世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」

「一燈を提げて、暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。ただ一燈を頼め」言志晩録

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2


七生報国(しちしょうほうこく)

日本武士道の源流『楠木正成公』

「楠木正成」は、天皇を守るため、ただ一人、千早城で幕府軍と戦い続けた。
『建武中興』への道を開いた勇者でした。

≪七生報国・・七回生まれ変わっても国に報いる≫

そして、正成・正季兄弟が最後にこの世に残した言霊は『七生報国』の精神は時代を超えて、その後国を守るために命がけで立ち上がった人々の心の支えとなった。

≪大楠公の偉大な精神≫

湊川の戦いに散って逝かれた正成公の忠誠の純粋性に日本人であれば感動する。
楠木正成公の一生は、日本の精神史「忠義・忠誠・忠」は、日本の武士道の源流なのです。

≪楠木正成≫

楠木正成は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。 永仁2年(1294)、ここ千早赤阪村の水分で生まれたといわれています。
正成が生まれたころ、140年あまり続いた鎌倉幕府は衰え、秩序が崩れていました。 そのなかで、政治を武士から天皇に戻そうという気運が高まっていました。大きく時代が変わろうとしているときでした。
元徳3年(1331)、正成は後醍醐天皇の皇子護良親王とあわせて、鎌倉幕府に 対抗するため下赤坂城で兵を挙げました。元弘3年(1333)には、千早城に100日間籠城し、鎌倉勢を釘付けにしました。
この間に、新田義貞(1301〜38)らが鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府は滅亡しました。 このことから、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅亡に導いた功労者として、正成を従五位下検非違使に任命しました。
その後、建武3年(1336)、天皇を中心とした政治に疑問を持ち反旗をひるがえした足利尊氏(1305〜58)に湊川の戦いで破れ、自害しました。

七生報国(しちしょうほうこく)
「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との意味

楠木正成(くすのきまさしげ=大楠公【だいなんこう】)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=1288〜1339。 第96代天皇【在位1318〜1339】。親政を企てて正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗し、1336年吉野に移り南朝を立てた)の命(勅命)を受け鎌倉幕府を倒すため挙兵、天皇側についた多くの武将とともに時の執権北条尊氏の大軍と戦い、1333(元弘3)年6月、北条氏(鎌倉幕府)を倒し武家政治を廃し、天皇政権(天皇親政)の樹立に成功した(復古的政権=「建武【けんむ】の中興/建武の新政」)。

後醍醐天皇は、記録所や雑訴決断所を設けて一般政務や訴訟問題の処理にあたったが、武士階級の不満を解消できなかった。こうした状況の下、1336(延元)年、楠木正成に敗れ一度は九州へ敗走した足利尊氏は、大軍を集めて、再び京都に進撃を開始する。

戦いに先立って京都で開かれた天皇方の軍議の席上、正成は、京都をいったん足利軍にあけ渡し、その間に軍勢を増強、再度攻撃する戦術を提案(献策)するが、後醍醐天皇の参議(公卿)坊門清忠(ぼうもんきよただ)の反対にあい頓挫する。

後醍醐天皇は、正成に兵庫下向(げこう=都【京都】から地方へ行くこと)と新田義貞救援を命じた。

正成は、桜井(現在の大阪府三島郡島本町)にてその子正行(11歳の小楠公まさつらは、「父が討ち死にしたのちも一族をまとめて戦い続けることが忠孝である」と決別の言葉を述べた)後事を託して別れ(「太平記【たいへいき=後醍醐天皇の討幕計画から、建武の中興・南北朝内乱に至る変革期の歴史過程を、南朝側の立場から描いた40巻の軍記物語】に見られる「桜井の別れ」である。忠孝の逸話として伝承され、後世に多大な影響を及ぼした。正行は正成の死後、南朝の将として活躍し、1348【正平3】年大阪・四条畷【じようなわて】にて足利軍と激戦末23歳で戦死。四条畷神社に祭られている)、下向の途中の尼崎で、「今度の戦いは必ず敗北するでしょう。国中の人々が君にそむいているのですから…」との意見状を後醍醐天皇にあてている。

