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小倉百人一首 21番 素性法師(そせい)
前回は、「有明の月」なんか大嫌いだ!と言う哥でしたね。
今回も「有明の月」を詠った哥ですよ。
素性法師
今こむと いひしはかりに 長月の
ありあけの月を まちいてつる哉
いきなりですが「ネカマ」って言葉、ご存知ですよね?
ネカマは、インターネット上で、
女性のふりをする男性のことなんです。
なりすまして、好き心の男性を騙す人ですが、
和歌の世界ではこの哥のように、
男性なのに女性の心を詠う人もいるんですよ!
今すぐ来ようと言ったのに、
それを信じて、この長月(九月)の末の長〜い夜を、
今来るか/\と待ち侘びましたが、
来ずに待ってもいない「有明の月」に、
出会ってしまいました。
素性法師、女性の気持ちになって詠ってるんですね。
文字通り「長月」の夜は、長いんです。
ず〜〜と、待っていてとうとう夜が明けて、
白々しい「有明の月」に出会っちゃったんです。
声を出して、「♪待ち出でつるかな〜〜」
なんとも、侘びしい情緒たっぷりの余韻があります。
男性が通ってくる通い婚の時代。押し掛けていくことは出来ません。
待つ身の辛さ、待つ身のいじらしさ、
恋をした人は皆、共感できますね。
秋は飽き。男心と秋の空、だんだんと白く消えていく「月」・・・。
さ、寝よう!
素性法師
桓武天皇の曾孫、遍照の子、良岑玄利(はるとし)、三十六歌仙の一人。
素性法師は、雲林院に縁があるよ。
何とて素性法師は、
見てのみや 人に語らん 桜花 手毎に折りて 家土産(いえづと)にせん
とは詠みけるぞ。(能・雲林院から)
あ〜ぁ、お土産にしちゃったみたいだ!
見るだけにしておけば良かったのに・・・。
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小倉百人一首
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小倉百人一首 30番 壬生忠岑(みぶ の ただみね)
前回は壬生忠見、今回はそのお父ちゃん、壬生忠岑です。
身分は低い武官。哥で出世し名を残した和哥の天才です。
三十六歌仙の一人。
当ブログの大和物語125段に、登場予定がありますよ。
まず哥を見ていきましょう。古今集
みふのたゝみね
晨明(ありあけ)の つれなくみえし 別より
暁斗(ばかり) うきものはなし
夜が明けるとき、有明の月が白々と空に残っているように、あの女も白々とした態度で、すげなくされて帰ったが、悲しかった別れが思い出されて、暁ほど嫌なものはないようになってしまった。
ここで実は悩んだ。何通りかの意味があるみたいだ。
1. まったく逢えず、追い返された哥
2. 逢えたけど、すげなくされて帰ってきた哥
その外、文法上の意味の取り方も何通りかあるみたいです。
「つれなくみえし」は、「連れが無い」と「つれない(薄情)」と言うことで、
逢えずに追い返されたのかな。でも、逢ってもいないのに「別れ」は、可笑しいんだけどね??「有り」と「無く」の対比。
古今集の配列も参考になるみたいです。
忠岑の哥の前の哥は、
あはすして こよひ明なは 春の日の
なかくや人を つらしとおもはん
忠岑の哥の後の哥は、
逢事の なきさにしよる 浪なれは
恨みてのみそ 立帰りける
どちらも逢えていない哥に、忠岑の哥は挟まれている。
解説書には「古今六帖」には「来れども逢わず」という題のもとに置かれているとありましたが、私が見たところでは、第一帖 歳時部・天「ありあけ」の所でした。「来れども逢わず」なんて分類、ありゃしないよ。
ウイキによれば「藤原定家、藤原家隆から『古今和歌集』の和歌の中でも秀逸」と有ります。最後に「拾遺和歌集」の巻頭歌(凄いことなんです。大抵は御製が来るんですが)に選ばれた作品、
春 平さたふんか家のうた合によみ侍りける
壬生忠峯
春たつと いふ許にや みよしのゝ
山も霞みて けさはみゆらん
しかし、男は弱いもんです。
恋の傷手に月を見るたび、胸が痛むんだから。
世の女性たち、男の必死さに真心を感じたら愛のご褒美を!
