|
これまで述べてきたことは、人間の考えることは動物でも考えうるということ、人間であるがゆえに考えることができるのではないということを僅かな例から暗示したものである。では、もう少し前に進めてみたい。
一時期、ちくま書房から柳田国男の著作が文庫本でたくさん出版されたことがあった。今から20〜30年前のことで、私はそのなかのわずか5,6冊を読んだだけで、すっかり民俗学に通じたつもりになっていたものだ。 そのことは私自身の底の浅さを表していることはもちろんながら、柳田民俗学、特にその独特の弁証法が魅力に満ちていて、私にとってそれまであまり興味を覚えなかった歴史分野に対して俄然興味がわいてきたとも言える。
まあ能書きはこれくらいにしよう。
綿が日本に伝わって染色の技術が発展するまでは、私たちの先祖にとって色彩というものは自由にならない世界であった。それゆえ、人々は色に対して畏怖の念をいだかずにはいられなかったと柳田は言う。その代表的なものは太陽、特に朝日であり夕日であった。たとえば、人が長かった旅を終え、山道を降りてきて里に入ろうとするとき、日本海側に沈みゆく夕日の美しさに感動する。太陽が沈みゆくところには、半島の先に山があって、その山向こうに太陽が沈んでいくのだそうだ。たしか、東北地方のある村だったと記憶しているが、果たしてその岬の山はその地域で信仰の対象となっていた。柳田国男の書いたものからは、そのような実例がたくさん出てくる。
ところで、もしこのようなことから信仰が始まっていくのだとすれば、これが人間に個有の傾向とは限らないのではないか。私たちは、これまで動物が驚くほど人間に近い感性を持っていることを見てきた。色彩を分別できる動物ならば、その美しさを感じることはできるのではないか。ここで色彩にこだわったのは、人間の場合の例として出しただけで、動物の場合ならば匂いや音がきっかけとなって信仰が生まれる可能性が否定できない。
また、これらの信仰がある種に対して自然淘汰から一定の保護をきたすということも考えられる。たとえば、ワニとワニドリの共生関係やクマノミとイソギンチャクの共生関係なども、もちろん自然淘汰の中で強みを発揮してきたがゆえの共生関係であろうが、そのきっかけとなったものはあるいは何らかの信仰的なものであったかも知れない。ほかにも、アリやバッタが大量に発生する現象なども、人間がこれまで動物が下等であると根拠もなく信じていたために自然的要因にばかりとらわれていたが、何らかの信仰的な要素があるかもしれない。(つづく)
|
全体表示
[ リスト ]



