パスターハリーの「説教」と「信仰随想」

今年はいのしし年ですね。右にも曲がらず左にもそれず、まっすぐに、進みましょう!

説教 四重の福音

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《礼拝説教》  「邪悪なこの時代から救われよ」  2014.6.8
使徒2:3642           ー 聖化の恵みを ー             
 
ペンテコステは本来、ユダヤでは「大麦の収穫祭」として祝われていました。使徒言行録2章以来、この日は大麦の収穫ならぬ、やがて全世界規模で起こる「リバイバルの初穂」が刈り取られる日となりました。
また出エジプトから50日目にシナイ山で十戒を授かった「律法授与の記念の日」としても祝われておりました。使徒言行録2章以来、この日は、シナイ山での律法を越えた主の福音、石に書いた戒めを越えた心に刻まれた「新しい愛の律法」が与えられた記念の日となりました。ハレルヤ
 
【聖書のテキスト】
使徒言行録2章の記事はペンテコステの記事です。すなわち、主イエス様が十字架にかかられてその3日後に復活され、それから、主イエスはご自分の生きていることを示して、40日にわたって弟子たちに現われました。そして天に帰って行かれました。更に弟子たちは主イエスに命じられた通り、10日間、約束の聖霊を待ち望んで、祈りました。やがて、ペンテコステの日(五旬節)に、聖霊は激しく弟子たちに下り、弟子たちは力を受け、悔い改めて洗礼を受けたものはその日だけでも、3千人もあった、と記されています。そして教会の命の流れは始まりました。ペンテコステは教会の誕生日でもあります。
 
【メッセージのポイント】
1)36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。(3637節)。 
  ⇒  兄弟たち、わたしたちはどうしたらいいのですか?
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」という言葉はとても大切な言葉です。この言葉から多くの人生に新しい業が始まったからです。求道者の中に主の新しい業が始まるときには、いつでもこの言葉が発せられなければなりません。「わたしたちはどうしたらよいのですか」
ペンテコステの大きな物音が起こったときに、たくさんの方々が集まりました。洗礼を受けた人が3000人もあったと言うのですから、5千とか1万人ぐらいの方々が集まってきたのではないでしょうか。その人々を前にしてペトロは大胆な説教をしました。しかも、そのメッセージの中心は「主イエスの十字架」でした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った、と記されています。
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」という質問は、ペトロをはじめ使徒たちに対する信頼と、語られた内容に対する深い罪意識を読み取る事ができると思います。
  「わたしたちはどうしたらよいのですか?」と彼らは誰に問うたのでしょう。「兄弟たち」にです。ペトロや弟子たちに、教会に、そう問いかけました。そこにクリスチャン信仰の基礎があります。自分が立っていたと思っていた土台が揺れ動き、崩れてゆくように感じるとき、「わたしはいったいどうしたらよいのでしょうか?」とわたしどもは問い始めるのです。ある人はペンテコステの人々のように説教を聴いて自分の罪を知ります。ある人は神の前の自分の罪だらけの実存に目が覚めて、「一体どうしよう!」とあわてるのです。ある人は愛するものの死や病気や事故に直面して、絶対的な永遠者との出会いを経験はじめるのです。
この言葉は使徒16章のフィリピの牢獄でも同じでありました。大地震があって囚人が逃げた責任で、自殺しようと慌てふためいた獄吏は、パウロとシラスに「自殺してはいけない!」と止められ、二人の前に進み出て「先生方わたしは何をすべきでしょうか」と問うた事が記されています。わたしどもも今日、主の御前にそう問いましょう。
 
2)38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(3839節)。     
 ⇒  悔い改めて洗礼を受けよ!         (新生の恵み)
 ぺトロは人々の質問を受けてはっきりと答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)。これはストレートな言葉です。悔い改めて洗礼を受けること、そして、罪の許しを頂いて、聖霊なる神様のご支配の中を歩み始めると言うのです。この38節にキリスト教の信仰生活の中心的な内容が詰まっています。
ある雑誌に、イギリスで伝道している一人の女性、小島美子先生の証しが載ったことがあります。「16歳の夜の出来事」という文章でした。
お父さんから厳しく責められ続けたお母さんが、ある夜、夕食の後についに絶望し、自殺を図ろうとして夜道を出た時のことです。4歳上のお姉さんと、事の重大さを察知して、そっとお母さんについて行きました。しかし、お母さんに慰めの言葉もなく、3人でただとぼとぼと黙って歩くほかありませんでした。3時間ぐらい歩いた頃に雨が降ってきました。行き場に困った彼女達は重い心で雨宿りしました。お姉さんがついに口を開いて「お母さん本当にこれより道はないの?」と聞きました。お母さんは上娘の悲痛な声を聞いて、優しい目で答えました。「それじゃ、家に帰りましょう」。二人の将来を思うと二人を道連れにすることはできなかったようです。その時です。わたしの口から思いがけない言葉が飛び出しました。「教会に行こう!」この自分の言葉に一番驚いたのはこのわたしだった」と記しています。しかし、その時はもう、夜中の二時でした。3人は賭けをしました。一度だけベルを押そう。すると暫くして外国の宣教師が出て来られて「どういたしました」と語りかけてくださって、礼拝堂へと導いてくださり、寝室まで用意してくださいました。そこでなんと一週間、3人は寝泊りして、やがて信仰を持ち、家庭全体が変えられていったというのです。
  使徒16章でもパウロとシラスは答えています。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(16:31)。そして家族全員が洗礼を受けて新しい生涯が始まりました。
  更に39節では「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」とあり、時間と空間を越えて、すべてのものに与えられることが語られています。
 
