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プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ リヒテルが愛した執念のピアノ

 昭和44年。1台の日本製ピアノがヨーロッパ中の話題をさらった。
 美しい音色に、素晴らしい鍵盤のタッチ。18世紀イタリアで生まれ、「楽器の王様」と称されるピアノ。
 その300年のピアノの歴史に名を刻んだ、日本の職人たちの執念のドラマを描く。
 戦争の傷が未だ癒えない昭和25年。一台のコンサート用グランドピアノが、東京日比谷公会堂で発表された。 作り上げたのは、浜松の楽器メーカー、ヤマハ。聴衆の期待は高まったが、結果は、「タガのゆるんだ音」と酷評される。
 ピアノが誕生して以来、ピアノメーカーの雌雄を決する最高級のコンサートグランドピアノの分野は、欧米メーカーが圧倒的に優位に立っていた。「日本人にピアノが作れるはずがない」とまで言われていた。
 15年後の昭和40年、ピアノ作りは大きな転機を迎える。
 名ピアニスト・ミケランジェリとともに来日していた、イタリア人調律師・タローネが、「東洋の日本で、これほどまでにピアノ作りに情熱を燃やしているとは」と、ピアノ作りに協力することを約束。これを機に、「もう一度世界一のピアノを目指す」プロジェクトが発足する。
 途方もない挑戦に燃える男たち。木工担当の鈴木辰次(36歳)は、親方田中喜三郎からたたき込まれてきた木工職人の技で、20トンに達する弦の張力に耐える強度を持ち、美しく鳴り響くピアノのボディを組み上げていく。
 さらに調律担当の村上輝久(37歳)は昭和41年、「理想の音」を探求するため、ヨーロッパに渡り、腕を磨いていく。
 昭和44年1月。完成したピアノを世界に知らしめる機会を得た。場所はイタリア・パドヴァ。演奏するのは、天才ピアニスト・リヒテル。ヤマハの技術者たちが、固唾をのんで見守る中、リヒテルは静かにピアノを弾きはじめた…。
 その結果は。新たな伝説の始まりだった……。
 西洋音楽の伝統に挑戦した、日本の職人たちの熱き戦いのドラマを描く。

目次

一 スタンウェイを超えろ
二 世界一のピアノをめざして、プロジェクト結成!
三 天才リヒテルとの出会い、ヤマハ世界へ羽ばたく

抄録

一 スタインウェイを超えろ
 

楽器の王様・ピアノの開発に懸けた男たち
 

「楽器の王様」と呼ばれるピアノは一八世紀、イタリア・フィレンツェで誕生した。それまで主流を占めていたクラヴィコードと比べて打弦機構の違いから音が大きく、強弱もつけやすいために演奏家や作曲家から絶大な支持を集め、楽器の主役に躍り出た。ピアノはその後、一九世紀にかけて完成された楽器である。この時代は、モーツアルト、ベートーベン、シューマン、ショパン、リストなど天才的な音楽家を輩出した。彼らはピアノを愛し、多くの名曲を生み、ピアノの普及に大きく貢献した。
 ピアノは、幕末期を経て明治期になると、本格的に持ち込まれるようになった。国産化は明治二〇年代に始まり、明治三〇(一八九七)年に山葉寅楠が日本楽器製造を設立、三三年にアップライトピアノを、三五年にグランドピアノの製造・販売を開始した。その後、河合楽器研究所など、他メーカーも誕生した。そして、太平洋戦争末期には製造が中止される……。
 いまから三六年前、コンサート用のピアノづくりに日本の男たちが挑んだ。挑んだのは、静岡県浜松市を本拠地とする楽器メーカー・ヤマハの職人たち。世界最高峰の音を学ぶため、ヨーロッパに渡った調律師がいた。そして、一〇〇年に一人の天才ピアニスト・リヒテルとの息詰まる日々が始まった。
 いま、工業技術と木工技術の粋を集めたピアノ工場の職人たちと、世界一の音を求める男たちの、ロマンティックで熾烈な戦いの幕が開ける。
 

