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 私たちが「人権」というとき、その要件とは「人間であること」あるいは「人間として生まれてきたこと」だけであり、人間としての尊厳がその理由とされています。そして、「ブリッジブック憲法」(横田耕一・高見勝利編)によれば、人間が生まれながらに当然に有する「自由と生存を確保するために必要な一定の権利」こそが社会生活において主張される「人権」であり、これが憲法によって確認され、法的権利として憲法の中に取り込まれることによって「憲法上の人権」となると言われています。つまり、人権とは憲法によって創り出されたものではないということです。
 
そして、社会生活のうえで様々に使われうる「人権」とは、憲法が保障する「法的権利」の根底にある「理念的」あるいは「道徳的」な権利だということができ、理念的権利としての人権は誰に対しても主張することができるし、場合によっては民法などの法律によって保障されることもありますが、法的権利としての憲法上の人権は、国および地方自治体に対してしか主張できないということです。
 
さて、千葉法務大臣が死刑執行命令にサインし、2名の死刑囚に対して死刑が執行されました。憲法36条は「公務員による拷問および残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する」と謳う一方で、第31条ではいわゆる罪刑法定主義を保障するなかで「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と謳っており、最高裁の判例においては、この相矛盾する二つの条文を解くにあたって、31条が「法律の手続きなしに生命を奪われる」ことがあってはならない、ということは取りも直さず、法律に手続きが明記されていれば死刑もありうることを示唆しているし、36条にいう「残虐な刑罰」とは死刑そのものを指すのではなく、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑」などに限定することで、整合性を図ってきました。
 
しかしながら、これにはいくつかの疑問点が残ります。まず、36条がわざわざ「公務員による」「絶対に」という言葉を使って、強い調子で国家権力による執行を禁じたことの意味合いがなくなってきます。また、「残虐な刑罰」の種類が最高裁裁判官の主観によって理屈抜きに例示されていることも疑問です。死への恐怖という意味では、いかなる生命刑も残虐な刑罰となりえます。そのなかでも「はりつけ、等々」に限定して、それをことさら「公務員による」「絶対に‥‥禁ずる」ことに、基本的人権の尊重という視点からどれほどの意味があるのか、分かりにくいと感じます。「公務員による」「絶対にこれを禁ずる」という表現は、刑罰の実施方法の種類ではなく、刑罰そのものの種類に言及されたときに意味をなす表現であると私は思います。
 
ところで、現在の法律でもっとも罪が重いとされるのは、「殺人罪」ではありません。そういう私人間の争い以上に、国家権力は当然のことながら国家権力自体の転覆を図った者への制裁をもっとも重視します。刑法81条に定めた外患誘致罪(外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する)とあり、これは程度に関わらず、未遂であっても例外なく死刑が適用されます。次に、 法77条の内乱罪。首謀者は、未遂であっても、死刑または無期禁固。ほかに、外患援助罪、現住建造物等放火罪、汽車転覆等及び同致死罪などで死刑の適用があります。もっとも、これらの罪の適用実例はいまのところないようでありますが、大量の検挙者が出る恐れがあり、これに冤罪の可能性を掛け合わせると、恐ろしい規定であります。
 
疑問点の二つ目は、31条で「生命が奪われる」ことがイコール「死刑」という狭い解釈しか行っていない点であります。法36条正当防衛や第37条緊急避難、警察法第2条に伴う武器使用という視点、さらに刑事施設収監中の身の安全を保障するという視点に言及しているものとして法定主義が解かれていると解釈した場合、単純に憲法31条の裏解釈で死刑制度を憲法が想定しているとの論理展開は早計過ぎると言えます。
 
疑問点の3つ目は、「人権」という概念そのもの、あるいは憲法13条との兼ね合いです。冒頭に触れたとおり、人権が保障される対象はあらゆる人間でありますが、死刑制度を認めることは生命に対する権利に例外が生じることになります。また、「公共の福祉」という概念が、国連の人権委員会との協議のなかで、きわめて限定的な解釈をすることになっていますし、死刑囚が再審を求めた場合、少なくともひとつでも合理的理由があれば、再審に応じることが生命に対する権利または幸福追求の権利であると思います。

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 http://www.geocities.jp/yossie_70/shikeiseido-hanrei.pdf 昭和23年3月12日最高裁判所大法廷判決文

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憲法第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法第三十一条【法定手続の保障】
 何人も、法律(刑事訴訟法等)の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

憲法第三十六条【拷問及び残虐な刑罰の禁止】
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する。

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 最高裁の判決文も昨今の例は論理性が疑問視される例がいくつかあって、その原因のひとつが行政枠からの任命にあることは横尾元判事の例に顕著に現れているように私は思いますが、戦後間もない時代の判例には、果たして論理性が十分であったかどうかは疑問の余地があるにせよ、ぴりぴりとした緊張感が伝わってきます。
 冒頭に引用したのが、最高裁が死刑制度を合憲と定めた判決であります。要旨は、憲法第36条で公務員による残虐な刑罰の禁止が謳われてはいるが、憲法第13条の反対解釈により「公共の福祉」に反する場合には生命の権利といえども制限ないしは剥奪されることが当然予想されていたと考えられるし、さらに第31条の論理的帰結として、法律の定める適理の手続によって、生命を奪う刑罰を科せられることが明らかに定められていると説いております。そして、第36条にいう残虐な刑罰とはその執行方法に限定され、例として火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑が示されているのです。