3)40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
4042節)
⇒ 邪悪なこの時代から救われよ!    (聖化の恵み)
「邪悪なこの時代から救われよ!」とペトロは大胆に語りました。「悔い改めなさい。洗礼を受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」。今までの自己中心性を悔い改め、洗礼の恵みにあずかり、聖霊を受けるのだと語っています。まさにペンテコステは聖霊による人生の転機です。
「キリスト教信仰は、十字架と聖霊です」。BFバックストン師の説教集2の冒頭に、同師の挨拶の文章があります。「聖霊の器」という言葉と共に心に思い浮かぶ人格はバックストン師です。宣教師嫌いの内村鑑三が「彼のようなすばらしい宣教師なら日本に来てほしい。彼は聖霊の器、人類の花だ」とまで絶賛したと言われます。
BFバックストンは1860年英国の貴族の家に生まれました。オックスフォード大学時代に、シカゴの伝道者ムーディ師の伝道集会で、献身を決意しました。日本宣教に召されて、明治23年、神戸に到着。それから山陰の松江に行かれました。赤山で若者達に多大の影響を与えて、松江バンドを形成されました。終始、笑顔が絶えず、温厚で、接する人々に、大きな霊的感化を与えました。現在の塩屋の神学校、関西聖書神学校を創設して、そこで教鞭をとられ、多くの伝道者を育成されました。「聖霊を受けよ。聖霊の満たしはクリスチャンの人生の戴冠式」と語られたことは有名です。彼の教え子の中に、御牧碩太朗、小島伊助、森山諭、本田弘慈、等の伝道者が輩出しました。横山義孝先生もその流れのおひとりです。
 
「十字架と聖霊の満たし」。「罪の許しと聖化の恵み」。これぞ、キリスト教の根幹をなすメッセージです。
 
6月から始まりました「四重の福音の強調月間」。今日は「聖化」について思いを寄せるときでもあります。今日はちょうどペンテコステの日となりました。コラムにも「ドアを開ければパラダイス」というまでの信仰を書きました。
人の救いは主イエスの十字架の贖いにあります。そして、罪の中にとどまり続けるのではなく、「聖霊に満たされて」、恵みの中に、勝利して歩むのです。     
 
【祈り】 父なる御神。ペンテコステの朝を感謝します。罪と死の世界に住むわたし達は、聖なるあなたの前に出る時に「一体、何をすべきでしょう?」と問う以外にないものです。「悔い改めて、洗礼を受けなさい」。主よ、あなたの救いの恵みに与らせてください。そして、「聖霊の恵みを受けよ」と語ってくださいました。わたしどもに聖き神の霊に満たして、クリスチャン人生の戴冠式をなして下さい。わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン
《吉川教会礼拝説教》   「義の太陽の翼」    2012,06,17
マラキ4:20       ― 父の日礼拝に −       
 
先週、聖書学校の集会ですばらしい証しを聞きました。年配者のS神学生の証しであります。彼が結婚して数年たってから、あることで奥さんと口論してしまいました。奥様はしっかりした方で、口論すると奥様のほうが強い。その奥様が、彼の自尊心を傷つけるようなことをずばりと言ったそうです。彼は非常に怒りを覚え、結婚生活もこれまでか!と思えるような破局のがけっぷちにに至ったというのです。怒りが収まりません。奥様を許すことができません。その時、彼は一つの知恵を与えられました。礼拝説教の主題を思い起こしたのだそうです。自分の尊敬する牧師先生が語ってくださった礼拝での神の言葉、救いの言葉を思い起こしてゆきました。彼は牧師を尊敬しておりましたので、語られた説教題と聖書の言葉をくりかえして覚えていたそうです。そして、あの時こう語られた、あの時はこう語られた・・・・・という風に思いだし、恵まれたその状況を思い起こしているうちに、心がいつの間にか、主イエス様の恵みと愛で一杯になり、いつの間にか傷ついたプライドや、奥様への怒りが消えてなくなっていたというのです。破局に至らずに済みました!
皆さん、今日は父の日です。お父さんや家族や親しい方々に感謝をささげる日にしたいと思います。もしも、お父さんやお母さん、家族を許せないと思っている方がありましたら、どうぞ、御言葉を、語られた説教を思い起こしてください。もしも、「今、がけっぷちにいる!」と思われる方は、お帰りになられた、今日の聖書の御言葉、先週語られた聖書の御言葉、先々週の聖書の言葉、それらを、声を出してお読みになり、復唱し、暗唱してみてください。「御言葉にはあなた方の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21)の御言葉通り、あなたの魂に、救いと恵みと平安が与えられることでしょう!ハレルヤ
 
【聖書テキストの概説】
 さて、6月は「四重の福音強調月間」で、「新生」、「聖化」、「神癒」、「再臨」について学んでいます。この4項目は、わたしたちの教会の大先輩、中田重治先生の語られた4ポイントです。中田先生の前に、ABシンプソンや、ジョン・ウェスレー、それ以前には、多くの生徒たちがこれらのことを語り、その救いを証ししてきました。その源は、聖書にあります。主イエス様の救いの言葉、そして旧約聖書からの流れを見ることができます。
「新生」。これは主イエス様の十字架の贖いを経験して生まれ変わること。
「聖化」。これは聖霊なる神様を心に迎え入れて、救いの確信に至ること。
「神癒」。救いは魂のみならず、肉体、生活万般に及ぶということ。
「再臨」。歴史の終わりに主イエス様が再び来られて救いが完成すること。
この4項目が、聖書の語る救いの柱であるということです。
今回は「神癒」について聖書の言葉を聞いてゆきたいと思います。
 
