音楽する心

登山、ピアノ、クラシック音楽、オーディオ、バイクの話題と懐古的Webサイト収集(転載)サイト。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

我、W650シルバー

イメージ 1

KAWASAKI W650/400 mook vol.23

「W650/400オーナーアンケート」


.ーナーの年齢層は、40歳代が50%、50歳代が25%

⊃啓屬嚢愼が60%

9愼した理由はデザインが良い70%

す愼時に他車と比較したかは、他車は考えなかったが60%

ゥ瓮鵐討篝鞍は、分解整備や修理を行う人が40%、オイル交換程度が14%

α着しているタイヤはダンロップが75%

Д泪侫蕁爾魯痢璽泪襪里泙泙32%

┘掘璽箸魯痢璽泪襪60%

その他の装着パーツは、フロントバンパーが51%,リヤキャリアが45%

一般道での燃費は、25〜31km/Lが40%,31Km/L以上が8%、W650の燃費のよさが裏付けられた。



●アンケートの結果から
オーナーの年齢層が40〜50歳代が75%を占めていることから、W650を新車で購入することには、経済的な支障があまりなかったことがうかがえる。

他車との比較購買の状況は、W650の個性にほれ込んで一途に手に入れたことが分かる。

オーナーの年齢的なことも影響しているのか、あるいは完成されたモデルの証か、改造にさほど興味を持っていない人が多いことは、自分もオーナーの端くれとして充分理解できる。

燃費は当車で一般道をツーリングすると、35Km/L前後は走るので、ハイオクで17Km/Lしか走らなかったZRX1200Rと比べれば、エコ度は相当のものである。

開発の段階から、たぐい稀なコストを度外視して作られたW650を、末永く乗ってやりたいと改めて思った。

300

イメージ 1

最近DVDで映画をよく見る。

グラディエータ程ではないが、スケールが大きく結構楽しめた。

場面が谷に集中し過ぎるのと、特殊な画像処理効果が気になった。

後でスパルタについて調べ、西洋史の勉強にもなった。

それにしてもスパルタの徹底した兵士育成方法には驚いた。


ヘロドトスの「歴史」に記されている紀元前480年に行われた「テルモピュライの戦い」をベースにして描かれたフランク・ミラー原作の「300」をもとにして作られている映画で、300人のスパルタの兵隊たちと100万人のペルシア軍が激突するという燃え燃えなストーリー。

もちろんこの300人はただの300人ではなく、いわば戦闘国家スパルタの精鋭300人、本物の戦士。剣が折れても素手や歯を使って全員が玉砕するまで戦ったとのこと。

『300<スリーハンドレッド>』(300) は2007年のアメリカ映画。フランク・ミラー原作のグラフィック・ノベルを元にペルシア戦争のテルモピュライの戦いを描いた作品。日本ではR-15指定。

映画製作関係者達は、「この映画は、単に、イラン人とスパルタ人の戦争物語を、真実と異なる形で語っているもので、歴史を正確に伝えるものではない。」と、はっきりこの映画が実際の事実とは異なるねじ曲げられたものであることを認めている。

紀元前480年、スパルタ王レオニダスの元に大帝国ペルシアの使者が訪れ、スパルタに服従を要求する。レオニダスはこれを拒否し、その使者を殺害する。そしてわずか300名の軍勢で100万のペルシア軍を迎え撃つ。

妖刀村正

イメージ 1

一時期、亡父が日本刀を収集していた
その影響で少なからず興味がある

まず、その美しさに心を奪われる

日本刀といえば、まず村正
テレビの時代劇でも頻繁に出てくる名刀

私は日本刀を美術品として鑑賞する

自宅の和室、床の間に、この村正の模造刀を飾り、部屋を引き締めたい


●妖刀村正 伊勢千子村正

よく妖刀村正と呼ばれるが、徳川家康が勝手に妖刀呼ばわりしてただけで、本来は普通の日本刀である。しかし、刀身に彫ってある仏教用語や彫刻を見ると、たしかに妖刀みたいに見えてくる。徳川家康が村正を妖刀扱いした理由は、家康の祖父の清康、父親の廣忠、長男の信康が皆村正で死に、家康自身も関ヶ原で村正の槍で傷を負ったことにある。

徳川家康が忌み嫌った村正は、当然「反徳川派」には愛された。反徳川派は皆村正を使ったので、村正の価値は急上昇し、偽物も大量に出回った。「真田幸村」「毛利秀元」「島津義弘」「由井正雪」など、反徳川派の名将たちの愛刀は当然のように村正であった。


●村正(むらまさ)は、刀剣・日本刀の名。または刀匠の名。千子村正。

村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子と伝えており、赤坂千手院鍛冶の出である。最上大業物の大家である孫六兼元と親交があったと伝えている。その根拠は、村正の遺作のなかに「三本杉」の作が残されているからである。赤坂千手院で修行した後に、伊勢国桑名で千子派を旗揚げした。

伊勢で二代兼定とも親交があったと伝えている(二代兼定は伊勢の山田で鍛刀していた時期がある)。村正とみて「イヤ」であったなら「二代兼定」とみる、「二代兼定」とみてイヤであったなら「村正」とみるという鑑定上の掟がある。

五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期であり、活動の地域や作風も全く異なる。また村正は、同名で少なくとも3代が存在するというのが定説である(前述の、二代兼定と兄弟弟子であったとも言われているのが初代)。


●妖刀・村正のエピソード
土州土佐郡潮江村砂入 福原竹五郎という藩士は精神に異常をきたし村正で自殺した。
戦前、東北大学工学博士・本田幸太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ったところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだのだが、妖刀と呼ばれる村正だけが、何故か測定ごとに数値が一定しなかった。科学雑誌『ニュートン』に書かれた、本田幸太郎伝の一エピソードである。


●村正と徳川家
村正が妖刀と呼ばれるようになった由来は、徳川家康に関わる以下の逸話が残されていることによる。

家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらも凶器は村正。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正。さらに、家臣が偶然槍を取り落とし家康が負傷するという事件が起こり、調べてみるとこの槍も村正であったという。

これらの経緯から徳川家は村正を嫌悪するようになり、公にも忌避されるようになったという。これが転じて芝居などに妖刀として登場するようになったことで、村正は妖刀としてその名を知られるようになった。

経緯に関しては村正が徳川領・三河に近い伊勢の名工であり、単に三河に村正の絶対数が多かったためという説もある。実際、徳川に仇なすと言われつつも、徳川家康を幾度も救った徳川家の武将で、徳川四天王の一人に数えられる本多忠勝の蜻蛉切は、村正作である。

異説として、徳川家への遠慮というものがある。実は家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡され、これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった、というものである。

徳川家からは嫌われた村正であるが、逆に徳川家と対立する立場の者には、良いゲンかつぎとして好まれた。たとえば、大阪の陣で名を馳せた名将・真田信繁(幸村)や、徳川政権初期に謀反の疑いで処刑された由井正雪も村正を所持していたという。さらに幕末期の倒幕派志士らも好んで村正を求めたといわれ(このため、多数の贋物が出回ることになった)、西郷隆盛も村正を所持していた。しかし皮肉にも、これらの所持者らも非業の死を遂げている。


●村正の妖刀
囲碁で小目への一間高かかりに対して二間で挟む定石からの変化に「村正の妖刀」なる大型定石が存在する。 この定石は昭和に入ってから誕生し双方が切り違い変化が難解で場合によっては大石が死ぬこともあり得る妖しさから、その名がついたとされている。

開く トラックバック(1)

全1ページ

[1]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事