戦後初のグランドピアノの失敗
 

 終戦を告げる玉音放送からまもない昭和二〇(一九四五)年八月二〇日、静岡県浜松市は一面焼け野原だった。その瓦礫のなかで工場の再建に汗を流す人々がいた。その浜松に本拠を置くヤマハ(当時・日本楽器製造)の人々である。戦前から楽器づくりに挑み、戦地や疎開先からようやく戻ってきた職人たちと、戦後新たに入社した若者たちとが、工場の再建に着手していた。といっても本業の楽器製造ではなく、戦時中に使っていた軍需用木材を用いた簡易住宅の建設であった。当時の価格で一〇〇〇円、かっきり値段のこの家は「一〇〇〇円バラック」の愛称を得て大好評であった。
 勢いに乗ったヤマハはこの年の一〇月、本業の楽器生産を再開する。ハーモニカやシロホンなどの生産が始まり、オルガン、アコーディオンなど本格的な楽器の製造が少しずつスタートした。そして、ピアノの開発・生産にも乗り出した。いつか日本も、音楽が必要な暮らしを取り戻す日が来る。職人たちは、そう信じて懸命にピアノと向き合った。
 昭和二五(一九五〇)年になるとアップライトピアノの生産が軌道に乗りはじめ、戦後初のグランドピアノも誕生した。
 だが、当時はまだ戦後の物資不足から抜け出せないでいた。ピアノの輸入も昭和一二(一九三七)年からストップしたまま、国内のコンサートホールにあるスタインウェイやべヒシュタインなどの外国ブランドのピアノは、調律が思うに任せず、瀕死の状態であった。その意味では、ヤマハのコンサート用のグランドピアノ“コンサート・グランドFC”は、待望の国産商品であった。ただし、すべて国産とはいかず、ワイヤー、フェルト、クロスなどは輸入品が使われた。
 ヤマハは、さっそく日比谷公会堂に音楽関係者を集めて『山葉コンサート・グランドピアノ発表演奏会』を開くことになった。戦争中はなかなか聴けなかったピアノの音色に聴衆が詰めかけた。
 若手演奏家の園田高弘と大堀敦子が、バッハ、リスト、メンデルスゾーンなど、ピアノの性能を引き出す作品集を演奏した。
 この演奏会こそが、その後のヤマハのコンサート用グランドピアノづくりの、一つの大きな分岐点となる。この会場にいたある作曲家が後日の新聞で酷評を下した。
《黒光りのする姿はいかにもたのもしい。が、率直にいって戦前のヤマハとはだいぶ距離がある。フォルテは二三年も使い古したドイツ製のピアノかと思う。したがって味のない固い音がする。何かタガが緩んだような、ふんどしの緩んだような感じを与える低音がする》
 設計の若手リーダー・桑原融は、落ち込んだ。
「あそこの音が悪い。ここの音も悪い。悪いところばかり目について、曲をろくに聴けないという状態がずっと続くわけですね。だから、酷評されても、そうかな、しょうがないなと思いました」


