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ボンバルディアQ400

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ボンバルディアQ400
Q400 DHC-8402 (DH4)

Q400のQ(quiet/静粛性)が意味する低騒音とジェット機に匹敵するスピードを兼ね備えた飛行機です。トラブルが多いようですが、新世代高速ターボプロップ機です。

 愛称であるQ400にも表されるように、客室内や外部への騒音が少なく静かな(Quiet)飛行機です。DHC-8の客室内騒音低減装置(NVS)は、飛行中の騒音を大幅に抑えています。

 国産プロペラ機YS-11型機よりも巡航速度が増大しました。またDHC8-400は、伊丹-高知線ほどの近距離路線であれば、ジェット機とほぼ同じ所要時間で到着することが可能です。

 間接照明を取り入れたキャビンは明るく、ジェット機と同様に手荷物収納棚を装備。Q400は座席ピッチも32インチ(約81センチ)とゆとりあるスペースです。

 翼が機体上部にあるため眼下の視界を遮らず、どの窓からも眺めが良好です。

DHC8-400の巡航速度はYS-11型機の約1.5倍。巡航速度 時速 約650km。
ジェット機で1時間内外の路線であれば、所要時間に大差ありません。

運用限界高度 7,500 m
最大航続距離 2,000 km
座席数 74席

ノースアメリカン X-15

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 僕がまだ子供だったころ(1960年代)ノースアメリカンX-15はマッハ6で飛行する極超音速機として有名な存在でした。実機は特別仕様のB-52から空中発射されたあと、ほぼ1分半にわたってロケットエンジンを作動させ、最大速度マッハ6、高度9万メートルまで上昇したあと、超高速のグライダーとなって地上に帰還します。基本的には、初めて音の壁を突破したベルX−1の発展した機体といえます。

 やがて時は過ぎて、アポロ計画やスペースシャトルなど、次世代の宇宙計画が脚光を浴びるようになると、初期のX計画は次第に忘れ去られ、数々の実験機も博物館の片隅に追いやられてしまいました。しかし、たとえばアポロ11号で月に降り立ったニール・アームストロングも、本機で初めて宇宙の底を覗いていたのです。


●ノースアメリカンX-15初号機
超高度(成層圏)、極超音速(マッハ5以上)の飛行を達成した機体。
本によるとこの初号機の最高速度記録は6276km/h(マッハ5.74)、最高高度は76,200m。
X-15計画全体では最高速度は2号機が記録した7296,57km/h(マッハ6.72)、最高高度記録は3号機が記録した107,960mとのことです。
2号機はデイトンのUS A F MUSEUMに展示されており、3号機は1967年11月事故によりパイロットの命とともに失われています。
X-1等で音速の壁を突破したNACA(NASAの前身)が更なる目標として超高度と極超音速の飛行を目標に計画したもので、ノースアメリカンX-15はその目標を達成する為にさまざまな技術が投入されました。
特徴的な黒い機体色は極超音速では最高で1300度と予想された機体表面温度に耐えるため、ニッケルとクロム鉄の耐熱合金インコネルXが機体表面を覆ったためです。
形状も極超音速飛行時、揚力は胴体下面に発生する衝撃波によって得られるため、機体両側面にチャインと呼ばれる張り出しがあり、リフティングボディとしても設計されていました。

X-15もX-1同様、母機となるB-52の翼下に搭載され、空中発進しました。

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戦略爆撃機 B52

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B-52はジェットエンジン推進の超大型戦略爆撃機で、Stratofortress ストレイトウフォートレス(成層圏の要塞)という愛称を持つ。B-36の後を引き継ぎ、1960年代以降のアメリカ空軍の主力戦略爆撃機となっている。
とはいえ、B-36が戦略爆撃機として配備されながらも一度も実戦に参加せず(参加したとすれば、それはすなわち核戦争を意味する)核抑止力としての役割を忠実に果たしたのと比べると、B-52の方は、核戦略上の運用と言うよりは、むしろベトナム戦争で絨毯爆撃を行なったという華々しい戦果の方で知られている。
すでに冷戦の軍事技術上の段階は、戦略核は大陸間弾道ミサイルの照準を定めてにらみ合うようになっていて、爆撃機に核爆弾を搭載してのろのろ敵地上空に飛来する方法は古いものになりつつあった(あるいは、戦略爆撃機の新たな開発の方向として超音速機に関心が向かっていた【WS-110A計画 XB-70 ヴァルキリー】)。
戦略爆撃機の役割は大陸間弾道ミサイルに取って代わられたのか、それとも核運用の多角化の観点から戦略爆撃機もいまなお意味を持ち得るのか、おそらく議論の多いところだと思うが、B-52についていえば、「戦略」の二文字が取れ、ベトナム戦争から911事件後のアフガン戦争までに参加した「超大型爆撃機」としての印象が強い。

超大型爆撃機としてのB-52の活躍の場はまだまだ多い。1991年の湾岸戦争、2002年の911事件後のアフガン戦争では、デイジーカッターと呼ばれる大型爆弾を投下するのに用いられた。通常兵器ではあるが、その破壊力の大きさから戦術核に匹敵すると評されている爆弾である


