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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
上東門院
翻刻と解説は:
本朝美人鑑2-3-上東門院1/3
本朝美人鑑2-3-上東門院2/3
本朝美人鑑2-3-上東門院3/3
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本朝美人鑑
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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
上東門院
・・・又一条院 ほうぎよの比 後一条院 いまだ おさなくわたらせ給ひしが
何の御心も おはしまさで あそびありかせ給ふを 御らんじて
みるからに 露ぞこぼるゝ おくれにし 心もしらぬ なでしこの花
と よませたまへば 上下おしなへて いとをしく思ひ奉り 其後
仏の道を このませ給ひて うとからず つとめさせ給ふに いろ/\の
ふしぎありしと いへり ありがたき御事なり
いまだ おさなく=3歳の時。父一条院が崩御したのは1011年、後一条院の誕生は1008年。
みるからに・・・=見るにつけ涙の露がこぼれます。
あとに残されたことを理解もできずに、撫子の花を手に取った幼な子よ。
出典:後拾遺569「みるからに→見るまゝに」
後拾遺和哥集 569
一条院うせ給ひてのち なてしこの花の侍ける
を 後一条院 おさなくおはしまして なに心も
しらて とらせ給ひけれは おほしいつることや あ
りけん
上東門院
見るまゝに 露そこほるゝ をくれにし 心もしらぬ なてしこの花
上東門院さま、息子の敦成親王・後一条天皇が幼くして即位し、父・藤原道長は摂政に就任。
道長の出家後、彰子は一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えました。
万寿3年(1026年)に、藤原彰子は出家し上東門院を称します。
在所の東北院は、父が建立した法成寺の東北側に、父亡き後の1030年に建てられた寺です。
「東北院」の名前の由来です。
現在、京都市左京区浄土寺真如町にある時宗の寺院だそうです。
この上東門院さまが住まわれた「東北院」のエピソードを紹介いたしましょう。
能・東北(とうぼく、古名・軒端の梅)より
これなる梅を見候へば。今を盛と見えて候。いかさま名のなき事は候ふまじ。
此辺の人に尋ねばやと思ひ候。
さては此梅は和泉式部と申し候ふぞや。
暫く眺めばやと思ひ候。
なう/\あれなる御僧。其梅を人に御尋ね候へば。何と教へ参らせて候ふぞ。
さん候人に尋ねて候へば。和泉式部とこそ教へ候ひつれ。
いやさやうには云ふべからず。梅の名は好文木。
又は鶯宿梅(おうしゅくばい)などとこそ申すべけれ。知らぬ人の申せばとて用ひ給ふべからず。
此寺いまだ上東門院の御時。和泉式部 此梅を植ゑおき。
軒端の梅と名づけつゝ。目がれせず眺め給ひしとなり。
かほどに妙なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。逆縁の御利益ともなるべきなり。
旅の僧が「東北院」といわれる所で、見事な「梅の木」を見つけます。
謂われを聞くと、門前の人から、この梅が「和泉式部」の名を持つと聞きます。
さらに眺めていると、女が現れ、この梅は「好文木(こうぶんぼく)」
または、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」という名で呼ばれるべきだと正します。
実はこの女は、和泉式部の霊でした。
さらに和泉式部の霊は、
げにや 色に染み。香にめでし昔を。
よしなや 今更に。思ひ出づれば 我ながら なつかしく。
恋しき涙を遠近人に。洩らさんも恥かし。
和泉式部の霊、霊になってもなお、「洩らさんも恥かし」と言わせた金春禅竹と世阿弥。
生前の恋の想い出を恥ずかしげに語る、あまりにも美しすぎる場面です。
「能・東北」の場面では、「東北院」の傍らに「和泉式部が臥所」があり、
式部が植えた梅、「軒端の梅」と名付け、常に眺めていたとしています。
「鶯宿梅」は、梅に鶯・ウグイス。花札の絵柄みたいです。
「ホ〜、ホケキョ。法・法華経」と、能を見る人たちを「悟り」の世界へと、
歌舞の菩薩と成った和泉式部の霊が導いていくようです。
上東門院さまから随分と脱線してしまいましたが、
梅・桜・撫子・菊など、日本人ならではの感性は、
上東門院、紫式部・和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔など、
本朝美人鑑の美人達から影響をたくさん受けてきましたね。
それにしても上東門院さまの、器の大きさにビックリです。
まことに美しい美人です。
はぐれ雲さん、Google地図の写真アップします。 ありがとう。
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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
上東門院
・・・・御もてあそび物 おほき
中に わきて桜を このませ給て 御庭におほく うへられたり 此とき
ならの都 東閻堂のまへの 八重桜は あめがしたの名木なるよし
聞え有けれは 興福寺の別當に おほせつかはされて 御みづからの庭
に うへさせ給ふべきよし しきりに御使有 別當も此仰 おもく覚
ければ いなび申事も 成がたくて 既に近日 根をほりおこし奉
るべきなど 寺ゆへふれながして ひしめく程に 僧徒ども 此よし
を きゝつけ 大きにいきどをり のゝしりて云 抑(そもそも)此花は我寺の
宝として 古今㐧一の名木たり しかるを今女院の 御仰おもければ
とて いかでまいらせ侍べき たとへ御にくしみをかうふり 寺門一とう
の めつぼうに及ぶといふ共 是定れる時節也 そのうへ へつたうのうけ合
おとなしからず 先(まず)此人を おいはらふて後 事のせんぎを決すべ
