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私は自分の行いが数多くの過ちを重ねてきたことを認めたうえで、それでもなお自分自身が好きかと自問したら心の中では「好きだ!」とはっきり答えるだろう。いま私は「自問したら」「心の中では」などと慎重な言い回しをしたけれども、たぶん社会は数多くの過ちを重ねてきた人間が自分自身を好きだなどと「公言」しようものなら許そうとしないだろうという予感がしたからだ。このように、私たちはいつの間にか人間の言動に対して、自尊感情さえ認めまいとする手厳しい社会を作り出している。
ところで、日本には「人生はそんなに甘くない」という常套句がある。これは検察官や警察官によって取り調べのときによく使われることが知られている。12月15日に東京地裁で開かれた、小沢一郎被告の公判の際も石川知裕衆院議員やその秘書を取り調べた田代検事が参考人として女性秘書を「聴取」した際に、秘書の正当な権利に基づく要求を拒絶するのにこの常套句を使ったというが、この表現には理屈抜きで相手を屈服させようという独善性と自らの不正を覆い隠そうとする欺瞞性とが同居している。にもかかわらず、これが常套句として通用しているということは、それだけ巷に流布しているポピュラーな言い草の中には、より権力をもつ側――官憲から一般民衆に対して、男性から女性に対して、大人から子どもに対して、加差別者から被差別者に対して――を一方的に正当化する表現が、いわゆる差別表現ならずとも存在するのではなかろうか。
いずれにしても、このように理由のはっきりしない厳しさや排他的な厳しさというものは、回りまわって自分に向けられる。間違いを重ねた人間といえども、可能性を持った存在として見詰め合うやさしさがあってもよいと思う。厳しさを強いる者も、強いられる者も生命あるもの、厳しさの行き着く果てが憎しみだけのヒステリックなものだとしたら終わりが見えない。厳しさの中にもやさしさをもつ心が社会に弾力性を持たせる。
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2011年12月18日
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