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この試合は、1973年2月14日、私が高校生の頃行われた。当時のアリは、ジョー・フレイジャーとの因縁の対決に敗れ、再起をはかるべくランカーたちと10回戦を戦い続けていた時期で、アリ神話が崩れ最も苦しい戦いを強いられていた頃であった。ジョー・バグナーは当時の欧州ヘビー級チャンピオン。イギリス国籍の2m近い大男であったが、軽いフットワークにのせてワンツーを主体とした攻撃はシンプルだが、スピードとパワーがあるだけに侮れなかった。この試合は12回戦で行われているので、何らかのタイト
ルがかかったものであったようだ。
リング上で相対峙する2人を見比べてみるとアリの方がひとまわり小さい。クラウチング風に構えてはいるが、はじめは距離をとってバグナーのワンツーをスウェーで外し、ガードが下がった瞬間瞬間を見逃さず伸びのあるジャブを当てていく。切れ味抜群のジャブだ。バグナーの方はノーモーションのアリのジャブについていけず、カウンター気味にこれがヒットする。かたやバグナーのワンツーはスピードはあるけれどもテレホンパンチ気味で、アリにすっかり読まれている。アリのクロスもよく当たる。4ラウンドを過ぎた頃には両者の実力差が歴然として、ワンサイドの展開となってくる。
私はKOこそ逸したものの、このバグナー戦はJ.フォアマン戦と並んで、絶好調のアリを見ることができる、最高の試合のひとつだと思う。
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秋吉敏子の若い頃の傑作に、前夫のチャーリー・マリアーノを加えたキャンディッド盤「トシコ−マリアーノ・カルテット」(1960年12月5日録音)があります。メンバーはほかに、ジーン・チェリコのベース、エディー・マーシャルのドラムス。後年、ビッグ・バンドの演奏をはじめ機会あるごとにレコーディングしているトシコのオリジナル、「(トシコの)エレジー」と「ロング・イエロー・ロード」がはいっています。
マリアーノのオリジナル「リトルT」ではジーン・チェリコのユニークなベースラインに聞き惚れていましたが、ベース・ソロになるとアルトもバッキングに加わって、アレンジの妙というか、とても丁寧な音づくりがされていると感じました。全般に、メンバー全員の演奏技術が非常に高く息の合った演奏を聞かせますが、特筆すべきはマリアーノのアルトの素晴らしさ。ひところはパーカー・イディオムに忠実なアドリブ・ラインが身上でしたが、このころになると、まるでダイナ・ワシントンのボーカルのようにソウルフルでメロディアス。「ロング・イエロー・ロード」でのソロは、後年ビッグ・バンドでゲイリー・フォスターがとったアドリブも印象的でしたが、マリアーノの演奏はそれより15年も前の演奏。テーマが終わってインプロビゼーションに入る、その入り方は並みのセンスではありませんね。 ピアノについては、今更言うまでもないことですが、ワンダフル!
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「陸山会事件」の控訴審で無罪判決が出た。新聞報道によると「小沢代表が石川議員から細かな説明を受けなかったため、4億円記載の必要性を認識せず計上の先送りも適法と考えていた可能性がある、として一審同様に違法性の認識を否定し、共謀はなく無罪だと結論づけた」としているが、検察側・弁護側双方の証人として出廷した専門家によれば、そもそも「計上の先送り」自体が適法なのであって「動機は関係ない」と述べている。この証言を高裁も軽視しており、その点不満は残るが、石川氏が小沢氏にその都度ことこまかに報告していたわけではないという会計責任者と国会議員とのありふれた関係を認めたことなど、一審の地裁判決以上に指定弁護士側に厳しい内容であったようだ。
それにしても、新聞社はこの期に及んでもまだ真摯な報道をしようとしないのであろうか。西日本新聞は1面記事の中で、「小沢氏に再び無罪」「上告困難見方強く」の見出しで、事実を伝えるよりも先に上告の可能性に関する記事がくどくどとあり、社説に至っては「“勝者”なき無罪判決」などとぬけぬけと記事にしている。「政治とカネをめぐる裁判は“勝者”不在のまま決着を迎えるのか」などというが、無実であることが証明され、日本の政治の一翼が健全であったことが報道機関は嬉しくないのかと逆に問いたい。本来これは喜ばしいことではないか。それとも新聞社は、この社会に犯罪や事件の多発することを望んでおられるのだろうか。
あえて、疑いを持ち、非を正す必要があるのは、検察審査会の方である。検察が審査会をミスリードした疑いや審査会が行われなかったときがあるのではないかという陸山会の「期ずれ」などよりもはるかに犯罪性の高い問題が浮上しているではないか。そして一人の政治家が事実上政治活動を長期間にわたって停止させられた本件に対して、各党小沢氏の説明責任などと頓珍漢なことを言っていたことにたいする「説明責任」を果たす必要がある。 また、小沢氏が「民主党を去って影響力を失いつつある」などと、まるで人ごとのように言うが、なんの反省もなく小沢氏を過去の人扱いする神経が異常だ。まだまだこれから十分活躍できるのに、そういう扱いをするのは、「国民の生活が第一」を無視することによって葬り去ろうという魂胆だと思う。だが、それよりも既成メディアこそが葬り去られようとしている。
