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多くの、宗教に絡んだ日常的営為は、たとえば、「幸せになるために宗教に依存する」といったような形である。これは、つきつめれば、自分の願いを実現するために宗教を利用している形となり、ある意味、宗教の冒涜となる。宗教自体にすでに自ら目的性があり、その内容は人間には知る術もない。そういった宗教に依存することこそ、信仰であり、再度言えば、神の技は人間には測られない。 |

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こんにちは、ゲストさん
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多くの、宗教に絡んだ日常的営為は、たとえば、「幸せになるために宗教に依存する」といったような形である。これは、つきつめれば、自分の願いを実現するために宗教を利用している形となり、ある意味、宗教の冒涜となる。宗教自体にすでに自ら目的性があり、その内容は人間には知る術もない。そういった宗教に依存することこそ、信仰であり、再度言えば、神の技は人間には測られない。 |
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特にお正月になると、多くの人たちが神社へと行き、願い事をお祈りしてくる。これは、日本に伝承される、静かな叙情的な文化なのだけど、その神社の中枢は、その事態(願い事をお祈りすること)をどう思っているのだろうか。その神社が、そうした人々の賽銭で生活を成り立たせているある意味宗教ではない神社の場合はそれでいいのかもしれないが、宗教という立場に立つとき、絶対的本尊は、そんな個人的なお願いをそのまま叶えてくれるはずもない。いったい神社を中心とする宗教は何を我々に望んでいるのか、そこのところを把握しないと、いくら願い事を丁重にしてみても、それは単なる文化的年中行事でしかなくなってしまう。 |
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私たちがいちばん苦しいのは孤独を感じている時かもしれません。多くの人たちに囲まれていても誰とも繋がっていないと思うのでしょうか。言葉を交わしても寂しさだけが込み上げてくるようです。だからこそ本当に繋がりたいと感じるのでしょう。本当に繋がるということは、自分の先入観で人を見ないということです。その人自身に対面する、その直接の受容の積み重ねがやがてお互いの間に、孤独を超えたところのいのちの繋がりを生み出すのだと思います。(通信11月号より) |
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いのち(生物学的生命)より大事なものがあると深い論調で語るのはおそらく宗教関係者だけだろう。このことの是非は私には分からないが、少なくとも、生物学的な生命、あるいは「長生きがしたい」「健康が大事だ」という生命優先主義としての生命、その限界を超えていくという基本的姿勢は分かる。生命を維持することに縛られている、もっと言えば、この世に生きていることに呪縛されているというものだろうか。生命を超えていくというのは、分かりやすく言えば、自分だけではなくあらゆるいのちの幸せを願う、という意味にも理解できる。その境地は、おそらく、自分の問題として言えば、「いつ死んでもいい、いつまで生きてもいい」という場所なのだろう。 |
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時々、何を信じていいのか分からなくなる時があります。何も信じられなくなると言った方がいいのかもしれません。しかし、このことは逆に言えば、自分を限りなく信じている、頼っているということで、うまく事が回っているうちはそれでいいのでしょう。しかし自分の分限を知らされ、どうしようもなくなった時に、やはり信じるべきものを探そうとするのでしょう。そのときは向こうから、その信じるべきものはやってくるようになりますが、そのときこそが、本当の意味で、自分を生きている時なのでしょう。 |
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