まさに、自身の戦術を退けられた上に、敗北が明白な孤立無援の戦いを強いられた正成の悲痛な叫びを意味した。

正成は、天皇を守護するため、700余騎を率いて湊川(兵庫県神戸市)に出陣、海上からの10万余の足利尊氏と、陸上の足利尊氏の弟足利直義1万余の軍勢の挟み撃ちにあい、後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉をおとしいれ、幕府を滅ぼし、建武政権では武者所(むしゃどころ=京都の警固にあたった建武政権の一機関で新田一族によって統轄された)の頭人(とうにん=鎌倉幕府の引付衆の主席)をつとめた新田義貞が敗走したにもかかわらず、勇猛さと奇襲戦法で最後までとどまって戦った。

日本史上最も激しい戦いといわれる「湊川の戦い」である。湊川を見渡すことのできる会下(えげ)山に陣を張った正成軍は、1336(延元)年5月25日(現在の暦では7月12日)、僅かな手勢を率いて蓮池近辺で16回をも突撃を繰り返し、10倍以上の大群を須磨まで押し返し、尊氏の本陣にも攻め込んだ。

だが、最後は尊氏軍の前に全滅、一族郎党とともに自刃(じじん)して果てるが、このときに正成が、弟正季(まさすえ)ら一族郎党と誓い合った言葉と伝えられているのが「七生報国」である。

 すなわち、最期をさとった正成は、弟正季に何か願いはあるかと問いかけると、正季が「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」と答えので、正成も「いつかこの本懐(ほんかい=本来の望み。本望)を達せん」と誓ったのち、兄弟刺しちがえて自刃したといわれる。淡々として天皇のために死地のいくさにのぞんだ楠木正成は、そのとき43歳の夏であった。


≪生き続ける心≫
吉田松陰が最も尊敬する人物は「楠木正成公」でした。

帝側につき、自分の命を捨てる覚悟で帝を守り抜いた武将、正成公は、まわりを幕府軍何万に囲まれても微動だにせず、戦い抜いた勇気ある楠木一族を日本人であれば尊敬するのが当然である。


宮司は、『楠木正成公』を心から尊敬し、「菊水の旗」たなびく如く、颯爽と生きて「非理法権天」の信念を子々孫々まで貫き通したいと思います。
宮司も、死ぬ時が来たら「七生報国」を最後に誓いたいと思います。
[https://history.blogmura.com/his_shiseki/ にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ(文字をクリック)]

この記事に

閉じる コメント(8)

私が小学校低学年の頃は、まだ学校の玄関前に楠木正成公の銅像がありました。
智恵・志・勇気・忠義・優しさなど、日本人として必要な資質を教育するのにこれほどぴったりな人物はいないと思います。

2008/9/19(金) 午後 5:59 彦十郎 返信する

アバター

彦十郎さん楠木正成公や正行公を尊敬する日本人が多くなればいいですね

2008/9/19(金) 午後 6:38 吉野の宮司 返信する

顔アイコン

はじめまして、TBさせてくださいね。
よろしくお願いします。

2009/1/23(金) 午後 11:16 [ 伊右作 ] 返信する

アバター

伊右作さん旧日本を誰が謝らせたカなどは自虐史観ですつまらぬ戦後左翼のアホどものたわ言です

2009/1/24(土) 午前 0:10 吉野の宮司 返信する

千早赤坂村の楠木正成の処に、恩師のお墓がありまして、此処があの有名なと!!いつも右の横を眺めながらお墓参りをさせて頂いていますですね。左にはPLの塔もありますね。もうすぐ20年近くなりますね!行過ぎれば奈良県に入る手前ですがね!

2009/1/24(土) 午後 5:01 [ - ] 返信する

アバター

にんじん畑さん、千早赤阪村に恩師の墓があるんですか一山越せば吉野です後醍醐天皇の行宮です。墓参りには是非お立ち寄りくださいね

2009/1/24(土) 午後 9:46 吉野の宮司 返信する

アバター

鶴ヶ魂兇気麁鑢收祇公は最高の武将ですね

2013/3/13(水) 午後 6:04 吉野の宮司 返信する

顔アイコン

こんばんは。

>「今度の戦いは必ず敗北するでしょう。国中の人々が君にそむいているのですから…」

非常に厳しい言葉の中に、後醍醐天皇の行く末を案じる思いが伝わってきますね。後醍醐天皇が彼の最後の諫言にどのような反応を示したのでしょうか、とても興味があります。

2013/4/1(月) 午後 11:10 [ ショボンヌ ] 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(1)


.


みんなの更新記事