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なぜ、人間は生まれながらにして人権を有するといえるのか。かつては、神によって与えられた(天賦人権説)とか、自然法や理性に基礎をおくと考えられていたが、現在では「人間の尊厳」にその根拠が求められるようになっているようだ。そして、今や日本においても、児童虐待防止法における「虐待」の定義やいろいろなハラスメントの事例が明らかにされることによって、人間の侵すべからざる「尊厳」というものがより鮮明となってきている。
つまり、私たち日本人が自らの人権を守ることが不得手であるがために、しばしば人権が利己主義やわがままと混同され、それがグレーゾーンとして「人権」の明確なイメージづくりを阻害してきたきらいがあった。それが証拠に行政の行う人権啓発は、長い間、「人権」=「思いやり」であるかのようなスタンスをとるところが多かった。それは、国家犯罪としての、死刑制度や冤罪の問題を回避させたのみならず、部落問題や在日の問題と自分たちの生活との正確な距離を測る作業をも結果として遠ざけ、いつまでたっても自分の問題とさせなかった根本原因であるからだ。
ところが、たとえば児童虐待の防止等に関する法律の第2条には児童虐待を物理的暴力だけでなく、わいせつ行為に関することや著しい減食又は長時間の放置、著しい暴言や拒絶的な対応、さらには夫婦間におけるDV(ドメスティックバイオレンス)をも含め規定したことで、これらが人権侵害であることを明確にした。また、専門家によってパワーハラスメントの類型が明らかにされるなかで、自分の守るべき「人間の尊厳」が次々に具体化されてきたのである。
これらの動きは、捜査官と被疑者との関係に対しても、何らかの影響を与えずにはおかないだろう。そういう意味では、取調べの全面的可視化が事例提供という意味で果たす役割は大きい。もちろん、裁判の証拠的価値や研究目的に限定されることはいうまでもない。要は、そのことによって冤罪が抑止されるかどうかが問題なのであって、数々の個人情報が飛び交うであろう取調べの「公開」を求めているわけではない。また、被疑者等の人権が守られるためには警察組織がコンプライアンスに熱心になることが大前提であって、検挙率の低迷に対して人権を無視した強引な捜査で帳尻を合わせるなどということが絶対におきないようお願いしたい。
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憲法雑感
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