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小倉百人一首 28番 源宗于(むねゆき)朝臣
まだまだ寒いですね。寒いので冬の哥です。
大和物語で以前、登場した「源宗于朝臣」です。
思い出してください。あの出世できずに、「みるめ(海草)」に和歌を添えて、
亭子の帝へ送った人ですよ。右京の大夫(かみ)とも呼ばれています。
まず百人一首から
源宗于朝臣
山さとは ふゆそさひしさ まさりける
人めも草も かれぬとおもへは
いつものように、出典と詞書を見てみましょう。
古今集 冬・315
冬の哥とてよめる
源宗于朝臣
山さとは 冬そさひしさ まさりける
人めも草も かれぬとおもへは
詞書は「冬の哥とてよめる」です。
意味は、(都と違って)山里は、冬はことさら寂しいものだ。
人の姿も草も枯れて(涸れて・離(か)れて)しまうと思うから。
寒々しい冬枯れの哥です。情景が目に浮かびますね。
「冬ぞ寂しさまさりける」は、「ぞ」で強調して、
冬は一段と寂しい。
「人め」は、人目ですが、1 他人の目、2 人の往来。ここでは2の「人の往来・人の姿」
「かれぬ」は、枯れて(涸れて・離(か)れて)と、掛かっています。
もし、掛詞の部分を漢字で書いてしまうと、意味が一つになってしまう。
でも仮名のイメージで、色々に読めるんですね。
仮名は、素晴らしい表現力を持っています。
宗于(むねゆき)さん、大和物語でも書きましたが、
出世できないで、悶々としているんですね。
まさに冬の木枯らしの吹く情景が、ピッタリのお人です。
でも、三十六歌仙の一人。
きっと、西行法師などへも、影響が大だと思ってます。
寂しさは、人を詩人にするなり〜
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小倉百人一首
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小倉百人一首 19番 伊勢
本朝美人鑑で、「伊勢」を扱いました。
そこには一人の男性に、最後まで心変わりをしない美人と有りましたね。
あくまでも本朝美人鑑の「伊勢」の人物像は、創作でした。
実際は、恋多き女性でした。
藤原仲平・時平兄弟や平貞文、宇多天皇、敦慶親王と色々有ったそうです。
宇多天皇に愛せられ「桂宮?・皇子」を生み、伊勢御息所(みやすどころ)となる。
皇子は、五歳で亡くなり、心を打つ哀傷哥を作った。
敦慶親王との間に、娘「中務(なかつかさ)」がいます。
百人一首の哥も、本朝美人鑑の「伊勢」で登場しました。
伊勢
難波かた
みしかき
あしの
ふしの間も
あはてこのよを
すくし
てよ
とや
出典は、新古今和歌集 恋一 1049
題しらす 伊勢
難波かた みしかき芦の ふしのまも
あはて此世を 過してよとや
意味としては:
難波潟に生えている蘆の節の間ほどの短い間でも、
恋しい貴男に逢わないで過ごして
此世を果てろと言うのですか、あんまりです。
逢いたい・・・逢いたい・・・。
難波潟=摂津の今の大阪附近の海辺で蘆の多く生えてゐる名所。
短き蘆の節の間=蘆の節と節との間の短い事、
「間」は、「長さのあいだ」と「時間」に掛かる。
逢はで=逢はないでの意、空しくの意が含む。
この世=「この世」に「節・よ」と読むから掛けた、
「世」は、「人生」と「男女の仲」。
すぐしてよとや=過ごしてしまえとおっしゃるのですか。
宇多天皇との間に、皇子が生まれましたが、
5歳で夭折し、深い悲しみの哀傷哥に作りました。拾遺和歌集 1307
うみたてまつりたりける みこのなくなりて 又
のとし ほとゝきすを 聞て
いせ
死出の山 こえてきつらん 郭公(ほととぎす)
恋しき人の うへかたらなん
死出の山を越えてやって来たのだろうか。ホトトギスよ。
恋しい我が子の 身の上を語ってほしい。
母親としての悲しみが、伝わります。
5歳と言えば、可愛い盛りの御子でした。
子が亡くなり1年後、ホトトギスの声が聞こえます。
もしあの世があるのなら、
「死出の田長」と呼ばれるホトトギスよ、
恋しいあの子の消息を教えてください。
あの世で、幸せに暮らしているのでしょうか?