【メッセージのポイント】
1)しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼にはいやす力を備えている。彼らは牛舎から出る子牛のように外に出てとびはねる。                      マラキ4:20
 ⇒ 義の太陽が昇る!             
 われらの心に「太陽」が昇るというのです。
太陽は約百億年燃え続ける宇宙空間にかかる神様の創造された、いわば、巨大な原子炉です。われらの内側に住まわれる聖霊なる神様は、この巨大な原子炉であると預言者マラキは言います。そこから想像を絶するエネルギーと生命と輝きが始まります。
マラキ書は旧約聖書の最後の書で主イエスの来臨を待ち望むことを記した書物です。その最後の章で、預言者は
「主の名を恐れるあなた方には義の太陽が昇る」
と告げます。やがて終末の時には暗やみの中に、神様の圧倒的介入が起こる。神様の救いの輝きが、暗黒の世界を照らす太陽のように昇るのだというのです。これは主イエスの降誕の預言であり、われらのうちに住まわれる聖霊なる神様への預言です。
 
2)しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼にはいやす力を備えている。彼らは牛舎から出る子牛のように外に出てとびはねる。                    マラキ4:20
 ⇒ 癒しの力を備えている!          
マラキはこの義の太陽は「いやしの翼」を備えていると語っています。今日の説教題は「義の太陽の翼」と付けました。看板を書きながら、すごい題名だな・・と思いました。説明がないと意味が分からないかな、と思いました。「太陽の翼」というのは「太陽光線」の詩的な表現です。古代において太陽光線は、太陽の翼と表現されました。この巨大な火の玉、太陽の光線に照らされると、病原菌は消滅し、ゲジゲジやミミズのたぐいは消え去ってしまう。天気の良い日にはお布団の虫干しをし、その光線に当てて殺菌するのです。義の太陽なる聖霊なる神様もまた、同じです。その暖かさとエネルギーと生命の充満の姿において、まさに内なる太陽です。初代教会の弟子たちは聖霊なる神様を内側に頂き、神の恵みに満たされて、じっとしておれなくて全世界に福音を伝えるために飛び出して行きました。それはマラキ書の表現でいえば、「牛舎から出る小牛のように外に出てとびはねる」のです。
 「癒しの力」というのは、本当にありがたいことです。神様は癒し主でもあられるという信仰はすばらしいものだと思います。
 今年の2月19日はわたしの生涯にとっても忘れることのできない日となりました。美歌子先生が夕拝に出席するために、3階から2階に通じる階段で転倒し、踊り場に転落して動けなくなりました。夕拝の賛美の合間に、階段で「誰か・・・」と呼ぶ声がしたので、急いで階段を登ってゆくと、美歌子先生が2階と3階の間の踊り場でばったり倒れておりました。聞くと、「体が全く動かない」と言うのです。急いで救急車を呼び、それから「三郷健和病院」に運ばれました。CTMRIの検査をしました。日曜日に夕方とのこともあって、医師との連絡等もあったのでしょう、とても時間が長くかかりました。10時半ごろ、病室に呼ばれ、医師から告げられた判断は次の通りでした。病名は「頚髄中心性損傷」。頚髄が損傷している関係で、色々な影響が出る可能性があり、かなり深刻である。骨折はない。退院後も後遺症で家事に影響が出る可能性がある。一ヶ月の入院を考えて欲しい。リハビリの結果ではもう少し早く退院できるかも知れない、とのことでした。午後11時の入院直後の状況は、あごにギブスをはめてICUで寝ており、寝たままで、身体は動かせず、両腕に痛みがありました。痛み止めをもらったが痛みが去りませんでした。しかし、翌20日()には痛みが和らぎ、腕の機能がすこしづつ回復。21()には両腕に痛みはあるものの、自分でスプーンを持って食事が取れるようになりました。24()にはリハビリで歩く訓練をし、簡易トイレで自分で用が足せ、はがきも書けるまで回復しました。そして、3月19日、退院。めきめき元気になりました。本当に、皆様のお祈りを心から感謝します。
  最近はよく言われますが、健康な人でも、体内では毎日およそ5,000個のガン細胞ができているのだそうです。でもNK細胞、フラグメンチンなどの免疫系酵素が、体内で生まれたガン細胞を食い尽くすために、ガンを発症しないで済んでいるのだそうです。内側に、イエス様に住んでいただき、聖霊なる神様に満たされて、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝している時に、人は、健康を与えられ、恵まれて歩めるのです。
 
3)、しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼にはいやす力を備えている。彼らは牛舎から出る子牛のように外に出てとびはねる。                   マラキ4:20
⇒ 子牛のように外に出てとびはねる生涯を!    
最後にこのマラキ4:20の締めくくりの部分に注意して読んでみましょう。ここに、クリスチャン生涯は、外に出てとびはねる子牛のような生涯であると歌われております。
 預言者マラキは、救われたものは、喜びと力に満ちて、健やかな歩みをする生涯であることを語っています。
 主イエスの救いは魂を救い、肉体も健やかにし、恵みに満ちた世界を教えます。新生、聖化、神癒、再臨の信仰は、明るい希望に満ちた聖徒を作ります。
 
わたしは病の癒しのために祈る時、通常、次の4つの聖句によって祈ります。
「われは主にして汝を癒す者なり」(出エジ15:16
「その打たれた傷によりて癒されたり」(イザ53:5
「義の太陽が昇りその翼には癒しの力」(マラキ4:20)
「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているのと同じく、あなたが全てのこと  について恵まれ、かつ健やかであらんことを」(Ⅲヨハネ2節)。
 
今日は、クリスチャンの生涯は、義の太陽(主イエスへの信仰、内住の聖霊)がのぼる生涯、そして、主イエスの臨在により、癒しの力(神癒)を受ける生涯、その恵みに満ち溢れて、子牛のように、命に満ちてとびはねる生涯であることを学びました。健康であることは神の御旨です。癒しの根拠は十字架にあります。魂の救いと一緒に、肉体の癒しも受けて、健やかな生涯を!
 

