしるしである「黄金」と、大祭司を意味する「乳香」、そして、王であり、大祭司でありながら、十字架の死を遂げることを暗示する「没薬」という贈り物を主イエスにさささげました。これらの贈り物はすべて高価なものばかりです。彼らは、大変高価な品物を幼子イエスに贈りました。しかしこれらの品物は、相手を喜ばせるための贈り物ではありませんでした。実は、これらは学者たちの商売道具であったと言われています。彼らが仕事をするために、必要不可欠な、彼らを支える道具であったのです。しかし、彼らはそれを主イエスに捧げてしまったのです。なぜそのようなことが起きるのでしょうか。 それは、大いなる喜びが彼らをとらえたからです。彼らの捧げたものは、ただ高価な品物というだけではなく「彼らのそれまでの人生を象徴するもの」すなわち「それまでの生き方そのもの」を、主イエスに捧げたという事なのです。これがなければ生きていけないと思っていたもの、自分を支配していたいっさいの支配から解放され、自由にされたと言えます
そして、だからこそ学者たちは、夢のお告げによって「別の道を通って自分たちの国に帰りなさい」という言葉があった時に、その言葉に従ったのです。通常、近隣の王の依頼を足蹴にするような無礼なことは、考えられないことです。しかし、彼らはヘロデ王を恐れず、別の道を通って行ったのです。そして、そのことで、主イエスはヘロデ王の殺意から守られたのです。
「別の道を通って」とは、地理的な意味で、エルサレムには戻らない、ヘロデ王の城には戻らず、別の道を帰って行ったという意味だけではありません。神のいない人生から神を信じ、神と共に歩む別の人生を歩き始めたということを表しています。主イエスの別名はインマヌエル(主は共におられる)です。そのことを学者たちは本当に知って、不安や恐れから自由にされたのです。
もう、何も信じれない、誰も信じるものか!と不安と恐れでがんじがらめになっていた所から、神を信じ、人を信じ、自分を信じ、またこの世界を信じる歩みへと変えられていくのです。それは、今までとは全く違う、神様と共に歩む「別の道」です。この道を今週も歩み続けてまいりましょう。お祈りをいたしましょう。
 
「愛する天の父なる神様、あなたが私達を救う手段として、神の独り子主イエス・キリストを送ってくださったことを感謝します。あなたのこの愛をいただいて私達は、不安と恐れのなか孤独に歩む人生から、死の影の谷を行くときも共にいてくださる主と共に歩む人生へと変えられたことを感謝します。今アドベントの時を過ごしておりますが、次週のクリスマス礼拝の時は、大きな喜びに満たされて、心からの礼拝をささげることが出来ますように。主を待ち望みつつ今週1週間を過ごすことが出来ますように、感謝して、主の御名によって祈ります。」
 
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《東京聖書学校吉川教会礼拝》「天国のたとえ3つ」   20171126
マタイ13:34−42                     牧師 深谷美歌子
 
2014年に「天国は本当にある」という映画が一般のシアターで上映されました。本当にあったお話ということでした。3歳の男の子が死の淵をさまよい、生き返ったのですが、知るはずのないおじいちゃんのことなど、会って来たと話すので、まわりがびっくりするのです。その解説を見て、「周りが癒されていく」とありました。見てはおりませんが、きっと全ての人間関係が、理解されあって癒されたのではないでしょうか?やがて来る天国が、今の世界に始まった出来事かと思います。今日の聖書のテーマも天国です。
 
<おさらい>
天国のたとえ話をこのところ取り次いできました。前回の天国の譬は、成長する天国でした。ルカの福音書1721では、「天国はここにある、あそこにあると言えるものでもない。あなた方の間にある」と言われています。
ヨハネ33では新たに生まれなければ神の国。つまり、天国を見ることはできないと言われています。ニコデモはこの話を聞いて、「そんなことは不可能です」といいましたが、イエス様は「私を信じる者は永遠の命を得る」と、新たに生まれる道を備えてくださいました。
天国はこの世界でも、今から得られるようになっています。それで、これまでの天国の話は、この世界にありながら、良い麦の種として蒔かれて育つこと、毒麦も生えているが、最期の日には刈り取られて、選別される事が語られていました。
もう一つはイースト菌のように混ぜられると、全体をふっくらと大きくする働きに用いられることが書かれていました。
 
今日の譬は、①天国が何にも代えられないほどの宝と、②世の終わりに、はっきりされること。それを知っているものは、③天国の学者であることが語られています。
聖書の箇所の概観
3446節  天国は畑に隠された宝、探し求めていた真珠のようなもの。
4750節  天国は世の終わりにはっきり現れる。
5152節  天国のことがはっきり分かった者は天国の学者。
 