ホトトギスの異名「死出の田長」伊勢物語43段
伊勢の御は、美人でとても情熱的に恋をしました。
そして人の親として、喜び・悲しみも味わい、
素晴らしい哥を作り続けました。
なんと勅撰和歌集に176首が入っているのです。
女性歌人として最多。スゴイですね。
三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
伊勢の御は、美人で才女なり〜。(コロ助)
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小倉百人一首 10番 蝉丸
去年12月、三条右大臣をやったとき、
「はぐれ雲」さんが「逢坂山といえば蝉丸ですね〜」と、
言っていて、年を越してしまった。
それで、今回は蝉丸です。まず百人一首から、
蝉丸
これやこの 行くもかへるも 別れては
しるもしらぬも あふさかの関
いつものように出典と詞書を見てゆきましょう。
後撰和歌集からです。1089
相坂の関に 庵室をつくりてすみ侍けるに 行
かふ人をみて 蝉丸
これやこの 行くもかへるも 別れつゝ
しるもしらぬも あふさかの関
哥の文字の違い、
百人一首は「別れては」、
後撰集は「別れつゝ」と違ってますね。
歌意は、
あの東国へ行く人も、また京へ帰る人も、ここで別れて行くし、
又顔を見知った人も、見知らぬ人もここで行き逢うと言う、
これが逢坂の関所だな〜。
さて詞書を見ると、
「相坂の関に 庵室をつくりてすみ侍けるに行かふ人をみて」とある。
人々が行き交うのを見てるんだけど、蝉丸さん、盲目という説があるんだ。
今昔物語(巻24) 盲人が琵琶語りとなる初め-蝉丸
・・逢坂の関に一人の盲、庵を作りて住みけり。名をば蝉丸とぞ云ひける。これは敦実と申しける式部卿の宮の雑色にてなむありける。・・蝉丸賤しき者なりとも、年来宮の弾き給ひける琵琶を聞き、かく道を極めたる上手にてありけるなり。それが盲目になりければ、逢坂にはゐたりなりけり。それより後、盲琵琶は世に始るなりとなむ語り伝へたるとぞ。
醍醐天皇の皇子、兵部卿の宮に仕えた雑色の蝉丸。雑色(ぞうしき)とは、貴族の家などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者のこと。主君の宮様の弾く琵琶を聞き、とうとう琵琶の名手となりました。それから盲目となってしまい、逢坂に庵室を作り琵琶を弾きながら、行き来する人を観察したと言うことです。目は見えなくても、様子を聞いて「見た」と言うことでしょう。関所で、人々の泣き別れ、うれしの再会の様子を聞いたことでしょう。
そして琵琶法師の初めとなったとあります。
以後「琵琶語り」は、盲人の主要な職業となっていきます。
蝉丸は、そうした職業の人や芸能関係の神様になりました。
滋賀県大津市にある関蝉丸神社。
上社と下社、分社の蝉丸神社と3社を併せて蝉丸神社とも言われてます。
ここを訪れた鴨長明は、「無名抄」にこのように書いています。
無名抄・関明神
良峯宗貞・良少将は、僧正遍昭のこと。
遍昭さんも、深草の帝・仁明天皇の使いとして
和琴を習いに来たと有りますね。
鴨長明は、この神社で蝉丸を思い浮かべてしみじみしたんだ。
蝉丸のこの哥は、会者定離(えしゃじょうり)、
会う者は必ず離れる定めにあるという、
人生の無常を哥にしたものでもある秀歌です。
蝉丸は、和歌と音楽の大明神なり〜。(コロ助)
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小倉百人一首 44番 中納言朝忠
前回は、三条右大臣でしたね。今回は息子の中納言 藤原 朝忠です。
まず百人一首から見てみましょう。
中納言朝忠
あふことの
たえてし
なくは
中/\に
人をも
身をも
うらみ
さらまし
あの人と恋人として逢い見ることが無かったら、なまじあの方を恨んだり、
我が身を嘆いたりすることは無かったのになぁ〜。
「あふこと」は、男女が相見ること。「絶えてしなくば」は、全然・全く無いならば。
「中/\に」は、なまじっか。「恨み」は、相手には「恨み」、自分には「嘆き」。
ここで字切りに注意。受け売りですが、
「たえてし」「なくば」で字切りされてます。「しなくば」では有りません。
この哥の出典は、「拾遺集・恋一」です。見てみましょう。
「天暦御ときうた合に」とあります。
以前、「41番 壬生忠見」の所で説明して有りますから、
見てくださいね。「天徳内裏歌合せ」のこと。
この歌合わせに、朝忠さん活躍しましたね。
20番勝負のうち、7回も出場します。
まさに「左」組みのエースです。
成績は、6勝1敗。
歌合のあと管弦の遊びでは、旨いお酒が飲めたでしょうね。
応援の「姫」や「女房たち」からも、もてたでしょう。
朝忠は19番「恋」で、この哥でもって、
藤原元真と競って「勝ち」ました。凄いですね。
さて、ここからは「yoshyの百人一首」、ちと違うところ。
じつは、朝忠さん、デブだったんですよ!
