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「同和、同和と言うから差別はなくならん」‥‥いわゆる「寝た子を起こすな」論です。これに対して、太政官布告(いわゆる解放令1871年)以降、同和対策審議会答申(1965年)までの約100年間、行政は目立った活動をしてこなかった、すなわち寝た子を起こさずにいたわけでありましたたが、それによって差別がなくなったわけではもちろんありません。部落差別は親から子へ、そして孫へと世代間で継承されてきたのです。ましてかつての興信所や探偵社にとっては差別があるから仕事(身元調査)が入るというという側面が有り、みんなが同和問題を話題にしなかったら差別がなくなるという発想がいかに現実離れした無責任な発想であるかがわかります。
そもそも同和問題を解決しないで、忘れ去ればよいではないかという発想には、たとえ深刻な社会問題であるとは言え、その問題を直視せずに逃避することによって幕引きを図ろうという姿勢であって、自分の視界に入ってこなければ良いという姿勢でもあり、「臭いものには蓋」という、社会に対して責任を持とうとしない姿勢につながっており、そればかりかナチスの「ホロコースト」や「ハンセン病患者に対する隔離政策」にまで繋がっていく危険極まりない発想であるのです。
もし「いじめ」問題のことを誰も話題にしなくなったら、いじめはなくなるでしょうか。もし、セクハラのことをどこも報道しなくなったらセクハラはなくなるでしょうか。直接事件に関係しない人の目の前からはなくなるかもしれません。でもそれは解決したわけではもちろんなく、単に水面下に潜っているだけで、多くの人が無関心になっただけです。
差別や虐待を受けていることを公の場で明らかにすることはとても勇気のいる行為です。彼らの多くは自分を肯定することがむずかしく人間としての誇りがずたずたに傷ついているからです。
今では、「部落差別」にしろ「セクハラ」にしろ「児童虐待」にしろごく普通に使っているコトバですが、ここに至るまではいろんな人たちの犠牲があり、いろんな人たちの勇気があり、いろんな人たちの支援があって、はじめて社会問題として陽の目を見たという経緯があります。そんな関係者の努力の結晶を省みることなく、「寝た子を起こすな」論‥‥私には両者のギャップが切なくてたまりません。
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