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夢野久作が考えたように、モノを考えているのが脳ではなく、個々の細胞であるとしたら、あるいは原子それ自体がモノを考えているとしたら、いったいどういうことになるのだろうか。細胞だとしたら、もし仮に片腕を切断した場合、片腕を失った肉体も、切断された片腕の方もそれぞれの細胞が生きている限りにおいてはそれぞれ独立してモノを考えているということになる。原子だとしたら、ある人が死亡して焼かれて灰になったとしても、原子それ自体は生きているから、死んだ後も生き続け、物事を考えることも可能である。しかし、その人の肉体からは自由になるから、考え方もずいぶん変わってくることになろう。
どうして我々は脳がモノを考えると思い込むようになったのであろうか。それは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚が頭部に集中し、それらの情報収集器官の近くに思考器官があったほうが合理的であり、特に視覚は思考器官から見た外界の様子が見えることが思考器官を危険から守るうえで、重要だと考えられていたからではないだろうか。しかし、動物の中にはイカやタコ、ミミズのようにどこが頭でどこが目なのか判別しにくいものもいるが、そういう疑問に対しては人間は根拠もなく、それらに下等動物のレッテルを貼り付け、門前払いにすることで疑問の根を断ち切ったのである。
しかし、私はそれに対して別の証人を用意した。それは植物である。植物は成長もするし進化もする。それは植物自身の「意思」によって行われると、私は考えたのだ。しかし、植物には脳そのものが存在しない。植物も成長している以上、また生命体である以上、「意思」や「意識」があって当然ではないか。すくなくとも、自分の存在を維持しようという最低限の意思を持っていることは、雑草がコンクリートの隙間から顔をのぞかせることでも分かる。(つづく)
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2013年04月15日
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