●B52
 ボーイング社が開発した大型爆撃機。正式名称はボーイングB52ストラトフォートレス(空中要塞の意)。アジア・太平洋戦争で運用されたB29の後継機にあたる。1951年に原型機XB52のロールアウトして以来B52Hの最終号機まで約10年間にわたって原型機であるXB52、YB52の2機を含めて総数744機が生産されており、1955年のB52Bの部隊配属から約50年間にわたって運用された。その間、バージョンアップを重ねたB52は初期生産型であるA型から最終生産型であるH型まで実に8種類ものバリエーションを生み出しているが、これらは大きくD型に代表される高高度侵攻型(A〜F型)とそれ以降の低高度侵入可能型(GおよびH型)に大別できる。アジア・太平洋戦争後の核戦略爆撃機として報復核攻撃用の原水爆の搭載を前提に開発されたが、実際には通常爆撃に運用されたのみであり、膨大な爆弾積載量と長大な航続距離でベトナム戦争や湾岸戦争などで多大な戦果をあげている。特に最終生産型であるH型はターボファンエンジンを採用し、G型より離床推進力と航続距離を大幅に向上させた高性能機で1962年に行われたデモンストレーション「ペルシャの絨毯作戦」では最大離陸許容重量22135kgで沖縄嘉手納基地を離陸、スペイン・トレホン空港までの20138kmを無補給で踏破している。これは地球を半周する距離にほぼ等しく、つまりB52Hは空中給油も可能であることも考慮すると、理論上地球上のいかなる場所に対しても爆撃を行うことができるのである。B17フライングフォートレス以来の巨人戦略爆撃機の最終型にふさわしい、傑作機といえよう。しかしB52が取る戦術は一つ、高空から大量に爆弾をばら撒くことのみであり、精密爆撃を行うことはできない。こうした大型爆撃機が第二次大戦後、長く運用されてきたということはアメリカが敵対国に対し、いかに無差別な攻撃を繰り返してきたかをも物語っている。なおアメリカ軍はこのB52Hに更にステルス性能を加えた新型爆撃機を開発中である。
 2005年6月在日アメリカ軍厚木基地の親善祭で展示されていたB52Dがゾンダリアンにより拿捕され、EI−21の素体となっている。航空自衛隊入間基地を襲撃し、爆弾、ミサイル等を強奪してGアイランド上空を飛行、爆撃を行う。ゴルディーマーグを排除し、その上でガオガイガーのブロウクンマグナムを破壊することでハンマー・ヘル・アンド・ヘヴンおよびヘル・アンド・ヘヴンを封じる作戦であったが、異常なまでの強固さを誇るゴルディーマーグの破壊に失敗し、ハンマー・ヘル・アンド・ヘヴンにより核を摘出された後、粉砕された。

ボーイングB52ストラトフォートレス
 全長 48.565m
 全幅 58.388m
 全高 12.411m
 最大離陸重量 229066kg
 最高速度 957km/h(条件により著しく変動)
 巡航速度 909km/h
 航続距離 20120km(無補給。空中給油により延長可能)
 燃料積載量 132263kg
 エンジン プラット・アンド・ホイットニー TF331P−3ターボファンエンジン×8
 最大爆装重量 24300kg
 爆装以外の装備 20mmバルカン砲 M−61A1×1
 乗員数 6名

姫路城

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姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にある城。白漆喰の城壁の美しさから白鷺城(しらさぎじょう、はくろじょう)とも呼ばれる、日本における近世城郭の代表的な遺構である。

築城以来廃城や戦火の危機を免れてきたことから天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。

三大国宝城の一つに数えられ、築城以来の姿をよく残していることもあって時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」とも言われる。

白壁の美しい城であり、時代劇をはじめとして映画などのロケが行われることも多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。

月光

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月光(げっこう)は、日本海軍(以下、海軍)が太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。アメリカ軍が本機に与えたコードネームは「IRVING」。

開発の経緯
1937年(昭和12年)、大陸での渡洋爆撃において、敵戦闘機の迎撃により九六式陸上攻撃機が大きな被害を受けた事に衝撃を受けた海軍は、より高速かつ重武装の「十二試陸上攻撃機」(後の一式陸上攻撃機)の開発を急遽開始する一方、翌1938年(昭和13年)11月、中島飛行機に対し陸攻援護専用の遠距離戦闘機である「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示した(これより数ヶ月前に四発陸上攻撃機の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)の開発も命じている)。これを受けた中島では九七式艦上攻撃機の開発主任であった中村勝治技師(後に病気のため大野和男技師と交代)を中心とした設計陣を組み、開発に当たった。