名器・スタインウェイに負けるな


 この指摘に怒ったのは社長になったばかりの川上源一である。翌月の同じ新聞に《ふんどしが緩んだ低音とは、ヤマハピアノに対する最大の侮辱である。いかなる事実に基づいてこのような表現がなされたのか疑問を持つ》と感情をあらわにした文章で反論した。緩んだふんどしという表現はともかく、他の審査員も言葉を選びながら「戦前のピアノと比べてたりない部分が多い」と評していたから、この指摘は的はずれではなかったようだ。
 酷評されたヤマハ側にも同情する余地がある、当時はまだ経済の安定にはほど遠く、食料にもこと欠く混乱期をやっと抜け出したばかり。鋳物鋳造などによる工業製品と、木工製品の粋を集めたといわれるピアノ製造にとって、周囲の条件は不利であった。川上の反論にしても「資材不足を承知で国産のグランドピアノを復活させようとヤマハは必死で頑張ったのに、なぜ国産のピアノを育てようという言葉が出ないのか」という憤懣からであったはずだ。
 現在でもそうだが日本人には舶来信仰が根強い。ましてや「メイド・イン・ジャパン」が世界に進出する以前であることを思えば、「国産ピアノなんて」という固定観念が音楽家の間にあったとしてもおかしくはない。それらがない交ぜになった発言が、この作曲家の酷評の背景にある。この事件を機に川上は「われわれはスタインウェイに負けないピアノを一年以内に必ずつくる」と社内外で公言するようになった。
 当時、世界のピアノ市場はスタインウェイが支配していた。一九世紀半ばドイツからアメリカに渡ったスタインウェイ一家はイギリスのピアノをモデルに様々な改良を加えた新製品を発売した。堅牢な鋳物でつくった大きなフレームに特徴があり、それまでの木製フレームに比べて弦の響きを悪くする欠点を、低音弦を長く太くすることや張力を高めることで解決した。その結果、音量が飛躍的に伸び、音色も豊かになった。
 このピアノの概念を変える画期的な製品は発売と同時に大ヒットし、アメリカのピアノ市場の九割を占めるまでになり、やがて世界の市場でも大きな存在になってゆく。そして二〇世紀にはスタインウェイはピアノの代名詞に成長したのである。
 一方、ヤマハは戦後の経済成長とともに家庭や学校を中心にピアノの売り上げを伸ばし、ピアノ製造は会社の屋台骨を支える事業に成長した。生産台数も右肩上がりで伸び、昭和四〇年代に入ると世界一を標榜するまでになった。川上が公言したコンサート用のグランドピアノの新型もモデルチェンジを繰り返し、少しずつ進歩を遂げていたが、経済が豊かになると同時に外国産のピアノを自由に買えるようになり、国産最高峰のグランドピアノを求める声は小さくなってしまった。

リヒテルとヤマハ

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●リヒテルというのは、これまた、歴史に名を残す世紀の大ピアニストであり、楽器選びには大変神経質な人であるが、あるときから、ピアノ界の王者、スタインウェイやベーゼンドルファーよりも、ヤマハに注文して作ってもらったピアノを非常に気に入り、それ以来、ずっと、演奏会ではヤマハのピアノを弾いている。
 リヒテルは世界的大家なのだが、あるとき、「私のピアノを作ってくれている人たちにお礼がしたい」といって、わざわざ、浜松のヤマハのピアノ工場にやってきて、リサイタルを開いた。このエピソードはNHKの「プロジェクトX」でも採り上げていたから、知っている人もいるだろう。
 ヤマハのピアノ製作者たちは、大変驚いた。リヒテルといえば、世界中の超一流オーケストラと超一流のホールで演奏する人である。その本人が、要するに工場の中の会議室を会場として演奏してくれるというのである。しかも、リヒテルは、演奏に先立ち、作業服姿で集まったピアノ職人たちに向かってこういった。
 「私は、今日ほど、緊張する演奏会はありません。なぜなら、ここにいる人々は最もピアノを愛する人たちばかりなのですから」
 だめだ。この話を書くと、泣けてくる。


●ヤマハのピアノとの関係は有名だが、それは長いキャリアのほんの一時期に過ぎず主に晩年で使用されている(しかも晩年もちょくちょくスタインウェイなどヤマハ以外のメーカーのピアノを使用している)。彼がヤマハを選んだことを聞いて、グールドもまた晩年ヤマハを使用した。グールドの二度目のバッハ《ゴルトベルク変奏曲》やブラームス《4つのバラード》はヤマハのピアノによって録音された。


●ヤマハは大量生産によって普及品をつくる一方、コンサートグランドへの挑戦も続けていきました。その努力の結晶ともいうべきCFが発表されたのは昭和42年のことでした。巨匠リヒテルはヤマハを好み、こんな言葉を残しています。
「世界には素晴らしいピアノが5つある。スタインウエイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ペトロフ、およびヤマハである。このうちスタインウエイは誰が弾いても素晴らしい音が出るが、その音色のきらびやかさを、特に若い奏者の場合、頼りすぎる場合が多い。しかし音楽はそういうものではなく心の感度を示すものだから、自分としてはこれをうまく表せるものでないと気に入らない。ベーゼンドルファーはもっとも好きなもので心の表現のためには最高だが音量が不足で、ベヒシュタインは戦前のものは素晴らしかったが、戦後は品質が変わった。ペトロフはたとえばプラハの音楽堂にある楽器は申し分ないが、ほかのものには品質のムラが多い。ヤマハは、完全なものではないが、私の理想に近づいた音の力強さと表現力を共に備え持っている」