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小倉百人一首 41番 壬生忠見(みぶ の ただみ)
前回の平兼盛、「忍ぶれど 色に出にけり・・・」でしたが、
天徳内裏歌合の時に、最後の20番「恋」のお題で「左」の組の哥が、
今回の壬生忠見の哥です。
天徳四年三月内裏歌合 東京国立博物館 重要文化財
廿番 左 忠見
こひすてふ わかなはまたき たちに
けり 人しれすこそ 思そめしか
右 勝 兼盛
しのふれと いろにいてにけり わかこひは
ものやおもふと 人のとふまて
私が恋をしているという噂の浮き名が、早くも立ってしまった。
私は人に知られないように、心の中で恋し初めたのであったのに・・・。
この哥は、「歌合せ」対決で兼盛の哥に負けてしまったけれど、
判者の左大臣・藤原実頼は、両歌の優劣を決しかねていました。
決まるまで講師(こうじ)は、哥を詠み上げ続けています。
副判者の大納言 源高明は、平伏して知らん顔。
その時、村上天皇様は、「しのぶれど・・・」と、
兼盛の哥を口ずさんでいるのを知り、平兼盛の勝ちになりました。
しかし、百人一首に撰ばれているように、
忠見の哥も大変素晴らしいモノでした。
もう少し天徳内裏歌合せの構成を見ていきましょう。
お題は、1.霞 2.鶯 3.鶯 4.柳 5.桜 6.桜 7.桜 8.款冬 9.藤 10.暮春
11. 首夏 12.卯花 13.郭公 14.郭公 15.夏草 16.17.18.19.20.恋
左のチームと右のチームとで哥を出し、
「勝ち・負け・持(引き分け)」を決めます。
出場者構成は、
左-藤原朝忠、源順、坂上望城、大中臣能宣、少弐命婦、壬生忠見、本院侍従 計7人
右-平兼盛、清原元輔、中務、藤原博古、藤原元真 計5人
款冬=かんとう、ヤマブキ。首夏=夏の初め。初夏。
忠見と兼盛の勝負、20番最後の「大取り」だったんです。力が入りますね。
平兼盛は、兼盛王と名乗っていた元皇族。
壬生忠見は、昇殿も許されない正六位上の貧乏人。
哥で出世の目論んでいます。ますます力が入りますね。
この天徳内裏歌合せでは、忠見のいる左チームが、
11勝4敗5引き分けで、勝ちました。
平兼盛のいる右チームは、当然4勝11敗5引き分けなんですが、
この4勝は全部、平兼盛が勝ち取りました。
壬生忠見は、4回登場して、1勝2敗1引き分けでした。
忠見と兼盛の直接対決は、1勝2敗で忠見の負け。
「大取り」での負け、とても残念だったでしょう。
それで後世、こんな説話が書かれます。
壬生忠見は、口惜しくて「悲嘆のうちに悶死」した。
噂の出所は・・・
沙石集 巻第五末の四 歌故に命を失ふ事
天徳の歌合の時、兼盛・忠見、共に御随人にて、左右に番ひてけり。初恋といふ題を給はりて、忠見、「名歌よみ出でたり」と思ひて、「兼盛もいかでこれ程の歌よむべき」と思ひける。
恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
さて、既に御前にて講じて、判ぜられけるに、兼盛が歌に、
つつめども 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと人の 問ふまで
つつめども(忍ぶれど)
共に名歌なりければ、判者、判じかねて、暫く天気をうかがひけるに、御門、忠見が歌をば、両三辺御詠ありけり。兼盛が歌をば多辺御詠ありける時、「天気左にあり」とて、兼盛勝ちにけり。忠見、心憂く覚えて胸ふさがりて、それより不食の病付きて、憑み無き由聞こえて、兼盛訪ひければ、「別の病にあらず。御歌合の時、名歌よみ出だして覚え侍りしに、殿の『ものや思ふと人の問ふまで』に、『あはや』と思ひて、浅猿く覚えしより、胸塞がりて、かく重り侍り」とて、遂に身まかりにけり。執心こそよしなけれども、道を執する習ひ、げにも覚えて、哀れなり。共に名歌にて、『拾遺』に入れられて侍るにや。
天気=天皇様のご意向。不食の病=食事が咽を通らない病。身まかりにけり=死んでしまった。
この説話は、大袈裟のようです。
歳を取った頃の哥が残っていると言われています。
「沙石集」の引用もそうだけど、
ネット上でちゃんと裏を取った記事が無い。
コピペのような同じ解説ばかり。
やはり「調べるのが私の信条」と言うことで、
「忠見集」33番。この辺りの哥がそうなのかな??
春霞 立つ(辰)といふ日を 迎へつつ 年の主と 我やなりなむ
忠見さん、辰年生まれなんですね。
霞が「立つ・辰年」に掛かっていますから、
辰年の主になっているとすると、36・48・60歳あたりです。
悶死したのではなく、ちゃんと歳を取って、
春のうららかさを楽しんで、天寿を全うしたようです。
この哥の当時、48歳ぐらいの年が妥当かな??
