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まずは11月16日の判決文からの引用です。
裁判員制度は,裁判員が個別の事件ごとに国民の中から無作為に選任され,裁判官のような身分を有しないという点においては,陪審制に類似するが,他方,裁判官と共に事実認定,法令の適用及び量刑判断を行うという点においては,参審制とも共通するところが少なくなく,我が国独特の国民の司法参加の制度であるということができる。それだけに,この制度が陪審制や参審制の利点を生かし,優れた制度として社会に定着するためには,その運営に関与する全ての者による不断の努力が求められるものといえよう。裁判員制度が導入されるまで,我が国の刑事裁判は,裁判官を始めとする法曹のみによって担われ,詳細な事実認定などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために,法に関する専門性が必須であることは既に述べたとおりであるが,法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ。刑事裁判のように,国民の日常生活と密接に関連し,国民の理解と支持が不可欠とされる領域においては,この点に対する配慮は特に重要である。裁判員制度は,司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが,それは,国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することによって,相互の理解を深め,それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる。その目的を十全に達成するには相当の期間を必要とすることはいうまでもないが,その過程もまた,国民に根ざした司法を実現する上で,大きな意義を有するものと思われる。このような長期的な視点に立った努力の積み重ねによって,我が国の実情に最も適した国民の司法参加の制度を実現していくことができるものと考えられる。
判決文にふれる前に、もう一度、この法律が出来た当初の社会背景を示す国会の場でのやりとり(2009年4月3日衆議院法務委員会における森法務大臣の川内委員に対する答弁)を確認しておきましょう。この法律に関して、当時立法事実(この法律を必要とするような社会的背景)はなかったということです。したがって、国論を二分するような危険を冒してまで、今となっては、続ける必要があるのか、ということです。それと、私たち国民は冤罪等により基本的人権が侵される危険があることも併せて考えていく必要があり、「迅速さ」「分かりやすさ」のほかに、これまで以上の「正確さ」を刑事裁判に求めていかなくてはなりません。
さて、判決文には論理的な展開が必要と思われる箇所で、あっさりとした修辞により論理を飛躍させている部分があり、全体としては論理展開に無理があると思います。
たとえば、事実認定と法に関する専門性について、最高裁は、法に関しては高度の専門性が必要であるが、事実認定に関しては専門性を必要としないという立場でした。そうすると、「法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ」とは、事実認定のことを言っているのか、法に関する専門性をいっているのか、非常に分かりにくい文であります。もし、事実認定のことを言っているのだとすると、被告(裁かれる側としての国民)の防御権は侵害されないのかという疑問が残りますし、「時に国民の理解を困難にし」ているものを裁判員に判断をゆだねていることになります。一方、法に関する専門性であるとすれば「感覚から乖離したものになっている」のは法に関する専門性になるわけですから、裁判員の権限として法に関する専門性が求められてきます。
そこで問題になるのが、「法に関する」というのを法解釈と法の適用とに区別して、専門性を有するのが法解釈であって、法の適用には専門性が必要でない、という解釈が可能かどうかという点です。これに関しては、裁判員法第1条にある法の趣旨、「国民のなかから選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」ことが、どの程度のものを想定しているのかということと微妙に関連してきます。法解釈についての専門性を身に着けていないならば、法の誤用などをチェックする機能が裁判員制度に新たには設けられていないことになるのではないでしょうか。結局、被告(裁かれる側としての国民)の防御権が裁判の迅速性および分かりやすさと引き換えにされているならば、国民が裁判員として参加することの意義として残るは量刑の問題だけということになるような気がします。
したがって、裁判員の多くが熱心かつ誠実に取り組んでいる現実があるにせよ、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」として、「裁かれる国民」にとって期待できるはずの司法に対するチェック機能がシステムの上でなおざりにされているとしたら、国民にとってメリットはきわめて低く、一方、景気の回復に、また冤罪事件の多発に国民が不安感を増している中で、裁判所にとっても量刑判断の重苦しさを一般の国民とで「分かち合う」ことに、いったいどれだけの意味があるのでしょうか。
文中、朱書きの部分は1月4日21時に加筆したものです。
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昨年の11月16日に最高裁が下した裁判員法の「合憲」判決。「国民の司法参加」にはいろいろなバリエーションがありうるから、一概に憲法違反であるとは言えません。ただし、こと、裁判員制度は国民に新たな義務を課しており憲法第13条の国民の自由を侵害しているために、憲法に違反していると考えています。裁く側には「国民の司法参加」を認め、裁かれる側の「国民の司法監視」たとえば取調室の全面可視化などは一向に進まず、また数々の再審請求も難しいなど、裁判所の独善性が進行しています。
また、裁判員制度は、第18条の「その意に反する苦役」に該当する場合があると考えております。この点に関して、判決文には次のように記されています。
裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示し
ていると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,29条2項)。 これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる「苦役」に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。 まず、「裁判員の職務等が参政権と同様の権限である」という論理展開について。最初に違和感を覚えたのは「権限」という言葉の用い方についてです。大辞泉で「権限」という用語を引くと、次のように書かれています。「1 国家や公共団体が、法令の規定に基づいて職権を行うことのできる範囲。2 代理人や法人の機関が、法律または契約に基づいてなしうる権能の範囲。3 個人がその立場でもつ権利・権力の範囲。」とあり、「権利」そのものとは異なる概念です。さらに、憲法上では、国民の持つ「権利」(rights)と国家や公の機関の持つ「権限」(authority)を使い分けております。「参政権」については憲法第15条1項に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と謳っているとおり、「権利」(rights)であることは明らかです。しかし、裁判員の職務等は国家の統治機構の一端をなすものですから「権限」であります。つまり、この「裁判員の職務等が参政権と同様の権限である」という表現は、大変たちの悪い二枚舌的表現です。
次に、裁判員法第16条の「辞退事由」、同条八号に触れた部分について一言。辞退事由が設けてあるということは、本人の自由意志で辞退できないことを意味しており、その辞退できない者について、「意に反する苦役」かどうか判定しないことには、全く意味を成しません。また、同条八号に掲げてある事例は、むしろこれほど辞退が認められる幅が狭いことの証であって、これで事足りると判断している最高裁の「市民感覚」は驚くべきものがあります。いちばん裁判員を必要としているのは最高裁ではないでしょうか。それに加えて、日当を出していることに言及している部分は、言わずもがなのことまで判決の一部になっていることが驚きでした。いずれにしても、苦役と感じるかどうかは、それぞれの国民が個別に感じるものでありますから、それを裁判所が一律に判定しようとすることこそ、十把ひとからげにどんぶり勘定で対応しているもので、ここでもまた憲法第13条の「個人の尊重」が軽視されているといわざるを得ません。
次回に続く。 |
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