設計の特徴
計画要求書が残っていないため正確な内容は不明であるが、中島関係者の記憶によると海軍からの要求性能は概ね以下のようなものだったとされる。

形 式:双発三座
最高速:280ノット(約519km/h)
上昇力:6,000mまで6分
航続力:正規1,300浬(約2,408km)、過荷重2,000浬(約3,704km)
武 装:機首固定20mm×1、7.7mm×2、後部遠隔操作式動力旋回7.7mm×4
その他:十二試艦戦(後の零式艦上戦闘機)と同等の運動性能を有すること。陸攻と同等の航法・通信能力を有すること。
最高速度の要求については、十二試艦戦より出力が2割以上大きい栄二一型を2基装備しているにも関わらず、十二試艦戦の要求性能270ノット(500km/h)より5%も速くない。これは援護戦闘機に最も重要な長大な航続力に必要とされる大量の燃料に比べ発動機出力が小さいことから大面積の主翼が必要となり、必然的に高速戦闘機にはなり難くいためと考えられる。ただし、翼端失速対策として空気抵抗の増加する主翼翼端の捻り下げではなく前縁スラットを装備したり、20mm機銃を命中率の高い機首装備とすることで十二試艦戦の2挺装備から1挺に削減したり、旋回機銃を既存の風防解放式より空気抵抗が増加しない遠隔操作式とする等、可能な限り速度の低下を防ぐための手段が講じられている。

運動性についての要求性能は「海軍の過大な要求」の代表例として挙げられるほど有名なものだが、十三試陸戦の審査に当たった海軍関係者は運動性の要求を「固定銃による空戦が可能な程度」と記憶しており、試作機が零戦と比較されたことによる中島関係者の誤解または記憶違いの可能性がある。ただし、上記の理由により双発戦闘機でありながら運動性によって敵戦闘機に対抗せざるを得ないため、フラップを前縁スラットと連動する空戦フラップとしたり、トルク対応のために十三試陸戦専用に逆回転使用の栄二二型を新規開発して搭載(共に試作機のみ)する等の対策が講じられている。

武装については、前方固定機銃は他の双発戦闘機と比較して強力とは言えないが、後方旋回機銃は極めて強力であり、海軍が編隊後方から襲撃してくる敵戦闘機を警戒しており、十三試陸戦はその対策として開発されたのではないかと考えられる。


十三試双発陸上戦闘機から二式陸上偵察機
1941年(昭和16年)3月26日に十三試陸戦試作一号機が完成し、5月2日に初飛行した。しかし、テストの結果、速度や航続力はほぼ要求通りではあったものの、運動性能に劣るため敵戦闘機に対抗するには不足と判定されたこと、遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃の信頼性が低いこと、また既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となったが、従来の九八式陸上偵察機に比べ高速かつ航続距離が長く、そして前方機銃と空戦機動に耐える機体強度を持ち、ある程度の自衛戦闘が可能な点を買われ、強行偵察にも使用可能な偵察機に転用されることになった。

昭和17年7月、J1N1-C試作機(十三試陸戦試作機に偵察用カメラを追加した機体。遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃はそのまま)3機がラバウルに進出し、翌月から開始された米軍のガダルカナル進攻においても最初にラバウルからガダルカナルを航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしている。その後、二式陸上偵察機(J1N1-R。J1N1-Cから変更)として制式採用され各部隊に配備されるようになったが、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した百式司令部偵察機の方が重用されるようになった。


夜間戦闘機「月光」
昭和18年初め、第二五一航空隊(元台南航空隊。以下、二五一空)司令の小園安名中佐(当時)は海軍中央の反対を押し切って、重爆撃機対策として自ら発案した斜銃(機軸に対して上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を十三試陸戦試作機に追加装備した改造夜間戦闘機を自らの部隊に配備させる事に成功した。この改造夜戦は昭和18年5月に二五一空と共にラバウルへ進出、同月21日深夜、ラバウルに来襲した2機のB-17を撃墜することに成功、その後も次々と夜間爆撃に襲来するB-17を撃墜した。初撃墜の直後、海軍中央から二五一空の保有する二式陸偵全機の改修許可と改造夜戦の制式化内示が伝えられ、1943年(昭和18年)8月23日には丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)として制式採用、斜銃も制式兵器となった。

小園大佐は最初に下向き斜銃、次に上向き斜銃による敵機攻撃を発案したが、主に視界の問題(機体下部に開けた窓を通じて照準するため視界が限られる。また夜間においては月や星のため明るい上空に敵機をおいた方が識別しやすい)から、構想の比較的初期段階で下向き斜銃による敵機攻撃は現実的ではないとされ、敵機攻撃には上向き斜銃が主要されることとなった。にも関わらず月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃と並んで夜戦の重要な任務と考えられた敵基地などへの夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためであり、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃の重要度が増してくると下向き斜銃を装備する意義は薄れ、後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。

月光の登場により、一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、戦力バランスが大きく連合国軍側に傾いてくると効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、中部太平洋やフィリピンを巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなった。事実、この時期に月光に装備されたレーダーは対水上用のものである。

本土防空戦においては、P-51が援護戦闘機として登場するまでは夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃したが、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を上げることはできなかった。しかし、夜間迎撃ではかなりの戦果を挙げており、横須賀航空隊の黒鳥四郎少尉−倉本十三上飛曹機の様に一晩で5機撃墜した例もある。この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されているが、搭乗員や整備員が不慣れであったことやレーダー自体の信頼性も低かったこともあり、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかった。

現在、戦後アメリカ軍に接収された機体が修理・復元された上でスミソニアン博物館に展示・保存されている。

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