|
月光(げっこう)は、日本海軍(以下、海軍)が太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。アメリカ軍が本機に与えたコードネームは「IRVING」。
開発の経緯
1937年(昭和12年)、大陸での渡洋爆撃において、敵戦闘機の迎撃により九六式陸上攻撃機が大きな被害を受けた事に衝撃を受けた海軍は、より高速かつ重武装の「十二試陸上攻撃機」(後の一式陸上攻撃機)の開発を急遽開始する一方、翌1938年(昭和13年)11月、中島飛行機に対し陸攻援護専用の遠距離戦闘機である「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示した(これより数ヶ月前に四発陸上攻撃機の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)の開発も命じている)。これを受けた中島では九七式艦上攻撃機の開発主任であった中村勝治技師(後に病気のため大野和男技師と交代)を中心とした設計陣を組み、開発に当たった。
設計の特徴
計画要求書が残っていないため正確な内容は不明であるが、中島関係者の記憶によると海軍からの要求性能は概ね以下のようなものだったとされる。
形 式:双発三座
最高速:280ノット(約519km/h)
上昇力:6,000mまで6分
航続力:正規1,300浬(約2,408km)、過荷重2,000浬(約3,704km)
武 装:機首固定20mm×1、7.7mm×2、後部遠隔操作式動力旋回7.7mm×4
その他:十二試艦戦(後の零式艦上戦闘機)と同等の運動性能を有すること。陸攻と同等の航法・通信能力を有すること。
最高速度の要求については、十二試艦戦より出力が2割以上大きい栄二一型を2基装備しているにも関わらず、十二試艦戦の要求性能270ノット(500km/h)より5%も速くない。これは援護戦闘機に最も重要な長大な航続力に必要とされる大量の燃料に比べ発動機出力が小さいことから大面積の主翼が必要となり、必然的に高速戦闘機にはなり難くいためと考えられる。ただし、翼端失速対策として空気抵抗の増加する主翼翼端の捻り下げではなく前縁スラットを装備したり、20mm機銃を命中率の高い機首装備とすることで十二試艦戦の2挺装備から1挺に削減したり、旋回機銃を既存の風防解放式より空気抵抗が増加しない遠隔操作式とする等、可能な限り速度の低下を防ぐための手段が講じられている。
運動性についての要求性能は「海軍の過大な要求」の代表例として挙げられるほど有名なものだが、十三試陸戦の審査に当たった海軍関係者は運動性の要求を「固定銃による空戦が可能な程度」と記憶しており、試作機が零戦と比較されたことによる中島関係者の誤解または記憶違いの可能性がある。ただし、上記の理由により双発戦闘機でありながら運動性によって敵戦闘機に対抗せざるを得ないため、フラップを前縁スラットと連動する空戦フラップとしたり、トルク対応のために十三試陸戦専用に逆回転使用の栄二二型を新規開発して搭載(共に試作機のみ)する等の対策が講じられている。
武装については、前方固定機銃は他の双発戦闘機と比較して強力とは言えないが、後方旋回機銃は極めて強力であり、海軍が編隊後方から襲撃してくる敵戦闘機を警戒しており、十三試陸戦はその対策として開発されたのではないかと考えられる。
十三試双発陸上戦闘機から二式陸上偵察機
1941年(昭和16年)3月26日に十三試陸戦試作一号機が完成し、5月2日に初飛行した。しかし、テストの結果、速度や航続力はほぼ要求通りではあったものの、運動性能に劣るため敵戦闘機に対抗するには不足と判定されたこと、遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃の信頼性が低いこと、また既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となったが、従来の九八式陸上偵察機に比べ高速かつ航続距離が長く、そして前方機銃と空戦機動に耐える機体強度を持ち、ある程度の自衛戦闘が可能な点を買われ、強行偵察にも使用可能な偵察機に転用されることになった。
昭和17年7月、J1N1-C試作機(十三試陸戦試作機に偵察用カメラを追加した機体。遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃はそのまま)3機がラバウルに進出し、翌月から開始された米軍のガダルカナル進攻においても最初にラバウルからガダルカナルを航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしている。その後、二式陸上偵察機(J1N1-R。J1N1-Cから変更)として制式採用され各部隊に配備されるようになったが、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した百式司令部偵察機の方が重用されるようになった。
夜間戦闘機「月光」
昭和18年初め、第二五一航空隊(元台南航空隊。以下、二五一空)司令の小園安名中佐(当時)は海軍中央の反対を押し切って、重爆撃機対策として自ら発案した斜銃(機軸に対して上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を十三試陸戦試作機に追加装備した改造夜間戦闘機を自らの部隊に配備させる事に成功した。この改造夜戦は昭和18年5月に二五一空と共にラバウルへ進出、同月21日深夜、ラバウルに来襲した2機のB-17を撃墜することに成功、その後も次々と夜間爆撃に襲来するB-17を撃墜した。初撃墜の直後、海軍中央から二五一空の保有する二式陸偵全機の改修許可と改造夜戦の制式化内示が伝えられ、1943年(昭和18年)8月23日には丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)として制式採用、斜銃も制式兵器となった。
小園大佐は最初に下向き斜銃、次に上向き斜銃による敵機攻撃を発案したが、主に視界の問題(機体下部に開けた窓を通じて照準するため視界が限られる。また夜間においては月や星のため明るい上空に敵機をおいた方が識別しやすい)から、構想の比較的初期段階で下向き斜銃による敵機攻撃は現実的ではないとされ、敵機攻撃には上向き斜銃が主要されることとなった。にも関わらず月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃と並んで夜戦の重要な任務と考えられた敵基地などへの夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためであり、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃の重要度が増してくると下向き斜銃を装備する意義は薄れ、後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。
月光の登場により、一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、戦力バランスが大きく連合国軍側に傾いてくると効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、中部太平洋やフィリピンを巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなった。事実、この時期に月光に装備されたレーダーは対水上用のものである。
本土防空戦においては、P-51が援護戦闘機として登場するまでは夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃したが、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を上げることはできなかった。しかし、夜間迎撃ではかなりの戦果を挙げており、横須賀航空隊の黒鳥四郎少尉−倉本十三上飛曹機の様に一晩で5機撃墜した例もある。この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されているが、搭乗員や整備員が不慣れであったことやレーダー自体の信頼性も低かったこともあり、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかった。
現在、戦後アメリカ軍に接収された機体が修理・復元された上でスミソニアン博物館に展示・保存されている。
|