しと いふほとに 夥(おびただし)く さうどうしけり 女院此むねをきこし
めされ 衆徒の申所 ことはりといひ 又やさしきに いひし事は 我誤
なり むかしより なら法師は 物ごとにあらくいやしきもの共也と 聞
及しに さはなくして 花になさけの深かりけるよ と かへつてかんじ
おほしめすうへは その事 はやくやみにけり 法師共 此しだいをつたへ
承り情けある 御はからいと かたじけなくぞ覚えける 其後 女院より 此
桜の領とて 伊賀の国 余墅庄をつけ給ひ 年ごとの花ざかりには
かきゆいまはして 七日が間 宿直(とのい)人をつけて まもらせ給ひけり
それよりしてこそ よのゝ庄をば 花垣の庄とは あらためられけり・・・・
東閻堂=東圓(円)堂
なら法師=奈良の東大寺・興福寺などにいた法師。長巻といわれる長い太刀を持つ。
中世、興福寺の大衆(だいしゅ)が有名。奈良大衆。
かきゆいまはして=垣根を結い回して
花垣の庄=三重県上野市予野村、近江国神崎郡楞厳寺の項に
「此地者為八重桜料、自上東門院被寄附処也、当処、伊賀花垣二箇所也」とある。
上東門院と八重桜の話:
この話の出典は「沙石集」からです。ネット上でもたくさんこの記事が有りますが、
「沙石集」から取られた記事であると、紹介されているだけです。
直接の引用ではなく要約です。また「沙石集の何巻の何の項目」からとは、書かれていません。
みんなコピペの記事みたいです。引用はちゃんと原文に当たるべき。
本文は漢字・片仮名交じりですが、読みやすく平仮名に訂正しました。
奈良の都の八重の桜と聞ゆる、当時も東圓堂の前にあり。当初、(時)の后上東門院、興福寺の別当に仰て、彼(か)の桜をめされければ、掘りて車に入てまいらけるを、大衆の中に見あひて、事の子細を問へば、しか/\と答へけるを、「名を上たる桜を、左右無くまいらせらるゝ別当、返々不当なり。僻事なり。且は色(=人情味)もなし。后の仰なればとて、是程の名木を争(いかで)か進(まゐらす)可き。とまめよ」とて、やがて貝(=ホラ貝)ふき、大衆催して押とめ、別当をも拂べしなんどまでのゝしりて、「此事によりて、いかなる重科にもをこなわれれば、我身張本(=頭目・代表)に出づべし」とぞ云ける。此事女院聞せ給ひて、「奈良法師は心なきものと思たれば、わりなき大衆なり。実に色ふかし」とて、「さらば我桜と名づけん」とて、伊賀國餘野と云庄をよせて、花がきの庄と名づけて、かきをせさせられ、花のさかり七日、宿直を置て是を守らせらる。今に彼庄寺領たり。昔も斯(かか)るやさしき事はありけるにこそ。
「沙石集・巻第九・(4)芳心ある人の事」より
参考:芭蕉の句
一里(ひとさと)は みな花守の 子孫かや
伊勢大輔は、上東門院様にお仕えしていました。
奈良の僧の献上物・八重桜を受け取る役を、
紫式部が新参の伊勢大輔に譲られ、
上東門院様の父・藤原道長が和哥も奉るように命じた時、
あの有名な、
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふここのへに にほひぬるかな
と、詠いました。
この哥の背景には、上東門院様の
「桜好き」という背景があったんですね。
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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
上東門院
人皇六十六代 一条院の后 上東門院と申奉るは 御堂の関白
道長公の御むすめにて 本朝にならびなき美人なり ことに才智
すぐれて もろこしにも はぢ給はず 人をはぐゝみ 諸道のすたれ
たるを おこし 敷嶋の道を あふがせ給へば 万氏 たつとび奉る事
たぐひなし 此時 上道をこのみ給へば 下おのづから かしこくして
名人おほく世に出けり 中にも女哥仙のたぐひ 其数をしらず
凡(およ)そ我朝のうちに 名高き女をいふには かならず此御世をさす
とかや いともかしこき御事也 其上 我国の后に院号を かうふらせ
給ふ事 この女院より はじまらせ給けり・・・・
上東門院=藤原彰子、一条天皇の皇后、後一条天皇・後朱雀天皇の生母。
紫式部・和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などが仕えてサロンを形成した。
御堂の関白道長公=藤原道長、上東門院・藤原彰子の父。
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。
敷嶋の道=和歌の道、敷嶋は大和の異称、転じて日本の異称。
名人おほく世に出けり=上東門院のもとには、紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部らが出仕した。
このメンバー、すごすぎますね。まさに文化・文藝の守護者。歌仙のオンパレードです。
この女院より はじまらせ・・・=にょいん、三后・准母・女御・内親王などで、
朝廷から特に「院」または「門院」の称号を受けた女性。
平安時代、一条天皇のとき皇太后藤原詮子が出家の際に東三条院の院号を贈られたのに始まる。
上東門院さまは、女院の初めではなく2番目ですから、筆者は思い違いをしています。
上東門院さまが居なかったら、
紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部らが、
世に出ただろうか?
源氏物語の作者、紫式部。
和泉式部日記の作者、和泉式部。
栄花物語の作者、赤染衛門。
「いにしへの奈良の都の八重桜」で有名な、伊勢大輔。
全部、よだれモノの美人です。
これも上東門院さまの徳の賜物。
日本文化の擁護者です。
次回は「上東門院さまと桜」の話です。
乞うご期待。
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絵入 本 朝 美 人 鑑
本朝美人鑑 巻第二
赤 染 衛 門
翻刻と解説は: 本朝美人鑑2-2-1/2赤染衛門
本朝美人鑑2-2-2/2赤染衛門
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