出所は「宇治拾遺物語・巻七・三条中納言 水飯の事」です。
頭が良くて、唐土(もろこし)のこと、この世のことは、皆知っている、
才 賢い人でした。笙の笛もとても上手、丈は高く大いに太っていました。
ある時。医者に相談してダイエット。
痩せるコツを教わりました。
医者は、冬は湯漬け・夏は水漬けを食べるようにと。でも、痩せません。
医者は不思議に思って、朝忠さんの食事をするところを見てびっくり。
水飯を食べてますが、おかずも含めて、凄い量を食べていたので、
これは無理だ!と、医者は逃げ出したそうです。
朝忠さんは、いよいよ「お相撲さん」のようになっちゃいました。
ホントに「相撲」って書いてあるんだよ。
百人一首、お正月に良いですね。
宇治拾遺物語、面白いですよ。
古典に親しみましょう!
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小倉百人一首 二五番 三条右大臣・藤原定方
大和物語29段で、キリリッと秀歌で〆た藤原定方。
百人一首でもすばらしい哥を詠んでいます。
三條右大臣
名にしおはゝ あふさか山の さねかつら
人にしられて くるよしもかな
(名にしおはゞ 逢坂山の さねかづら
人にしられで くるよしもがな)
いつものように出典から。後撰和歌集からです。恋三
女(め)に つかはしける 三条右大臣
名にしおはゝ あふさか山の さねかつら
人にしられて くるよしもかな
まず恋の歌で、好きな女性に送った哥ですね。
名にしおはゞは、
その名の通りならばの意味です。
逢坂山は、山城と近江の境にある山で、
「逢ふ」と言う詞に掛かります。
ここには、京都防衛の関所がありました。
さねかづらは、実葛、別名「美男カズラ」。
「さね」は「小寝」で寝る事に掛かります。
くるよしもがなは、「来る」と「繰る」も掛けられています。「繰る」は蔦の縁語。蔦であの人を手繰り寄せる方法が有ったらなぁ〜(願望です)。
逢坂山の「逢う」と言う字が、その名の通りであるなら、
そこに生えているサネカズラを手にたぐるように、
人に知られないで、忍んで来る方法がないものだろうか。
一緒に逢って寝たいものだ。
技巧も優れてますが、好きな人への道のり。色々な関守がいて、
中々近づけない焦燥感って、皆さんも恋した時に経験したでしょう?
二人きりになりたいのに、邪魔する人や、空気読めない人とか。
昔のお姫様、深窓に籠もっていましたし、他の使用人もいたでしょうから、
大変だったでしょうね。逢えない苦しさゆえ、恋の哥を赤い実が付いた
「サネカズラ」の蔓に、くくり付けて送ったのでしょう。
三条右大臣・藤原定方は、醍醐天皇の外叔父です。醍醐天皇の即位に伴いグ〜ンと昇進しました。三条に邸宅があったことから三条右大臣(三条の右のおとゞ)と呼ばれました。中々の風流人で、古今集にも十数首はいっていますね。和歌・管絃をよくして、紀貫之、凡河内躬恒の後援者でもありました。息子に藤原朝忠がいます(大和物語 上 6)。
藤原定方のお墓は、京都市山科に有るそうですが、
お墓は「亀」に乗っているそうですよ。
ひ孫に、紫式部がいます。う〜〜ん、文系の凄い家系です。
次回は、息子の藤原朝忠かな?
追加:「亀」ではなく「贔屓・ひいき・びし」という伝説上の生物でした。
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