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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
上東門院
・・・・御もてあそび物 おほき
中に わきて桜を このませ給て 御庭におほく うへられたり 此とき
ならの都 東閻堂のまへの 八重桜は あめがしたの名木なるよし
聞え有けれは 興福寺の別當に おほせつかはされて 御みづからの庭
に うへさせ給ふべきよし しきりに御使有 別當も此仰 おもく覚
ければ いなび申事も 成がたくて 既に近日 根をほりおこし奉
るべきなど 寺ゆへふれながして ひしめく程に 僧徒ども 此よし
を きゝつけ 大きにいきどをり のゝしりて云 抑(そもそも)此花は我寺の
宝として 古今㐧一の名木たり しかるを今女院の 御仰おもければ
とて いかでまいらせ侍べき たとへ御にくしみをかうふり 寺門一とう
の めつぼうに及ぶといふ共 是定れる時節也 そのうへ へつたうのうけ合
おとなしからず 先(まず)此人を おいはらふて後 事のせんぎを決すべ
しと いふほとに 夥(おびただし)く さうどうしけり 女院此むねをきこし
めされ 衆徒の申所 ことはりといひ 又やさしきに いひし事は 我誤
なり むかしより なら法師は 物ごとにあらくいやしきもの共也と 聞
及しに さはなくして 花になさけの深かりけるよ と かへつてかんじ
おほしめすうへは その事 はやくやみにけり 法師共 此しだいをつたへ
承り情けある 御はからいと かたじけなくぞ覚えける 其後 女院より 此
桜の領とて 伊賀の国 余墅庄をつけ給ひ 年ごとの花ざかりには
かきゆいまはして 七日が間 宿直(とのい)人をつけて まもらせ給ひけり
それよりしてこそ よのゝ庄をば 花垣の庄とは あらためられけり・・・・
東閻堂=東圓(円)堂
なら法師=奈良の東大寺・興福寺などにいた法師。長巻といわれる長い太刀を持つ。
中世、興福寺の大衆(だいしゅ)が有名。奈良大衆。
かきゆいまはして=垣根を結い回して
花垣の庄=三重県上野市予野村、近江国神崎郡楞厳寺の項に
「此地者為八重桜料、自上東門院被寄附処也、当処、伊賀花垣二箇所也」とある。
上東門院と八重桜の話:
この話の出典は「沙石集」からです。ネット上でもたくさんこの記事が有りますが、
「沙石集」から取られた記事であると、紹介されているだけです。
直接の引用ではなく要約です。また「沙石集の何巻の何の項目」からとは、書かれていません。
みんなコピペの記事みたいです。引用はちゃんと原文に当たるべき。
本文は漢字・片仮名交じりですが、読みやすく平仮名に訂正しました。
奈良の都の八重の桜と聞ゆる、当時も東圓堂の前にあり。当初、(時)の后上東門院、興福寺の別当に仰て、彼(か)の桜をめされければ、掘りて車に入てまいらけるを、大衆の中に見あひて、事の子細を問へば、しか/\と答へけるを、「名を上たる桜を、左右無くまいらせらるゝ別当、返々不当なり。僻事なり。且は色(=人情味)もなし。后の仰なればとて、是程の名木を争(いかで)か進(まゐらす)可き。とまめよ」とて、やがて貝(=ホラ貝)ふき、大衆催して押とめ、別当をも拂べしなんどまでのゝしりて、「此事によりて、いかなる重科にもをこなわれれば、我身張本(=頭目・代表)に出づべし」とぞ云ける。此事女院聞せ給ひて、「奈良法師は心なきものと思たれば、わりなき大衆なり。実に色ふかし」とて、「さらば我桜と名づけん」とて、伊賀國餘野と云庄をよせて、花がきの庄と名づけて、かきをせさせられ、花のさかり七日、宿直を置て是を守らせらる。今に彼庄寺領たり。昔も斯(かか)るやさしき事はありけるにこそ。
「沙石集・巻第九・(4)芳心ある人の事」より
参考:芭蕉の句
一里(ひとさと)は みな花守の 子孫かや
伊勢大輔は、上東門院様にお仕えしていました。
奈良の僧の献上物・八重桜を受け取る役を、
紫式部が新参の伊勢大輔に譲られ、
上東門院様の父・藤原道長が和哥も奉るように命じた時、
あの有名な、
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふここのへに にほひぬるかな
と、詠いました。
この哥の背景には、上東門院様の
「桜好き」という背景があったんですね。
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2013年10月17日
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