【祈り】 主よ、今日は父の日です。わたしどもに家族を与えて下さっていることを感謝します。「義の太陽の翼」のもとに、恵みの一週間を歩ませてください。「義の太陽がのぼり、その翼には癒しの力」の御言葉のように

心身ともなる健やかさと、子牛のように飛び回る命の力を与え、聖霊に満たし、愛にみたし、喜びに満たしてこの一週間を歩ましてください。霊肉共に癒してくださるわれらの主、イエスキリスト
の御名によって祈ります。アーメン
 
参考:小林和夫師「信仰の源流を尋ねて」より 
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《礼拝説教》      「新生― 見失った羊」   2011・6・19
ルカ15:1―7                             
 
6月は「ホーリネス弾圧記念の月」です。毎年、6月にはホーリネスの群の教会は、信仰と伝統について学ぶ時をもっています。それは、1942年(昭和17年)の6月26日の朝に、ホーリネスの群の諸教会に特高刑事が入り、当時の東条英機軍事内閣は太平洋戦争への突入と国民一致体制を整えるために、キリスト教を敵国宗教と見、ホーリネス系の教会を弾圧した経緯があるからです。その歴史を深く理解する上でも、また、わたしたちの教会の伝統を覚える意味でも、その強調の主題である「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という内容について学ぼうとしています。今日は「新生」、次回は「聖化」という具合に、聖日礼拝説教でそれをとりあげたいと願っています。今日はまず「新生」という内容を取り上げます。
四重の福音という言葉を初めて用いたのは、A.B.シンプソンです。中田重治師は救いと言う方面からこれを取り上げ、救いを、新生、聖化、神癒、再臨の4つの側面から強調し、これを「四重の福音」と呼びました。

「新生」の経験にはおおよそ3つの側面があります。義認、新生、子とされることです。これらは人が罪を悔い改めてキリストを救い主として信じた時、同時になされる経験です。キリスト教信仰の基礎部分です。
「義認」は、わたしたちの罪を取り除き、神様の方で「義と認めてくださる」という法律用語上の解説です(ローマ3:21〜26,ガラテヤ2:16)。これはもともと法廷用語だったことを以前も話したことがあります。主イエス様がわたしどもの負債を負い、わたしどもは正しい者とみなされるのです。
「新生」は、罪過と罪に死んでいる霊魂に、神のいのちが分与されることです。新しい命に生きることです(ヨハネ3:3〜7、5:24、
Ⅰペテロ1:23、エペソ2:1,5)。
「子とされること」は、義認と新生の恵みにあずかった者が、神の家族に受け入れられ、神の子としての特権に回復させることです(ローマ8:15,17〜23、ガラテヤ3:26)。

 
【テキストの位置と概略】                            
ルカ15章は「福音中の福音」「主イエスの教えの蒸留したエッセンス」と言われます。ここには「迷子の羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」の三つの物語があります。全ての喩えに「失われたもの」「回復」「喜び」という主題が共通しています。今日は、「失った羊」を共に学びつつ、主のめぐみを頂きたいと思います。これは有名な主イエスのたとえです。サンデースクールの紙芝居にも「迷子のメー子」というのがあります。また、子供讃美歌にも

「小さい羊が家を離れ、ある日遠くへ遊びに行き、
花咲く野辺のおもしろさに、帰る道さえ忘れました。
 
けれどもやがて夜になると、辺りは暗く寂しくなり、
うちが恋しく羊は今、声も悲しく鳴いています。
 
情けの深い羊飼いは、迷子の羊を見つけました。
抱かれてかえるその羊は喜ばしさに踊りました」
 
というのがあります。ここには、深い人間観と救いの内容が記されています。
 
メッセージ・ポイント                  
1)、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(4節)
  ⇒ 人間とは何か?迷える羊である。
聖書の人間観は、「迷える羊」と言う一言で表されます。人間の歴史を見据えた聖書の表現は、人間は「羊のような弱い存在」であると語ります。しかも、ここでは、「弱い羊」であるのみならず、「迷える羊」であると語ります。
イザヤ536節に
「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた」とあります。
ご存知のとおり、イスラエルの民の身代わりとなって死を経験する苦難の僕は、神の民の迷いをその身に負ったのでした。羊の特性は、極度の近眼、方向音痴であり、無防備であると言われます。ユダの荒野はもしも、羊が迷いこんだら、死を意味するような恐ろしい場所です。
夏目漱石は小説「三四郎」の中で、一番最後で主人公に「ストレイ・シープ、ストレイ・シープ」とつぶやかせることによって、その小説を閉じています。それは人間が、永遠の神と断絶し、迷ってばかりいる存在であることを率直に告白した文章です。人間の迷いの果てには死が待っているのです。
 
2)、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(6節)
  ⇒ 救いとは何か? 天国の囲い(=神の園)に帰ること。 
さて、この人間の現実に、一体、神様は、どのような救いをもたらしてくださるのでしょうか?
「救いとは何か?」
この入り組んだ、複雑な人間の状況に対して、聖書は簡明直裁に答えます。それは「家に帰ること」だと。羊のたとえで言うなら、羊の園に立ち帰ること、神の園に帰ることです。もう少し、人間的に言うなら、聖書の語る「救い」は、神様に立ち帰ること、神との人格的な交わりを回復することです。「神の子供」となることです。これは教会の交わりに加えられることですが、「人と人との交わり」と錯覚してはなりません。教会の交わりに「期待過剰」は時々、躓きをひき起こします。あくまで神様を中心とした、父、御子、御霊の交わりへの招き、天国の交わりの回復のことです。
 