西洋音楽が日本に根付き始めたのは明治の頃。たかだか100年ちょっとぐらいの歴史しかない日本から、世界のトップピアニストにこのように評価してもらえる西洋楽器ができたというのは、同じ日本人として嬉しいですね。


●リヒテルが愛用したピアノはヤマハだった。彼は、「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」と語っている。(このコメントは本当にリヒテルの本心から生まれた発言なのかは今でも外資ピアノ関係者の間で意見が分かれている。)NHKのドキュメンタリー番組プロジェクトXでも以前取り上げられた。

このいきさつには彼の演奏メソッドにも関っている。彼のピアノ奏法に上部雑音が多く(全盛期の演奏では録音ですら確認できる)、それを軽減してくれる最良のメーカーがヤマハだったからと言われる。彼は通常の鍵盤から離れて打つロシアン・メソッドの他に、腕力で鍵盤を強く圧する独特の癖があり、この癖にヤマハのピアノが良く耐えたからとも言われている。実際、当時の演奏写真でも手首をかなり下げて圧力をかけている様が確認できる。


●素晴らしい技術者たちがいる。だから私はヤマハを選ぶ
スヴャトスラフ・リヒテル氏
「素晴らしい技術者たちがいることも、私がヤマハにひきつけられる理由です。彼らは調律の技量もさることながら、調律だけでなくすべての面で細やかに配慮してくれる。照明の具合、ピアノが水平かどうか、椅子の高さはどうか、すべてに責任を持ってやってくれるので、私は事前に何一つ心配せず本番直前に行くだけでいい。そうしたすべてを含めて信頼できるので、私はヤマハを弾いている。」


●ロシアの名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル誕生(1914〜1997) あらゆる芸術に深い造詣を持つ、巨人的スケールのピアニスト

 20世紀最後の「巨匠」ピアニストと呼ばれた、リヒテル。97年8月に突然の訃報が伝えられた時には、マスコミも「今世紀最大のピアニスト、死去」「ピアノの巨匠時代が終わった」等と大々的に取り上げ、その死を惜しみました。

 ウクライナで生まれたリヒテルは、両親もピアニストでしたが、独学でピアノを習得。オデッサ歌劇場で練習時の伴奏ピアニストとして働き、モスクワ音楽院で本格的に勉強し始めたのは22歳になってからでした。そのとき名教師・ネイガウスは「何も教えることがなかった」との言葉を残しています。

 そして、30代に入ってからの遅いデビューは、“鉄のカーテンの向こうに恐ろしいほどのピアニストがいる”とすぐ西側に伝わったほど強烈なものでした。特に、作曲家本人と親交のあったプロコフィエフの作品をはじめ、ラフマニノフ、ムソルグスキーなどのロシア音楽、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどのドイツ音楽から、リヒテルは哲学的なものと抒情的なものを導き出し、それを多彩な音色で描き分けて、圧倒的な感銘を与えたのです。

 リヒテルは、演劇、映画、絵画、文学などにも深い造詣を持っており、特に絵画の腕前は、演奏旅行の途中で印象に残った風景を、後で寸分の狂いもなくキャンバスに再現できるほど、と言われています。彼のピアノを聴いていると、時として目に見えるように鮮やかなイメージが浮かび上がるのは、彼の「確かな目」のなせる技かも知れません。

 そんなリヒテルの愛用したピアノは、ヤマハでした。1969年のマントン音楽祭での出会い以来、数々の名演奏、名録音を残しています。彼は、「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」とヤマハを愛する理由を語り、その技術陣にも全幅の信頼を寄せていました。

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素浪人月影兵庫

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素浪人月影兵庫
よく観ていました。
月影兵庫、焼津の半次のコンビが面白かった。


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これほどおもしろかった時代劇は他にはない。近衛十四郎主演、焼津の半次役に品川隆二。’65年の作品である。