 この判例を国連の場で明らかにすることが躊躇われるために、歴代の自民党内閣は国連の人権委員会などと距離を置き続け、マスメディアにも国連の情報を控えさせていたのではないかと疑わざるを得ないような、今となってみれば野蛮きわまる論理展開であります。

 まず第一に、第13条の解釈にあたっては「公共の福祉」という概念が広すぎて、現在の「人権同士のぶつかり合い」の場合に限られるという解釈との間にギャップがあります。 さらに31条の解釈も、「生命が奪われること」=「死刑」という単純な発想に基づいており、「獄死」という観念が想定されていないこと。つまり、収監中も法令により生命の安全管理には十分配慮されなければならないことを示した条文であって、反対解釈で死刑を是認する内容には思えないのであります。

 極めつけは36条の解釈で文意から「公務員による」及び「絶対に」という二つの力点が素通りされていること、すなわち36条の趣旨は前憲法の下で圧倒的な権力を有していた公務員により国民が生命の危機に曝されることの危険を回避するために定められたと考えられ、ポルポト政権下のカンボジアで多数の国民が死刑に処せられた例をあげるまでもなく、死刑制度というのはいつ国民一般に牙をむいて襲い掛かるか分からない危険な制度であるからです。現に、刑法には外患誘致罪をはじめ殺人罪以外で死刑に処すことができる条文が少なからずあり、特に外患誘致罪にいたっては未遂であっても例外なく死刑であり、しかも裁判員裁判にゆだねられるという驚くべき内容となっています。憲法とは、このような国家の暴走行為を食い止めるために存在するものですから、最高裁の解釈は完全に間違っているといわざるを得ません。

 参考までに、2008年1月1日付であらゆる犯罪に対する死刑を廃止した国が91ヶ国、戦時の逃走、反逆罪などの犯罪は死刑がありそれ以外では死刑を廃止したという国が11カ国、法律上は死刑制度を維持しているが、過去10年以上死刑を実施していない、若しくは死刑を執行しないという公約をしている国が33ヶ国、過去十年の間に死刑の執行を行ったことのある国が61ヶ国となっています。

死刑制度の倫理と論理

 身の回りの人たちに対して死刑制度に関する話題を仕掛けてみると、10人中9人は死刑制度に対する信頼感でいっぱいのようです。理由を聞いてみると、口を揃えたようにこう言います、「殺人を犯した人間が死刑になるのは当然だ」と‥‥。そして、そのほとんど100%の人が冤罪についてあまり関心を持っておられません。

 私の勝手な推測では、死刑制度を支持する人たちの多くは殺人という罪に対して絶対に許せないという思い(もちろん、その思いは制度反対の人々も同じでありますが)が強く、その思いには次のような特徴があると思います。

 死刑制度反対派の人間も同じ思いを持っているにもかかわらずその思いが死刑制度に対する信頼感に結びつかないのは、反対派の人々に倫理的な振り返りが不十分なためであり、被害者の心情に思いが及ばないからだと解釈しているのがおもな特徴です。

 さて、それが誤解だというのはたやすいのですが、死刑制度反対派の人々には賛成派の人々を納得させるだけの包容力を持って論理展開していくことが求められていると思います。なぜなら、賛成派の人々は倫理的な答で十分だという前提に立っており、せいぜい抑止効果という仮説の一つを無批判に受け入れているに過ぎないからで、私たちはそこに論理性を膨らませるという作業をしていかねばならない以上、それなりの順序をふまえることが大切だと思われるからです。たとえば、国際的な潮流から乗り遅れているとか、憲法上疑義があるというようなことは、通常相手に対して説得力をもつほどの理屈ではないと考えられます。

 むしろ、死刑制度の矛盾点をクローズ・アップさせるような話題、たとえば暴力団にはあまり死刑判決が下りないとか、あるいは今回、再審への道が開かれつつある袴田事件について継続的に話題にしていくとか、現実と倫理との隙間を知っていただく取組が必要じゃないかと思います。

 また、公的な世論調査は単に支持者が多いとかいうような大雑把なものではなく、どういう層に多いかとか憲法に関する意識などとクロスさせた分析が可能なものが必要であると思います。

 ところで、冒頭に掲げた「殺人を犯した人間が死刑になるのは当然」との価値観はどこで養われたのかというと、日本独特の勧善懲悪志向がテレビの報道番組や刑事ドラマ、時代劇などにより繰り返し増幅され、刷り込まれていった結果ではないでしょうか。そのため、社会常識は憲法が予定した民主的価値観になかなか到達できずに停滞を続けてきたわけで、これには法務省の憲法啓発が極めて不熱心にしか行われなかったことなども一因となっているかも知れません。

 また、冤罪に関心が集まらないのは国会で冤罪を十分に総括しておらず、法的整備を怠っているためではないでしょうか。

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