3)言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
 ⇒ どうしたら救われるか? 「悔い改め」          (7節)
  そこで大きな問題が起こります。人間の本質が、「迷える羊」であり、救いは「天国の囲いに帰ること」であることを聞きました。しかし、どうして帰ることが出来るのか、これが問題なのです。7節では「悔い改める(=メタノイア)」という言葉が、2回記されて、大事なことは、「悔い改め」だと解ります。しかし、問題はここでは、羊は自分で帰れないという重要な現実を残しているのです。ここで語られている救いは、悔い改めではあるが、それは自分の力によるのではないということです。なくなった一匹を探す、良き羊飼いの主イエスの働きによるのだ、と聖書は告げます。次の銀貨のたとえも同じである。失われた銀貨も自分で、元に戻ることは不可能なのです。迷子の羊は羊飼いに信頼し、身をゆだねることが悔い改めなのです。羊飼いは、人里離れた遠くまでやってきて羊を助けてくれるのです。
ホフマン・ハントの描いた「アルプスの羊飼い」という絵はそのことをよく示しています。羊飼いは断崖で傷つき動けなくなっている羊に向かって、身体をよじり、手を伸ばして助けようとしています。それは羊飼いが自ら、危険をおかし、茨で傷つき、害を受けたことを示しています。
実際に主イエスは我等の身代わりとして背中を鞭打たれ、両手両足をくぎで貫かれ、心臓が破裂して十字架で死なれました。そして、われらの罪の代価を支払って、死を打ち砕いて復活されました。人間の罪と死の解決です。この主イエスに信頼し、身をゆだねる時に、救いは起こるのです。聖書の語る「福音」、救いの内容は、この主イエスの十字架と復活にあるのです。
 
4)、そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、(5節) ⇒ 現状は何か?「肩に担われた羊」
  最後に、わたしども救われた者の現状はどこかということを考えて説教を終えたいと思います。6節には、羊飼いに担がれて、囲いの中に戻る羊の姿があります。疲れた両足を握ってもらい、肩に担がれて、恵みの世界に帰る羊の姿です。これは主イエスに抱かれ、担われる人生です。主イエスの臨在と共に歩む生涯。聖霊の息吹に触れながら歩む人生。それがわたしどもの現実です。約束の天国の世界は、今だにおぼろなのです。時にはクリスチャン人生でも、苦しいことやつらいこともあるのです。
けれども、横を向くと、そこには自分を担ってくださる主イエスの横顔があるのです!皆さん。横を見てみましょう。主イエス様が見えましたか?
悲しみの中で、女奴隷のハガルが、主の井戸を発見したように(創世記21:19)、戦いの最中でサムソンが喉が渇いて倒れそうになったときに「エン・ハッコレの泉」が湧いたように(士師15:19)、主はいつもそばにいて助けを与えてくださるのです。主イエスの暖かい心臓の鼓動を聞くほどに、豊かな聖臨在の中を歩むことこそ、わたしどもの信仰生涯なのです。皆さん、主イエス様の心臓の鼓動が聞こえますか?
新生の体験を明確に持ちましょう。自分が何者であるかを知り、救いが何であるかを知り、どうしたら救われるかを知り、救われた現状がどのようであるかを知りつつ、勝利の中を、喜びつつ歩みましょう。
 
ある時、「ひ・つ・じ・か・い」の5文字を入れて短歌を作りました。
 
他者(ひと)ならず 罪に落ちしは 自分なり かすれし声あげ いま天仰ぐ
人里を つとに離れし 地獄谷 からめとられて 一歩も動けず
ひとりをば 連れ戻したり 慈愛の手 掻き裂かれたる いばらあざみに
緋のごとき 罪をあがなう 十字架に 神のみ愛ぞ いまさやかなり
ひとごこち つきたるそばに 慈顔あり 担がれ帰る イマヌエルの道
 
 主はわたしの羊飼い!わたしには乏しいことがない!         ハレルヤ!
 
【祈祷】 天のお父様。わたしどもはこの朝、父の日の礼拝を守りました。また、四重の福音の中の「新生」を学びました。新生の体験を明確に持ちましょう。自分が何者であるか、救いが何であるか、どうしたら救われるか、救われた現状がどのようであるかをわきまえつつ、勝利あるクリスチャン生涯を、歩む者としてください。特に今週は、ホ群の年会があります。すべてを守り、助けてください。あなたの横顔を見、あなたの心臓の音が聞こえるほどそば近くにおらせたまえ。主イエスの御名によって祈ります。アーメン
 
 

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《吉川教会礼拝説教》          「四重の福音―再臨」            2010,06,27ローマ信徒への手紙13:11-14        終末信仰に生きる    


今日は午後3時からホーリネスの群の主催の「弾圧記念聖会」が杉並区の桜ヶ丘教会にて開催されます。説教は潮義男師、証に大友英樹師、司会は片平貴宣師、教職の聖歌隊が奉仕します。西海満希子先生も参加されます。参加して恵まれ、先輩たちの信仰に習って立ち上がりましょう。
6月は「ホーリネス弾圧記念の月」です。毎年、6月にはホーリネスの群の教会は、信仰と伝統について学ぶ時をもっています。それは、1942年(昭和17年)の6月26日の朝に、ホーリネスの群の諸教会に特高刑事が入り、当時の東条英機軍事内閣は太平洋戦争への突入と国民一致体制を整えるために、キリスト教を敵国宗教と見、ホーリネス系の教会を弾圧した経緯があるからです。その歴史を深く理解する上でも、また、わたしたちの教会の伝統を覚える意味でも、その強調の主題である「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という内容について学びました。四重の福音という言葉を初めて用いたのは、A.B.シンプソンです。中田重治師は救いと言う方面からこれを取り上げ、救いを、新生、聖化、神癒、再臨の4つの側面から強調し、これを「四重の福音」と呼びました。今日は4番目の「再臨」とりあげたいと願っています。
キリストの再臨は聖書のメッセ−ジです。ルネ・パーシュの著した『再臨』によると 聖書の中には再臨の記述が多いことが記されています。同著によると旧約に1527節、新約 319節あるといわれます。これはキリストの十字架に匹敵する量です。たしかに、そう言われてみれば、神の歴史支配の頂点である「主の日」のメッセ−ジは聖書のここかしこに記されるのは当然です。
内村鑑三が晩年、再臨運動を起こして、当時の社会に大きなインパクトを与えたことは有名です。彼が再臨信仰に堅く立ったのは世界第一次大戦が勃発した1919年のことでした。世界戦争と共に人間の愚かさに失望し、聖書の語っている神の歴史支配に目が開かれたのでした。「聖書どおりの信仰がもっとも深く、もっとも強い」とは彼の言葉です。
キリストの再臨は、代々の教会の信仰告白です。また、キリストの再臨は代々の教会の重要な信仰告白でした。使徒信条の中に「かしこより来たりて、生ける者と、死ねる者とを、さばき給わん」と告白されています。いつの時代でも、キリストの主権と、神の最終的な裁きの前に、すべての人は立たねばならない。例外なしに。これは教会の信仰です。特に、わたしたちの属するホ−リネスの群は、AB・シンプソン博士の提唱し、それを継承した中田重治の「四重の福音」の伝統に立っています。聖書信仰を「新生・聖化・神癒・再臨」の四項目で要約した立場です。そのために、戦時中に東条内閣によって宗教弾圧を受け、多くの牧師が投獄され、獄死する者も出たのでした。彼らは「天皇とキリストとどちらがえらいか?天皇には罪があるのか、キリストの再臨の時には天皇もキリストによって裁かれるのか?」等の質問を受け、不敬罪に問われたのでした。