  ♪ 青い風が吹いている 白い雲が呼んでいる 噂訪ねてきたまちは ♪
  ♪ 真っ赤な渦が巻いていた 前触れらしい 来る男 ♪
  ♪ 浪人一人 旅を行く ♪

歌詞はさだかでないが、北島三郎の歌唱である。したがって、冒頭”青い風が”の部分は”はぁ〜んがおい〜い風が〜”と演歌調に歌われていた。

もうひとつ、焼津の半次の歌がある。
 
  ♪ 向こう意気なら焼津の半次 引けは取らねえ風来坊 ♪
  ♪ それがどうした男に惚れた 腕も気風も 腕も気風も ♪
  ♪ 俺の上手を行く旦那 ♪

さて、月影兵庫。剣の腕はめっぽう立つが、何と”猫”が大の苦手。立ち回りの時に猫が出現しようもんなら、大騒動。
「は、半の字!早くそれをどかさんか!!こ、このばかたれが!!!」
「だ、だんなぁ!!こっちもいけねえっ!!く、蜘蛛が出やがったぁ〜!!!」
半次は大の蜘蛛嫌い。猫と蜘蛛が同時に出現したときは、いかに剣の達人でも大ピンチだ。

最終回。兵庫の旦那は実は大名の跡取り息子。ついに跡を継ぐべき時がきて半次との旅も終わりとなる。
「だ、旦那〜!!!」泣き叫ぶ半次と別れを告げて立ち去る兵庫。感動的だった。


昭和40年にNETで放送が始まった素浪人月影兵庫は月影兵庫(近衛十四郎)と焼津の半次(品川隆二)の掛け合いが大変面白いドラマでした。
これが終わって、其の後に放送されたのが『野次馬がいく』で、松方弘樹と里見浩太郎のコンビが旅をするお話。
二匹目のどじょうを狙ったという噂もちらほら、あまり人気がなくてワンクールで終了してしまいました。
其の後に、昭和44年から『素浪人 花山大吉』、『素浪人 天下泰平』が昭和48年に加茂さくらさんと、
昭和48年には「いただき勘兵衛旅を行く』が次男の目黒祐樹と、組んで作られました。
これを最後に近衛氏は逝去されてしまいました。


近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。通常より長い刀を使用し、かつ随一といわれる速い剣捌きで迫力ある殺陣を演じ、時代劇ファンを魅了した。


来歴・人物
新潟県長岡市生まれ。 本名、目黒寅彦(めぐろ・とらひこ)。松方弘樹(長男)、目黒祐樹(次男)と二人の息子がともに俳優となったことでも知られる。

市川右太衛門プロダクションに研究生として入団し、日活を経て亜細亜映画『叫ぶ荒神山』で主役デビューを飾る。 その後、第一映画社から大都映画社に移って剣劇スターとしての名声を打ち立てる。1942年7月23日、長男・弘樹誕生。

しかし、同年戦時映画社統合によって大都映画社は日活、新興とともに合併され大映となったことにより、多くの俳優が仕事を失うなか近衛は一座を結成して国内各地を興行して回った。徴兵を受けてシベリアに抑留されたが1946年に復員し、実演を再開する。翌1947年8月15日、次男・祐樹誕生。

映画界に復帰後、『柳生武芸帳』シリーズ(1961年〜1964年)で主役の柳生十兵衛を演じる。ほか出演多数。剣戟スターとしては器用ではないが異様な迫力が人気を呼んだ。ある意味でハード・ボイルドな世界を時代劇に持ち込んだ人物といえる。

1965年にテレビ時代劇『素浪人・月影兵庫』に主演し、近衛の鬼気迫る立ち回りに加えて品川隆二演ずる焼津の半次とのコミカルな掛け合いが茶の間の大ヒットを呼ぶ。素浪人シリーズは高視聴率のとれる人気番組として、以降1969年『花山大吉』、1973年『天下太平』とつづいたが、近衛の糖尿病が悪化し、1973年に次男・祐樹と共演した『いただき勘兵衛旅を行く』を最後に事実上引退状態となり晩年は各種の会社経営者として”余生”を送った。

