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 森ゆうこ議員のブログによると次のとおり。提出は生活の党・民主党・社民党の3党による共同提案。
陸山会事件の捜査報告書に虚偽の記載をした、東京地検特捜部の田代政弘元検事や上司の佐久間達哉元部長らを不起訴処分としたのはおかしいとして、市民団体が検察審査会に申し立てていた件で、東京第1検察審査会は4月19日付で、田代元検事に関しては不起訴不当、佐久間元部長ら上司については不起訴相当とする議決をしましたが、その後、補助弁護士に当たった人物の適格性や人選をめぐって様々な疑惑が浮上しており、あらためて陸山会事件が政治的な背景の中で進められてきた事件との印象を強くするものですが、そういうこととは別次元で法律の改正もまた求められていたものでした。

最近の私

 2月にやっと手に入れたクラウド・レイキーの4*4.ことのはじめはメイヤーのリガチャーがネジを締めすぎて破損したのでした。それからバンドーレンのマウピにしてみたり、後先考えずベルグラーセンのメタルのマウピをネックにつっこんでコルクを台無しにしたり、レイキーの5*3にしたりした結果、楽器が修理から上がってきた先週末から、レイキーの4*4でも結局使いこなせなくて、先ほど持っているマウピを取り替え引き返してやっと決まりました。メイヤーのマウピにウッドストーンのリガチャー‥‥振り出しに戻ったfというワケ。
 それにしても、ひところから比べるとますますコントロール不全におちいっている私の演奏。大体が曲になっていないのです。そろそろやめどきじゃないかとも思いますけれど、ゴルフもパチンコもやらない私です。ねばりづよーく、出番が回ってくるのを待つこととしましょう。

 それと、最近は人権に関する記事も滞り気味になってきた私のブログ。正直言って、パソコンを打つのが苦痛になってきました。パーキンソン病もきつなってきました。
 長年、探し求めているジャズの名演奏や名唱の中で、30年以上も探し求めて未だに見つからないテイクがあります。エラ・フィッツジェラルドの「マイ・ファニー・バレンタイン」がそれです。エラはこの曲を何度か録音しているようで、これまで「JATPライブ・イン・ジャパン」「シングス・ザ・ロジャース・アンド・ハート・ソング・ブック」「ライブ・アット・ミスター・ケリーズ」のテイクは確認しましたが、そのいずれでもありませんでした。

 ことのはじめは、昭和50年だったと記憶していますが、京都で学生時代を過ごしていた頃、FM放送でエラとアニタ・オデイとの聴き比べをするという企画の中で最後に流れたナンバーだったのです。ライブ録音でそれも「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」と2曲続けてうたわれましたが、曲間で聴衆に「サンキュー、アリガトーゴザイマシター」と礼を述べているところを見ると、日本でのライブの可能性もあります。編成はピアノかまたはピアノ・トリオのみをバックにしたもので、上記のテイクのなかでは「ミスター・ケリーズ」のテイクがもっとも幻のテイクに近くなってきていますので、早くても1958年、おそらくは60年代から70年代にかけて歌われ、録音されたものだと思います。

 これまで情報を下さった方々に感謝申し上げますとともに、これからも情報提供をお願い申し上げます。
 人間の想像力の限界というのは少々オーバーな表現であったが、人間が陥りやすい錯覚というものがある。たとえば、宇宙の誕生したのはどれくらい前かとか宇宙の広さはどれくらいかという問いかけを我々素人は簡単に受け入れているけれども、宇宙という得体の知れないものを対象にするときにはそもそもその問いかけはそれ自体錯覚に陥っていないかという確認が必要ではないだろうか。
 
 どういうことかというと、人間の発想は人間の肉体が体験したものを中心に組み立てられていて、一方で宇宙にあるものは人間の体験したものばかりではないということなのだ。たしかに、光といえども有限のスピードのなかでの世界であるということや、宇宙空間では重力から開放されるため方向の観念を同時に失うことまでならば私たちは疑似体験をしている。前者は、光でなく音が遅れて届いた体験を持っているし、後者は水中で浮力がかかった状態というのを知っている。 しかし、宇宙の「誕生」というとき、宇宙というものが「誕生」したものかどうかという疑問が私にはある。つまり、万物に始まりと終わりがあると考えるのは早計だということだ。
 
 始まりや終わりという発想は人間に寿命がある=人間の生涯に始まり(誕生)と終わり(臨終)とがあるためにその体験と事実にひきずられている可能性があり、宇宙に大きさ(限界)があるというのも、人間の目に見えるものにはみんな大きさがあったという事実に影響されていると疑われる。                                                                       逆に言えば、もし原子がものを考えているとしたら、様々の分子化合物やその共同体組織としての生命体が「死」を迎えたならば、各々の原子は生命体としての体験(=思考的限界)から自由になり、宇宙へ帰っていくのである。時を経て原子のうちあるものは再び輪廻のごとく結合と分解を繰り返す。「死」を迎え宇宙へ帰る原子のさまは、あたかも「神の国」に霊魂が呼び戻されるかのような印象を持つのである。
 
 大きな嘘ほどバレにくいという。さしずめ本文は、いくつかの思いつきを乱暴に縫い合わせただけの代物で、大ボラのたぐいである。このような無責任な文章はあまり人目にふれぬ所で一種のジョークとして物好きな人々の目に止まれば十分である。
 夢野久作が考えたように、モノを考えているのが脳ではなく、個々の細胞であるとしたら、あるいは原子それ自体がモノを考えているとしたら、いったいどういうことになるのだろうか。細胞だとしたら、もし仮に片腕を切断した場合、片腕を失った肉体も、切断された片腕の方もそれぞれの細胞が生きている限りにおいてはそれぞれ独立してモノを考えているということになる。原子だとしたら、ある人が死亡して焼かれて灰になったとしても、原子それ自体は生きているから、死んだ後も生き続け、物事を考えることも可能である。しかし、その人の肉体からは自由になるから、考え方もずいぶん変わってくることになろう。

 どうして我々は脳がモノを考えると思い込むようになったのであろうか。それは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚が頭部に集中し、それらの情報収集器官の近くに思考器官があったほうが合理的であり、特に視覚は思考器官から見た外界の様子が見えることが思考器官を危険から守るうえで、重要だと考えられていたからではないだろうか。しかし、動物の中にはイカやタコ、ミミズのようにどこが頭でどこが目なのか判別しにくいものもいるが、そういう疑問に対しては人間は根拠もなく、それらに下等動物のレッテルを貼り付け、門前払いにすることで疑問の根を断ち切ったのである。

 しかし、私はそれに対して別の証人を用意した。それは植物である。植物は成長もするし進化もする。それは植物自身の「意思」によって行われると、私は考えたのだ。しかし、植物には脳そのものが存在しない。植物も成長している以上、また生命体である以上、「意思」や「意識」があって当然ではないか。すくなくとも、自分の存在を維持しようという最低限の意思を持っていることは、雑草がコンクリートの隙間から顔をのぞかせることでも分かる。(つづく)    

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