【テキストの解説】
 さて今朝わたしどもが導かれている聖書箇所はローマ信徒への手紙13章11-14節です。ご存知のようにローマ信徒への手紙は11章までが救いに関しての教え、12章以降はクリスチャン生活の倫理的実践が記されています。その中でも今日の聖書箇所は、間奏曲のような、美しい、しかも深い聖書の真理が示されているところです。キリストの再臨の前に立つ信仰者の具体的な生活のありようが、終末論的な背景から描かれています。キリスト再臨の時を知るクリスチャンは再臨の御前に立つ者であって、目覚めていなければならない。主イエスにある新しい再臨の朝に向って今まで続けてきた闇の業を脱ぎ捨て、キリストを着る生涯へと変えられて歩むようにと勧められています。

【メッセ−ジのポイント】
1)11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
 ⇒ 眠りから覚めるべき時が来ています!
 ここではクリスチャンとは「時」を見分けるもの、「時代」を知る者であると語られています。「11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」。別の表現をするならクリスチャンは、終わりの時を知っているのです。主イエスの再臨のとき、裁きのとき、救いの時を知っているのです。それゆえに、その終わりの日から自分自身の生涯を規定して歩み始めるのです。20世紀を代表する神学者、ティリッヒが、キリスト教的な生涯は、キリスト再臨の彼岸を深く知るところから始まるというのです。「彼岸は、此岸の力である」という言葉に彼の深い信仰の洞察を見ることができます。終わりを知ることは現状の生き方に大きな変化を体験するのです。ちょうどマラソン選手がゴールの瞬間を起点にして、マラソンの行程を計算するように、わたしどもも、主イエスにお会いするその再臨の日を起点に現在の生涯を構築するのです。
今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、キリストの救いは近づいています。この悪い時代は、やがて一層悪くなって、不法がはびこり、「多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:12)とも語られまし。聖徒たちは、こうした指摘を心に留めるだけでなく、自ら時代を見分け、その時代にどのように生きるのかを、人生のゴール、キリストとの再会から始めてゆくのです。
眠りから覚めるべき時がきているのです!とパウロは強く語ります。もしも主イエスが、3時間後に来られて、わたしどもの地上の生涯が全て終わるとしたらあなたは何をされますか?もしも、3日後に再臨が起こったら、今のままでいいですか?3ヶ月後に自分の生涯が終わるなら何をなさいますか?
わたしは絵描きになろうとしていた20歳の時にアパートに北村という友人が来て、同じような質問をされました。
「3日しか生きられないなら、深谷、お前何をする?」
「3日?3日しか人生に余裕がないなら、僕は友人に伝道するよ」。
「3ヶ月しか生きられないから、お前何をする」
「3ヶ月?3ヶ月しか時間がないなら、人々に伝道するよ・・」。
その時友人が言いました。「お前は馬鹿か?これから芸術に生涯をかけようというのに、3日の余裕で絵を描かない、3ヶ月あっても作品に命をかけられないで、キリスト教の伝道をする?そんな奴は絵描きになんかなって欲しくないよ。キリスト教の伝道者にでもなっちまえ!」

2)12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
  ⇒ 日は近づいた。闇の行いを脱ぎ捨てよう!
 この手紙が書かれた頃(AD58年頃)、ローマ社会は、文化的にも経済的にも繁栄の絶頂期だったようです。物質の豊かさの中で、人間は、この世の楽しみに引かれてゆきます。そして、それは、道徳的な退廃を招き、罪の中へと落ちてゆきました。
 パウロは、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と語ります。夜が更けて暗闇が濃くなっている。やがて朝の光が輝く。いや、今、すでに朝は来ている。キリストの誕生と十字架と復活のできごとの中で、すでに朝は来ている!もう「やみのわざ」を捨て、「光の武具」を身につけよう!

