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今朝のテレビのトーク番組で、コメンテイター然とした出演者が「昔の親や教師は厳しかった、よく殴られたものだ」というようなことを、まるでそれが美徳であるかのような文脈で主張していました。年の頃は30代といったところで私よりも20歳も若い世代であります。「またか」と思いましたよ。結局、その人は暴力を肯定しているんですよね。それが、暴力で教育を受けた結果ですよ。人に対して腕力を用いてよいのは、正当防衛と緊急避難のときだけだと思います。
日本人は「愛の鞭」というのが好きなようです。そこに真実を見出したがっています。本当に「愛の鞭」の場合もあると思います。それを否定はしません。でも、それって緊急避難のときに限られるし、どうしてもほかの手段が見つからないときなんだろうって思います。しょっちゅう、「愛の鞭」使ってますって、ありえるかねぇ。そこに惰性が働くんじゃないかねぇ。つまり、根本的に手抜きの子育てしてるんじゃないか、それを取り繕うために「愛の鞭」を偽装しているんじゃないかってことですよ。手抜きというのが言い過ぎなら、もっと自然体でコミュニケーションを持てばいいのにそれができていないだけじゃない。お互い、ストレスが溜まる方にばかり向かっているような気がしますよ。
勝手に、子は親の背中を見て育つ、なんて悦に入ってる場合じゃありませんよ。子どもの目は親が考えているよりもずっとシャープだからね、親は背中だけを見せているつもりでも、子どもの方は親の腹黒さまでちゃんと見てますって。
せっかく、学校教育法第11条但し書きで「体罰」が禁止してあったり、児童虐待の防止等に関する法律で18歳未満のものに対する暴行が虐待にあたると示してあるのに、マスメディア自らが法律を無視するような番組づくりをするとは(政治資金規正法だけが法律じゃないのに)‥‥。特に、全国各地で児童虐待死が起こっているというのに。
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2010年08月30日
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なぜ、人間は生まれながらにして人権を有するといえるのか。かつては、神によって与えられた(天賦人権説)とか、自然法や理性に基礎をおくと考えられていたが、現在では「人間の尊厳」にその根拠が求められるようになっているようだ。そして、今や日本においても、児童虐待防止法における「虐待」の定義やいろいろなハラスメントの事例が明らかにされることによって、人間の侵すべからざる「尊厳」というものがより鮮明となってきている。
つまり、私たち日本人が自らの人権を守ることが不得手であるがために、しばしば人権が利己主義やわがままと混同され、それがグレーゾーンとして「人権」の明確なイメージづくりを阻害してきたきらいがあった。それが証拠に行政の行う人権啓発は、長い間、「人権」=「思いやり」であるかのようなスタンスをとるところが多かった。それは、国家犯罪としての、死刑制度や冤罪の問題を回避させたのみならず、部落問題や在日の問題と自分たちの生活との正確な距離を測る作業をも結果として遠ざけ、いつまでたっても自分の問題とさせなかった根本原因であるからだ。
ところが、たとえば児童虐待の防止等に関する法律の第2条には児童虐待を物理的暴力だけでなく、わいせつ行為に関することや著しい減食又は長時間の放置、著しい暴言や拒絶的な対応、さらには夫婦間におけるDV(ドメスティックバイオレンス)をも含め規定したことで、これらが人権侵害であることを明確にした。また、専門家によってパワーハラスメントの類型が明らかにされるなかで、自分の守るべき「人間の尊厳」が次々に具体化されてきたのである。
これらの動きは、捜査官と被疑者との関係に対しても、何らかの影響を与えずにはおかないだろう。そういう意味では、取調べの全面的可視化が事例提供という意味で果たす役割は大きい。もちろん、裁判の証拠的価値や研究目的に限定されることはいうまでもない。要は、そのことによって冤罪が抑止されるかどうかが問題なのであって、数々の個人情報が飛び交うであろう取調べの「公開」を求めているわけではない。また、被疑者等の人権が守られるためには警察組織がコンプライアンスに熱心になることが大前提であって、検挙率の低迷に対して人権を無視した強引な捜査で帳尻を合わせるなどということが絶対におきないようお願いしたい。
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植物のようにひっそりと、
しかし、時の流れを味わいながら、
泰然自若として、
孤独を受けいれ、
不自由を受け入れ、
死をも受け入れる、
そんな人になれたら、
わが身を苛む病気の恐怖から、
自由になれるのだろうか。
私のたくらみは全て無駄であった
わが身を苛む病気の前には、
どのような表現も、
薄っぺらなだけだった。
人間はコミュニケ−ションの中にしか生きられないものかもしれない。
時間の中に埋没してコミュニケーションを浅はかと考えていた。
あせって追いかけても絶対に追いつかない蜃気楼。
何がくだらないって、プライドほど始末の悪いものはない。
プライドのために頑張るのはもうやめだ。
植物のようにナチュラルに、
自分を売り込むことなしに、
コミュニケーションを楽しもう。
そこに愛を見つけられたら素敵じゃないか。
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