ポイント1「天国は畑の宝、良い真珠」  
44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。44-46
  天国は、全財産を賭けても惜しくないほどの宝、生涯かけて探し求めていた真珠のようなものと譬えられています。
8月に、のぞみ先生がこの箇所から取り次いで下さった時、私達が宝で、イエス様が神の命を懸けて見つけ出してくださった。と取り次いでくださいました。それは神様の側でしてくださった救いの源です。
今日は私達の側から得た宝、としてみてまいります。
*偶然のように得る宝 
普段の仕事をしていて、偶然のように見つけた宝。先週は中野雄一郎先生が、ヒーローだった中学生の時、結核を患い、自暴自棄になっていた。偶然ラジオから流れて来たルーテルアワー?に、ラジオにしがみつくようにして聞いて、教会に行き、救われた。喜びに溢れた。「自分ほど救われて喜んだ人を見たことはない。」と語っていました。主に生涯かけて生きて来ました。
「死にたい」と思っている人がイエス様の命がけの愛に触れ、生かされますように。
先週は、清水真理先生が聖書学校にお泊り下さいました。早天の御用で、「牧師夫人からそろそろ洗礼を受けたらどうだろうか」と言われて、「いずれは受けると思うが今は。」と断ろうと考えて礼拝に行ったが、言いそびれて礼拝を守るうちに「今から我は主なり」の言葉を心で?言った時、喜びがあふれて、外に行っても周りが輝いていて、一週間続き、礼拝に行って「洗礼受けます」と申し出たとのお話を聞きました。聞いた時スッと信じて救いを(天国)を得る人がいます。伝道者となり、43年間牧会されました。
*探し求め続けて得る宝
パウロや、ルター、ウエスレー、中田重治、内村鑑三などは、本物の命を求めて生きていました。及ばずながら、深谷牧師や、多くの人々がこの恵みに出会いました。主に出会い、見つけた天国の命に生涯を掛けました。
先週葬儀が二つありました、岡田意先生と、花島順一郎先生です。意先生は、学校の先生だったのですが、救いの素晴らしさに伝道者になりました。たくさんの学びをされているにもかかわらず、語ることは自分になされた主の証しだけだった、とのことでした。
 
ポイント2 「天国は世の終わりに現れる」
47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」47-50
イエス様は天国を、地引網の譬えで教えています。網を教会と見る方、世界全体と見る方があります。この譬はイエス様自身が説明していないので、 
断定は避けます。いずれにしても、世の終わりがあり、その時は総決算です。22日の聖書学校のチャペル礼拝で、満希子先生がルカ6:46から「主よ主よと言う者が天国に入るのではない。あなたの名によって預言したではありませんか、奇跡も行ったではありませんか。」「お前たちのこと知らない。外の暗闇に放り出せ。」と怖いことを言われたところからお話下さいました。
このことは、私達がどんなに良いことを行っても、そのお陰で、天国に入るほど、潔くなれないことを示しています。神の前では、ただイエス様の十字架の陰に身を置いて「この者は私の血によって買い取った者です」と宣言していただく以外に天国に入ることはできません。生涯を捧げて生きたから天国に入る資格が出来たのではないことです。
でも、毒麦の話でもそうでしたが、やがて総決算の時があることをイエス様は伝えています。全ての人がイエス様の新しい命を頂いて、安心して御前に出られるようにされますように。
 
ポイント3 「天国のことを学んだ学者はわたしたち」
51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」51-52
35節に、「譬えを用いて語る意味」が書かれています。詩編の78:2の引用で、その秘密を解き明かされたのが弟子達-36節でした。今日の話は弟子たちに語られています。そこで、「分かったか?」と聞かれたのです。弟子たちは「分かりました」と答えました。すると「天国のことを学んだ学者は、自分の倉から古いものと、新しいものを取り出す主人のようだ」と譬えられました。倉のどこに何があるか分かっているのが、倉の持ち主です。
神に生きることが旧約時代、どのように指し示されていたか、イエス様が来て与えられた命の法則は、どう与えられたか知っているのが弟子達です。
中野雄一郎先生も、パウロや、ルター、ウエスレー、中田重治、内村鑑三も、この事が解った弟子達でした。ここに集まっている私達もその一人です。
私も中学二年で洗礼を受けました。自我に目覚め、良い自分になれない自己との闘いによって、だからイエス様がこんな私の為に、「十字架」をしのんでくださったのだと解りました。これからの命はこの命を伝えるために生きることだと、悟りました。近所に、毎月送られてくる「こころの友」を配ったり、学校のホームルームの時間を与えられて、福音を語りました。
でも、理想の自分には、なれていない自分を見つけ、苦しむようになりました。高校二年の秋、自転車置き場の横で、「あなたがご覧になればお判りのとおりの罪の者です。どうぞお赦し下さい。」と祈り、すべてをお委ねしました。その時、うっそうとしたタイサンボクの中庭が、光りで溢れるのを経験しました。聖書学校に入って、満たされ続ける秘訣は、毎朝の明け渡しと知りました。完全になったと言うのではなく、追い求め続けています。
昨日はバックストン聖会に一回だけ参加させていただきました。郷家一二三先生が、「私達はキリストと共に十字架につけられた。これは一回だけというよりは、つけられ続ける継続を現わす表現です。」と教えてくださり、そうなんだと解りました。途方に暮れた時が恵みを知るチャンスだと。自分ではどうしようもないことが起こったとき、神様に寄り頼み、神様の業を拝してオーと喜びます。
郷家先生が、子供キャンプで誰も見ていないところで起こった喧嘩のことを語って下さいました。自分でやれると思って対処したが、どうしようもなかった、が主が働いてくださったと。
ある人々は、主の来臨が遅いと思っているが、立ち帰る人々を待って、忍耐しておられるのは神様です。私達への期待は、天国に入る道を知っている学者として、世界の人々を、神からの愛で愛し、伝える者、と悟ります。 
世界のリバイバルこそ神様の期待です。終わりの時、良い魚ばかりになるように、勝利を信じつつ、聖霊に寄り頼んで、祈り、(祈りの力)伝道する者にされましょう。喜びつつ、讃美しつつ。ハレルヤ!
 