今回の裁判が不満な点も残しながらも、かろうじて人権と民主主義を守れたのは、インターネットの良い面が作用したことは間違いない。八木啓代氏がラテンアメリカの例を巧みに引きながら「動かす社会」(共著:東京書籍)のなかで、リアルタイムメディアの威力を紹介している。彼女の懐の深さには驚くばかりだ。
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「同和、同和と言うから差別はなくならん」‥‥いわゆる「寝た子を起こすな」論です。これに対して、太政官布告(いわゆる解放令1871年)以降、同和対策審議会答申(1965年)までの約100年間、行政は目立った活動をしてこなかった、すなわち寝た子を起こさずにいたわけでありましたたが、それによって差別がなくなったわけではもちろんありません。部落差別は親から子へ、そして孫へと世代間で継承されてきたのです。ましてかつての興信所や探偵社にとっては差別があるから仕事(身元調査)が入るというという側面が有り、みんなが同和問題を話題にしなかったら差別がなくなるという発想がいかに現実離れした無責任な発想であるかがわかります。
そもそも同和問題を解決しないで、忘れ去ればよいではないかという発想には、たとえ深刻な社会問題であるとは言え、その問題を直視せずに逃避することによって幕引きを図ろうという姿勢であって、自分の視界に入ってこなければ良いという姿勢でもあり、「臭いものには蓋」という、社会に対して責任を持とうとしない姿勢につながっており、そればかりかナチスの「ホロコースト」や「ハンセン病患者に対する隔離政策」にまで繋がっていく危険極まりない発想であるのです。
もし「いじめ」問題のことを誰も話題にしなくなったら、いじめはなくなるでしょうか。もし、セクハラのことをどこも報道しなくなったらセクハラはなくなるでしょうか。直接事件に関係しない人の目の前からはなくなるかもしれません。でもそれは解決したわけではもちろんなく、単に水面下に潜っているだけで、多くの人が無関心になっただけです。
差別や虐待を受けていることを公の場で明らかにすることはとても勇気のいる行為です。彼らの多くは自分を肯定することがむずかしく人間としての誇りがずたずたに傷ついているからです。
今では、「部落差別」にしろ「セクハラ」にしろ「児童虐待」にしろごく普通に使っているコトバですが、ここに至るまではいろんな人たちの犠牲があり、いろんな人たちの勇気があり、いろんな人たちの支援があって、はじめて社会問題として陽の目を見たという経緯があります。そんな関係者の努力の結晶を省みることなく、「寝た子を起こすな」論‥‥私には両者のギャップが切なくてたまりません。
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人権啓発なんて、いつまでやるつもりなの?「いじめ」問題にしろ、何も変わんないじゃない‥‥という指摘があります。積極的に関わりを持とうとしないでいるとそう思えるかもしれませんが、人権問題解決に向けた様々な取り組みが生まれてきているのも事実です。たとえば子どもの権利条約第19条には「虐待」を禁止する国内法の整備が謳われています。「子供の権利条約」の新しいところは、物理的な暴力にとどまらず、精神的な攻撃やわいせつ行為さらには育児放棄や怠慢についても言及してあるところです。当然、児童虐待防止法にもそのことが触れてありますし、同じような広がりが高齢者虐待や障がい者虐待についても言及されることになります。
法的な整備以外にも、たとえば1985年に森田ゆりさんによって日本に伝えられたCAP(子どもへの暴力防止プログラム)は、すでに国内で130以上の組織へと発展しておりますし、そのほかのアクションとしてはたとえばホームレスの自立を支援する「ビッグイシュー」の活動が日本にも起こっていますし、知的障がい者の自立を支援するNPOも少なくありません。
行政内部にも熱心な指導者は少なからずおられますが、行政の守備範囲を超えて行動せぬまでも、一個人としてはもう一歩外側にまで目を向けて欲しい思いが私にはあります。たとえば人権問題に関して国連の動きにまで目を向けている人のなんと少ないことか。時事問題でも、冤罪事件などは人権問題の最たるものですし、人権という概念が「人間である」ということだけを条件に成立するならば、そのことと矛盾する「死刑制度」をどう捉えるべきかなどと考えねばならない課題は山ほどあります。
そういう人権課題の中には行政として手を出しにくいものもあるかもしれません。しかし、少なくとも関心を持っておく必要があると考えます。人権という普遍的文化を構築していくためには、国内法の有る無しで業務に該当するかなどという狭い了見ではなく、せめて国連並みの感覚は持っておく必要があると考えます。 |

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