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しばしば「権利」の反対語が「義務」であるという言い方が当然のようにされます。たしかに、私法契約上の債権債務関係においてはそのとおりであって、その場合、原則として民事に対して国家は不介入であり、民事間の争いが生じたときにはじめて第三者的立場としての国家が司法という形で登場するというのが建前でありました。ところが、同じ権利であっても「人権」はかなり様相が異なってきます。個人対個人という側面以上に国家(自治体を含む)対個人という側面が重要になってくるからです。
基本的に法が法として機能するためには、法を破ったときのペナルティが約束されていることが前提となっており、そのために警察機関に武器の携帯・使用を段階に応じて認めるなど物理的なコントロールを合法的に行えるものとし、法律に実効性をもたせております。これは憲法であっても同様で、憲法が実効性を持つためには、なにがしかの強制力を持った機関の存在はやむをえないものと考えられます。具体的には警察や場合によっては自衛隊がその役割を担っていると考えられますが、問題は強制力が暴力装置となって国民に襲い掛かる危険があるということです。そのため、憲法は暴力装置を内在したものとして国家や自治体を捉え、憲法自身の最高法規性を保ちつつ国民の基本的人権を国家に対して(!)保障するという立場をとっております。
しかし、国家はあたかも国家対個人という問題が存在しないかのようなポーズをとりがちで、国家が第三者的にしか関わっていないと思わせるような演出をしていきます。たとえば法務省には、特別機関としての検察庁を擁することからも明らかなように取締りの機関としての側面がある一方で、人権擁護の機能を併せ持つ機関であります。これら相反する二つの機能が1省の中に存在することには長所もあるのかもしれませんが、内部でどういう論議が交わされているのか、はたして法務省の人権擁護機能は実効あるものとして存在しているのかどうか、外部には分かりにくく、また法務大臣という一人の人間が果たして矛盾なく司ることが可能であるのか疑問であります。少なくとも、合法的に死刑執行しているという立場からは人権擁護の側面から死刑廃止法案などを準備するということは非常にむずかしいと言わねばなりません。
ハナシが拡散してしまいましたが、要は憲法上に保障されている基本的人権とは、国家の権限と相反する概念、つまり憲法上「権利」の反対語は国家の「権限」であるといえます。マス・メディアは一足飛びに国民同士の権利と義務だけに論点をしぼって報道しがちでありますが、そういう論調は呑気を通り越して非常に危険であるということです。確かに、人権同士が衝突することもありますが、もともと「公共の福祉」という憲法上の概念は、基本的人権同士を調整するときに限って用いられているというのが通説で、第12条をはじめとして「公共の福祉」が前提とされているというのはあくまでもそういう読み方をしないと意味がないものであります。
そして、憲法上の自由と権利とが侵されるということは、とりもなおさず警察権力が暴力装置として機能することを意味します。これが裁判員法がきわめて危険な法律であるという理由であり、民主主義が急カーブを描いて反動体制に向かっているのは間違いないと思います。しかも、マス・メディアが一糸乱れず御用体制に走っていた事実や導入に至るまでさまざまな不正が政府や裁判所において行われてきたきたことを考え合わせると、単に一部の改正や運用上の改善で片がつくような問題ではないのであります。
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