1977年5月24日、63歳で死去。

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ちびっこギャング

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、「アルファルファ」、よく覚えています。


<ちびっこギャング>
これもいつ頃放送されていたか記憶がありませんが、たぶん「どらネコ大将」と同じ頃だと思います。
下町の悪ガキ達の物語で、「アルファルファ」という髪の毛が一本ツノのように立っていた子が、いつも母親にヒマシ油(下剤らしいのですが、どんな物か知りません)をスプーンで飲まされて顔をしかめていました。
ソバカスのいっぱいある子供が主人公だったような記憶がありますが、さだかではありません。



ちびっこギャング1961
Little Rascals

米本国では1920〜1964
日本で放映されたものは1935年頃製作分

スパンキー            ギャングのリーダー格・アルファルファのよき相棒
ジョージ・マクファーランド    悪知恵が働き頭の回転が速い

アルファルファ           数々の騒動の中心的存在・エンタティナー
カール・スウィッツァー      窮地に陥ると目が寄る。

ドーラ・フッド          アルファルファの恋人?・気が多い。
ドーラ・フッド          子供とは思えない色っぽさ。 ピアノの達人

バックウィート          穏やかな性格、あまりしゃべらない。存在自体がユニーク
ウイリアム・ヘンリー・トーマスJr 男の子だが時にはリボンをつけたりスカートをはくことも

ポーキー             バックの弟分・目についたものはなんでも口に運ぶ食いしん坊
ユージン・リー          最年少

ボーチ              街の暴れん坊。真の悪ガキ
トミー・ボンド

校長               アダムズ通り小学校の校長
マーリス・カース

ローレンス            アルファルファ達の担任。ピアノが上手。
ロジーナ・ローレンス

グランマ             薬漬けの毎日だったがギャングとつきあっているうちに
ゼフィ・ティルバリ        元気と青春を取り戻す。 金持ち

ピート              ギャング連といつも行動をともにする子犬(身体は大きい)
                 よく目の周りに丸を描かれていた。

レモネード            この頃の米映画に必ず出てきた飲み物
                 正体はレモン果汁に砂糖を加え水または炭酸水で割ったもの
                 ラムネの語源でもある。

アンタッチャブル

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ネスのロバート・スタックの顔を覚えている。
それと、コマーシャルの直前(後かも?)に流れる「アンタッチャブル 」の声。
亡父が好きで、小学低学年の私も隣で観ていた。


タイトル アンタッチャブル
原題 THE UNTOUCHABLES
データ 1959〜1963年/アメリカ/60分/全116話
原作 エリオット・ネス
出演 ロバート・スタック、アベル・フェルナンデス、ニコルス・ジョージエイド、ブルース・ゴードン、ジェリー・パリス、アンソニー・ジョージ


エミー賞受賞!アル・カポネと“アンタッチャブル”たちの戦いをリアルに描いたTV史上に輝く金字塔!!

1920年代、禁酒法時代のアメリカ。組織的なギャング団が街に進出し、賭博や密造酒の販売を手引きしていた。また彼らは縄張り争いで多くの市民の生活を脅かす恐怖の存在でありながら、証拠を残さないために政府機関は手をこまねいて見ているしかなかった。まさに暗黒の時代である。そんな折、エリオット・ネス率いるFBIの特別捜査官が暗躍する悪を叩き潰すために立ち上がった。あらゆる買収に絶対に応じない彼らは、当時のシカゴ・ニュースペーパーから“アンタッチャブル(=触れ得ざる者)”のあだ名を頂戴する。つまり、裏を返せばこの時代では、金が政治や正義の基準を決めてしまうような、腐敗しきった世の中が形成されていたわけである。ネスは囮捜査官を潜入させ、ギャングの資金源を絶ち、組織の解体を実行に移した。そして、宿敵であるマフィアのドン、アル・カポネを徐々に追い詰めていく!


 伝説的なマフィアのボス、アル・カポネと、それを取り締まる特別捜査隊の戦いを描いたドキュメンタリー色の濃いドラマ。実在の人物で元FBI捜査官のエリオット・ネスが、実際の体験を綴った自叙伝をもとに、禁酒法時代の暗黒街が生々しく描かれ、ネスを演じたロバート・スタックは1960年エミー賞最優秀男優賞を受賞した。

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