祈り
父なる神様、わたしたちを見い出し、イエス様が命をかけて新しい命の世界を与えてくださったことを感謝します。 ただイエス様の十字架の贖いによって、天国に入れて頂けるお恵みを感謝します。この世がすべてと思って暮らしている、多くの人々が、この命を頂くことができますように。この恵みの天国に入る奥義を悟ることができたわたしたちが、生涯をとおして味わい伝える者として下さい。御名によって祈ります。アーメン
 
 《幼児祝福式礼拝説教》    「愛、愛、愛」     20171112
申命記64-9       −  シェマー  −      深谷牧師
 
今日は皆さんと共に、「申命記」を学びたいと思います。
もしも、旧約聖書の最も大いなる人物、モーセが、現代に生き返って東京ドームで説教をするとしたら人々は黒山のように押し寄せてくるであろうと思います。どんなに高い入場料であっても人々は殺到することでしょう。
実は、申命記は「モーセの説教集」で、3つの説教が収められています。
第一「神のわざ」  1ー  4章
第二「神の規範」  5ー28章
第三「神の契約」29ー30章
説教の語られた背景はこうでした。
イスラエルの民はエジプトを脱出してから40年間、シナイ半島の荒野をさまよいました。ようやく約束の地、パレスチナに入る寸前で、モーセはネボ山のピスガの頂で、民に説教をしました。その主題は「勝利に満ちた人生」でした。40年間、不信仰のゆえに荒野で惨めな敗北を繰り返したイスラエルの民に、新しい地に入って神の民として歩む霊的な水準を示したのが申命記です。そのような意味では、申命記は「勝利の指標」でありまた「革命の書」でもあります。ヨシア王の宗教改革(前622年)はこの書を読み、悔い改め、実践したことによって起こりました。申命記は今も生きています。
 
説教題は「愛、愛、愛」と三つ並んでいます。
 最初の「愛」は、神からの愛
 二番目の「愛」は、神への愛
 三番目の「愛」は、人への愛です。
 
【聖書箇所の概説】 
 今日の聖書箇所(特に4-5)は「シェマー」と呼ばれ、イスラエルの歴史の中では、最も大切な信仰告白として、繰り返し、告白され、唱えられ、祈られてきました。わたしたちクリスチャンは「主の祈り」大切にします。礼拝で、公の祈り会で、あるいはわたしたちの臨終の床でこの主の教えられた祈りをささげます。ちょうどそれと同じく、あるいはそれ以上にユダヤ人は「シェマー」を大切にしました。彼らは「シェマー」(イスラエルよ、聞け!」のヘブル語)と共に生まれ、育ち、死ぬ、と言われました。ここに聖書の信仰の本質が凝縮されています。
 