3)13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
  ⇒ キリストを着よ!
パウロは、いくつかの「やみのわざ」を列挙します。「酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」は、どれも暗闇の深さを示すものです。わたしどもも、油断するなら、たちまちその闇に陥ることを認めねばなりません。今日の日本においても、私たちは紙一重のところで生きています。皆さん、「やみのわざ」の落し穴は、到るところに張り巡らされ、誘惑は巧妙に迫っています。それゆえに「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」との勧めを、心に刻むことが大切です。闇の中に潜むことなく、昼間の太陽に下に出て、照らされて生きることです。
 ここでパウロは、わたしどもに、「キリストを身にまといなさい」と勧めています。キリストを着て、新しい人生へと歩みだすのです。
この聖書箇所は古代の最大の教父アウグスチヌス(354 - 430)の回心で有名な箇所です。彼は北アフリカ・ヌミジア地方で生まれました。当時の北アフリカは複数の宗教・思想が入り混じった地域だったようです。母モニカはクリスチャン、父パトリキウスは異教徒でした。アウグスチヌスはマニ教に惹かれました。マニ教の教義はユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシスなどの影響を受けた混交宗教だったようです。アウグスチヌスは、天才的な頭脳を持った青年でしたが、早熟で、早くから愛人を作り、子供まで作ってしまいます。やがて、霊的な教会の指導者アンブロシウスに出会い、特に彼の詩編からの説教に影響を受けました。しかし、キリスト教の教えに目覚めたアウグスチヌスでしたが、回心にはいたりませんでした。肉の欲と真理との間で苦しみます。そしてある時に、自分の罪に泣きながら、「主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?」と叫び祈っていました。すると、「取り、読め!」「取りて、読め!」と子供たちの声が聞こえました。この声を神のみ声として従う覚悟で、近くになった聖書を開きました。そこで彼は今日の聖書箇所を読んだのです。「12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」そして、アウグスチヌスの心は光に包まれ、言いようのない平安に満たさました。そして彼はクリスチャンとなり、多くの人々を救いに導く人物となったのです。

【 祈 り 】主よ、今日は、キリスト再臨のメッセージを学びました。眠りから覚めるべき時が来ている!日は近づいた。闇の行いを脱ぎ捨てよう!キリストを着よ!と。主よ、われらの霊の目を開き、裁きのラッパの響きを聞き、主の臨在の中を感謝しながら歩み行くことができますよう導いてください。先輩たちに習って、新生、聖化、神癒、再臨の信仰に歩めるように導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

《吉川教会礼拝説教》    「神癒の恵み」       2009、06、28

出エジプト記15:22−27

 今朝は「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の三番目、「神癒」について考えてみたいと思います。ホーリネスの諸教会の基礎を据えた中田重治は、この四重の福音を「新化」「聖化」「健化」「栄化」という風に呼び、キリスト教信仰は人生が「変化する」出来事であると強調しました。人生に一大変化をもたらすのだ!この「人生変革」「人格革命」というメッセージが20世紀の日本にヒットしました。中田重治はシカゴのムーディ聖書学院でこの「四重の福音」に触れてこれだ!と思って確信を持って帰国し、1901年、神田神保町で宣教を開始したのでした。それまではキリスト教というと、非常に複雑な、高度な宗教、ヨーロッパやアメリカの高度な倫理的教えと思われていた節があります。日本では、今日でもそのような傾向があります。 健康のありがたさ、これは病気をするとどんなに尊いことか解ります。聖書は「健康と化させられる人生」をたくさん語ります。その中でも「われは主にして汝を癒すものなり」は暗唱すべき聖句です。

【今日の説教箇所の概説】
 今日の説教の背景はイスラエル民族のエジプト脱出の出来事です。エジプトでの400年間にわたる悲惨な奴隷生活。奇跡的な一大プロジェクトであったエジプト脱出。紅海の水が分かれるという驚くべき奇跡。それらの数々を体験しつつ、今、イスラエルの民は紅海を渡った後、シュルの荒野と言うところにおりました。シュルの荒野の位置については創世記25:18やサムエル記上15:7にも記されていますが、エジプトとの国境に近い所という事以上のことは、現代ではもう、分かりません。この地名はアラビア語で「壁」を意味し、ある時期には軍事的要塞が並んでいたのではないかとも言われます。また、マラの井戸という地名の意味は「苦い」です。24節のイスラエルの「民のつぶやき」については出エジプト記16、17章や、民数記14章等に、同じような「つぶやき」「不平」のことが記されています。神の救いに対する、感謝を忘れた理不尽な行為は、人間の愚かさとかたくなさを示しています。聖書は人間の罪の性質を、「つぶやき」「不平」であると教えています。

【メッセージ・ポイント】
1) 23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと水は甘くなった。
                                         (23-25節)
⇒ つぶやかず、主の十字架を心に投げ入れよう!

ここには不思議なできごとが記されています。
ご存知のように、出エジプトの物語のひとつの頂点は「紅海渡渉」における決定的な勝利でありました。紅海が分かれ、彼らは神の全能の力に感動し、大いなる賛美を捧げました。しかし、そのわずか三日後、彼らは水をめぐる混乱で、つぶやき、不信仰に陥ったのでした。これは人間の罪の姿の原型のような出来事でした。クリスチャン生涯の中でつぶやきに陥らないことは、大切な教えです。荒れ野の泉は苦い場合が多いと言われます。ある学者たちは、この苦い水の場所を、樹木の多い水の豊かなアイン・ムーサ(モーセの泉)と考えます。苦い水を甘い水に変えた一本の木に関しては様々な解釈がありますが、初代教会の教父たちはこれを十字架と結びつけて教えています。主イエスの十字架を投げ入れると、苦い水が甘い水になったと言うのは、なるほど、わたしどもの人生の真理を意味しているように思います。
クリスチャン生活の3面鏡と4面鏡については、1テサロニケ5:16―18と1コリント10章の記事に記され、つぶやきが戒められています。

2) 25bその所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」(25-26節)

 ⇒ 主に従う道は、健やかな道!