ついでに天徳内裏歌合せの時の、平兼盛との直接対決、一挙公開。
12.卯花
左:壬生忠見
みちとほみ 人もかよはぬ 奥山に さけるうのはな たれとをらまし
右:平兼盛(勝)
あらしのみ さむきみやまの うのはなは きえせぬ雪と あやまたれつゝ
15:夏草
左:壬生忠見(勝)
夏ぐさの なかをつゆけみ かきわけて かる人なしに しげる野辺かな
右:平兼盛
なつふかく なりぞしにける おはらぎの もりのしたくさ なべて人かる
20.恋
左:壬生忠見
こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか
右:平兼盛(勝)
しのぶれど いろに出でにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで
後世に残る名勝負。負けても百人一首に残る「名哥」。
まことしやかな「説話」が「悲嘆のうちに悶死」と、話題が尽きません。
yoshyも、力が入りました。
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小倉百人一首 40番 平 兼盛
前回は「赤染衛門」。実の父と育ての父がいたと書きましたね。
そこで今回取り上げるのは、実の父の「平兼盛」です。
有名な哥ですよ。
しのふれと 色に出けり わか恋は
物やおもふと 人のとふまて
じっと忍んでいたんだけど、
とうとう顔や態度(色)に出てしまったよ。
私の恋は、
「恋患いしてるんですか?」と、
人に尋ねられるほどでした。
出典は、拾遺和歌集集
恋一
天暦の御とき哥合
平兼盛
忍ふれと 色に出にけり 我こひは
物やおもふと 人のとふまて
「天暦の御とき哥合」は「天徳内裏歌合」。
天徳4年春に、村上天皇によって行われた歌合。
歌合わせの手本になるほどの、
優美で雅な歌合わせであったそうな。
拾遺和歌集集で、薄い色にしてしまったけど
「壬生忠見」の
恋すてふ 我名はまたき 立にけり
人しれす(社)こそ 思ひそめしか
に対して、「勝ち」を収めました。
平兼盛に負けた壬生忠見は、
口惜しくて死んじゃったと、
言われてますが、嘘ですよ。
でも良い勝負で、判者はどちらも素晴らしく、
優劣をつけられず困っていましたが、
村上天皇が兼盛の哥を口ずさんでいたので勝ちにしたそうです。
平兼盛は、当ブログの「大和物語」にも、
登場しますから楽しみにしていてください。
次回の百人一首は当然、「壬生忠見」になりますよ。
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小倉百人一首 59番 赤染衛門
清原元輔の歌は、紫式部の弟・藤原惟規のために作った
「代作の歌」であるとお話しましたよね。
今回も「代作の歌」なんですよ。
赤染衛門は、誰のために「代作の歌」を作ったのでしょう?
まずは出典から、後拾遺集
なかの関白少将に侍りける時 はらからなる人
に ものいひわたり侍けり たのめてこさりける
つとめて 女にかはりてよめる
赤染衛門
やすらはて ねなましものを さ夜ふけて かたふくまての 月を
みし哉
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて 傾くまでの 月を見しかな
赤染衛門の姉妹(はらからなる人)のために作った(代わりて)とあります。近衛少将は、きっと行くよと頼んでいたのに、いらっしゃらなかったんですね。それで哥で相手をなじってるんですよ。近衛少将は、藤原道隆と言います。羽目を外しすぎる大酒飲みで、後に関白となります(大鏡・御酒のみだれさせ給ひにしなり)。きっと飲み過ぎて女性の元へ行けなかったんでしょう(^_^;)。
哥の意味は、グズグズしないで(やすらはで)、寝てしまえば良かったわ。夜が更けて月が沈む(明け方)まで見ることになってしまったわ。(近衛少将様はとうとう来なかった)
さて赤染衛門は、当ブログの「女郎花物語」に何度も登場しているので、お馴染みですが、赤染衛門の名前は、赤染時用の娘だから付いた名前です。河内を中心に赤染部(紅藍染に従事した品部(ともべ))をつかさどる家系でした。でも、実の父は「平兼盛」と言われています。兼盛の妻が赤染時用と再婚したときに、既に妊娠していたそうです。ウィキには、娘の親権を巡って争ったとあります。文章博士・大江匡衡と結婚、仲の良い夫婦だったみたいですよ。夫の大江匡衡も名高い学者。内助の功があったそうです。夫の死後は尼となりました。
赤染衛門のことを、また紫式部はこのように書いています。
誉め言葉でしょうか?辛辣な批判でしょうか?
丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。
丹波守の北の方を、中宮様や殿などのあたりでは、匡衡衛門(赤染衛門のあだ名)と呼んでいます。特に優れた歌詠みではないが、本当に風格があって、歌詠みとしてどのような場面にも歌を詠み散らすことはないが、知られている歌はすべてちょっとした折節のことでも、それこそこちらが恥じ入るほどの詠みぶりです。ややもすれば、上句と下句とがばらばらなほど離れた腰折れ歌を詠み出して、また何ともいえぬ由緒ありげなことをして、自分一人悦に入っている人は、憎らしくも気の毒にも思われることです。
やっぱり辛口批評ですね。http://www.yaplakal.com/html/emoticons/rofl.gifきゃははは〜紫式部最強!
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