【メッセージのポイント】 
1) 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(4)
⇒ 聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主!
それならばモーセの語る勝利の生涯とはいったいどのようなものなのでしょうか。この箇所は、申命記の心臓部であると言って間違いありません。主イエスも、聖書の中心はここ、すなわち「シェマー」と呼ばれる部分と「隣人愛」(レビ19:18)であると答えています(マタイ2236-40)
4節は直訳しますと「主、われわれの神、主、ひとつ」という言葉です。「ひとつ(エハト)」という言葉をどのように見るかによってここの内容に多少の変化が生じてきます。しかし、言おうとしていることははっきりしています。「主こそ神、ほかに神なし」(4:35、39) ということです。当時の偶像礼拝の海のような世界にあって、彼らは主のみを神とし、その証しに生きたのでした。「神はただお一人、主である」と語ることは、大変勇気のいることであり、妥協を許さない、毅然たる信仰の姿勢を示しています。 わたしどももこの信仰の伝統に生きたいと思います。もちろん、必要以上に他宗教に対して敵対的になれと言うのではありませんが、神の民として召されたものとして節操を守るということは大切なことです。いわば結婚関係に比べうる性質のものです。結婚した者にとって配偶者と他の異性とは違うのです。  
明治10年に札幌農学校に入った内村鑑三は、ここで初めて「唯一の神」を知らされ、神との霊的交わりやピューリタンの伝統を学び、特にクラーク先生の「紳士であれ。性的な純潔を守れ」とのメッセージに影響を受けました。唯一の神を信じる信仰は人格的な契約の信仰となり、倫理的な成熟を生みました。
 
2)5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。    (5)
⇒ 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主を愛せ!  
信仰とはここでは、「主を愛すること(アーハーブ)である」と語られます。しかも「お付き合い程度に愛しましょう」というのではありません。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」主を愛することだと語っています。旧約学者の関根正雄は「全心全霊をもって(全身ではない)」と訳しています。聖書の信仰は近所付き合い程度のものではなく、全人格をもって、主に応答することを意味しています。
パトリックミラーは、ユダヤ教の解説者マックプライドの理解を参考にしながら以下のように解説しています。
「心」−     二心のない忠誠心、善悪に関する感情。
「魂、命」− 殉教、ないし死に至るまでの献身。
「力」 −    神への奉仕に捧げられる品物、富、財産。
これはカルヴァンの主張と同じだと言います。ここには「全き献身」が語られていると言うのです。「魂を尽くして神を愛せよとは、いわば神の愛のためには生命を惜しんではならないと言うに等しい。心ないし思いを尽くして神を愛するとは、例示して言えば、他の一切のことよりも神を優先することである。・・最後に力を尽くして神を愛するとは、全身全霊、すべての持ち物を用いて神を愛することである・・・・」(カルヴァンの説教)
信仰とは絶対者への全人格的な応答なのです。
そのような意味で、信仰はやはり「命がけでする主イエスへの応答」なのです。あの十字架にかかって生命まで捨てて、わたしどもを愛されるあの「命がけの神の愛への命がけの応答」なのです。自分の全存在をかけなければ、勝利の信仰にはなりません。聖書の信仰は片手間にはできません。申命記の中ではじめて出てくる「主を愛する」と言う言葉は、わたしたちに、人生が何であるかを語っています。人生で最も大切な戒めは、「あなたの神、すなわち、創造主であり、救い主である主」を愛することです。徹底的に愛することです。かつて東京神学大学の佐藤敏夫先生は、「日本伝道の幻を語る会」の主題講演で、「ウェスレー主義の再考」という話をされました。非常に幅の広い神学者であった佐藤先生は、世界中を見回して、ウェスレー主義、信仰によって罪ゆるされたと言うだけでとどまらず、全生涯を主に捧げつくす「聖化」の信仰が、今日、求められていると語られたのが印象的でした。
 
3)6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているとき
も、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。                           
⇒ イスラエルよ、生活の中で聞け!(シェマー)       (6-9)
さらにここにはどのように聞いていくべきかが書いてあります。
6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているとき道を歩くときも、寝ているとき起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚え
として額に付け9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記」。御言は礼拝で一度聞いて終わりというのではありません。いつも、生活の中で聞くのです。いや、御言によって生活するのです。神様を心から愛し従う。徹底的な「神第一の信仰」がここにはあります。  
 
イスラエルの民は実際、このとおりに実行しました。彼らは「シェマー」をマッチ箱の位の「小さな箱(ヒラクテリ)」に入れて「手に付けてしるしと し目の間において覚え」としました。心臓に近い左の腕に7回革紐をまき付け、また目の間に置くようにとの勧めの具体的なあらわれとして、「天狗」のつける額の飾りのようなヒラクテリを額に付けて今もお祈りしています。また門に付けておくメズザなるものもあります。
勝利の人生は偶像礼拝をやめ、主を命がけ愛して歩むことです。生活を通して主を愛することです。主の恵みの中を歩んでゆきましょう。ハレルヤ!
 
【 祈り 】
天の父なる御神。わたしどもは、今日は申命記6章の「シェマー」を学びました。「神からの愛を受け、神への愛と、人への愛」に生きることができますように。どうぞ贖われた者としてあなたのみを礼拝して歩めますように。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたを愛せますように。日々の生活の中で、あなたを畏れ、あなたを愛して、神中心の生活が整えられ、特に家庭の中に信仰と愛がはぐくまれますように、導いてください。わたしどもの生活を勝利と祝福で満たしてください。
わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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