 ここには神の癒しの宣言で有名な聖句が記されます。
 「我は主にして、汝を癒す者なり」。
 このような聖句は暗唱しておきたいものです。神様は全能のお方で、わたしたちの病いを癒してくださると宣言しておられるのです。
ここでは、4つの名詞が印象的です。「主の声」、「彼の目」「彼の命令」「すべての掟」、これらを、聞き、行い、耳を傾け、守るなら、エジプト人に下した病気を下さないと語られました。これは、神様に従順であることの大切さを教えています。新約の時代に生きるわたしどもには、十字架と復活の恵みの上に立って、主に従う人生の祝福を語っている箇所として理解することができるでしょう。罪責感や死の恐れから解き放たれて、罪許された者として、感謝と喜びの中に生き、軽やかな、「健化の恵み」にあずかる者とされたことを宣言しているのです。
「四重の福音」の提唱者であるA.B.シンプソン牧師(1843-1919)の体験はすばらしいものです。シンプソンは大変優秀な伝道者だったのですが、37才で大きな病気を得て活動停止となってしまいました。心身ともに疲れ果ててしまったのです。その彼が、ある集会で、聖霊の深い取り扱いを受けて、魂も肉体も癒されました。トウザー博士の「A.B.シンプソン伝」ではこのように記されています。

1881年、プロテスタントの世界の至る所に、不思議な、霊的な息吹きが感ぜられていた。… 
 それより少し前に、ロンドンでは、ウイリアム・ブース将軍が、平信徒伝道隊である救世軍を組織して いた。米国内では、ジョン・ウェスレーの流れをくむホーリネスの運動が、注目されはじめてきた。く つ屋の店員であったドワイト・L・ムーディは国じゅうを旅行し、その行く所で何百という回心者を勝 ち取っていた。 その時代の霊的な飢えかわきの中から、一つの宗教的現象が生まれたのである。… ドイツのブルームハルト師は、「イエスこそ勝利者」というスローガンをかかげて、病人のために祈 
 り、驚くべき成功を収めていた。イギリスではW・E・ボードマン博士が、アメリカではチャールズ・ キュリス博士が、それぞれ、信仰の祈りの答えとして、注目に値するいやしのわざを行っていた。…・ こうしてある金曜日の午後、彼は表に出て行った。肉体の痛みと衰弱のために足取りはおそく、息切れ は激しかった。彼はまるで、開かれたドアから大寺院にはいって行くように、松林の小道をたどって行 った。そこには、柔らかな松葉のじゅうたんが敷き詰められ、祭壇の代わりには丸太があった。そのう え、だれとなくかなでるオルガンの音のように、松風の響きは彼の耳を喜ばせた。彼はそこにひざまず くと、神の御顔を尋ね求めた。 突然、キリストの力が彼をおおった。あたかも、神ご自身が彼のそば 近くに立たれたように思われ、主のご臨在の栄光が、このかおり高い至聖所をおおった。「私の魂のあ らゆる部分が、神のご臨在を感じて高鳴っていた」と、のちに彼は言っている。両手を緑でいっぱいの 上に向けて伸ばしながら、自分が絶望的な地の墓から救い出されたときの誓約を、ここで立てたのであ った。そして、あとになってわかるように、彼は自分の宣教方針を変え、ついに、一千年間の教会史上 最大の、神癒の代表的人物になった。説教家であった彼は、自分の誓約を三つの要点に分けた。それら は、みことばに対する彼の信仰の総合であり、それを永遠に信じてゆこうという決意の表れだった。  「信ずるということは、なんとすばらしい事だろう」と彼は言っている。その誓約は、次のとおりであ る。「私は、神癒の真理を、神のみことばと、キリストの福音の一部分として、厳粛に受け入れます。 私は、生涯になすべき仕事をなし終えるまでの、すべての肉体の必要のために、主イエスを、肉体的な いのちとして受け入れます。 この祝福を、神の栄光と、他の人々の益のために用いることを、おごそ かに約束します」。 彼は、これらの事を熱意をこめて誓約した。「その日、わたしはあなたに会うで あろう」というみことばが、この日、彼の上に成就した。 この松林の寺院を去る時の彼は、肉体的に 全く変えられた人間だった。その後四、五日して、彼はいなかの方に、長距離のハイキングに出かけ  た。つい数日前まで墓が口を開いて彼が来るのを待っていたような、あの弱い牧師がそれをした。そし て、一千メートルほどの山に登った。彼はこのときの事を、喜ばしそうにこう書いている、「山の頂上 に着いたとき、私はまるで、天国の門の所まで来たかのように感じた。弱さと恐れの世界は、私の足も とにひれ伏していた。そのときから私は、この胸の中に新しい心を持つに至った」。古い悩みは、その 後二度と彼をいざなうことはなかった。

こうして、伝道戦線に復帰し、以後、天寿を全うして召天に至る日まで、健康を与えられ、すばらしい働きをされました。これは生々しい癒しの体験です。主は今も癒しの業をなし給う!ハレルヤ

3)27 彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。(27節)

⇒ 恵み充足の平安な日々!

ここには、荒野の長旅を続けたイスラエルの民の、ようやくたどり着いたオアシスでのいこいの姿があります。エリムは「大木(複数)」の意味。ツディ・ガランデルにおける木と水のたくさんあるオアシスのことだと一般に考えられています。12の泉と70本のナツメヤシの木は、神の恵み豊かな緑の潤いを暗示します。聖霊に満たされた平安と充足を示していると言って良いでしょう。12の泉は祝福の基なるイスラエルの12部族を連想させ、70本のなつめやしは当時考えられた世界の国々を想像させます。神の恵みに従う道は、12の泉と70本のなつめやしに代表される、平安と祝福です。

【祈り】
 天の父なる神様。この朝は「四重の福音」の中から「神癒」の恵みを学びました。人生は荒野の旅であり、多くの試練や困難があります。病気はその中でも苦悩のひとつです。しかし、十字架の贖いと聖霊の満たしの中で、わたしどもの人生は苦味を取り去っていただき、感謝と平安の歩みをなしうるのだと信じます。主イエスを、肉体的な癒し主としてもお受け入れいたします。御国に着くその朝まで、主と共に心身ともなる健やかさをもって人生の旅を全うなさしてください。癒し主、主イエスの聖名によって祈ります。アーメン!

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