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私はかねがね郷原信郎氏のものの考え方というかスタンスの置き方がとても新しいと感じていて、今日もそういうことがあったので舌を巻いているところです。
「全面的可視化」か「一部可視化」かという議論で、後者だったらまったく意味がないと私を含めた多くの人が考えてきました。郷原氏ご自身もそういう発言をされたことがあります。
しかし、郷原氏が只者でないと感じる点は、さいきんのツイートに書かれた次の内容です。
「『一部可視化』は、一度録画した画像はすべて記録として残り開示される、というのが大前提だと思います。やり直しが可能であれば意味はありません。」
私の素人考えでは、彼が万が一にも一部可視化の方向で決着がついてしまった場合の事を考えて、実に効果的な条件を布石として提示したように思えます。もちろん、全面的可視化のほうがよいに決まっているとは思いますが、一部可視化であっても画像および録音がすべて記録として残されるならば、やり直しがきかないということになります。特捜部の描いている絵のとおりにはいきにくくなりましょう。たとえば、これまでは検察側の一方的な「権限」に裏打ちされた中で筋書きを強引に作ってきたけれども、これからは供述で何が飛び出すかわからない。調書が証拠採用されるとも、証拠として申請できる代物になるかどうかさえも分かりません。取調べをそういう対等とまではいかなくても、一方的な力関係が許されない緊張関係の中でやらされるとなると、検察側にとっては相当なプレッシャーとなるでしょう。予算的な面や関係者のプライバシー保護を口実に一部可視化で押し切ろうという意見が法務省や検察当局のなかで仮に多勢であったとしても、一部可視化を検察だけの武器にはさせないという強い意思が伝わってきます。
郷原氏の柔軟だけれども非妥協的なスタンスのおき方には学ぶことが多いと感じています。
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2011年02月21日
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話題としては少し遠のいてしまった感のある鳩山前首相の「方便」発言ですが、鳩山氏の発言はいうまでもなく「本音」であります。そして、これを批判する意見の多くは「建前」で論じられております。それが悪いといっているわけではなく、いちど「本音」として飛び出してしまった言葉の分析の仕方そのものはいくとおりかあってもよいのではないかと思います。首相の言葉としては軽すぎるということを何百万人の人たちが何十回声高に叫ぼうが、たった一つの見方でしかありません。たしかに、軽すぎるとは私も思いますが、要は結論がそこどまりであるのか、ほかの論理へと言及される余地を残しているのかということです。
このことについて、保坂展人氏がブログにたいへん鋭い意見を述べておられます。以下、転載します。 |
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