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アフリカ系アメリカ人が合衆国の歴史に登場するのは、1908年12月26日にジャック・ジョンソンがボクシング世界王者で白人のトミー・バーンズをナックアウトして、黒人最初の世界王者になったときからであろう。ジャック・ジョンソンのボクシング・スタイルはスタミナを温存しながらカウンターで相手にダメージを与え続け、後半に勝負をかけるというクレバーなものであったらしい(wikipedia「ジャック・ジョンソン」より)が、白人の保守層がおよそ平等という価値観を認めようとせず、奴隷制時代の慣習を多分に引きずっていた暴力的な時代にあって、そのように危険な白人たちの憎しみを逆なでするような言動がジョンソンの特徴であった。
1930年代になるとジョー・ルイスが史上二人目の黒人王者として登場する。ジョー・ルイスが白人層にも受け入れられた背景には、反ナチズムで合衆国が統一していた中にあって、ドイツ人の実力者、マックス・シュメリングが敵役として、一方、ルイスの方は正義の使者として、合衆国の正義がドイツの無法を駆逐するという構図の象徴として、アメリカ人の自尊心を満足させるものであったのだ。もっとも、この手の演出には、真実よりも民衆の希望的観測の方が重んじられ利用されがちだ。マックス・シュメリングはドイツ人であっても反ナチス主義者であったが、そのような真実は無視されてしまっていた。
1930年代のヘビー級は、とにかく筋骨隆々とした大男たちが次々と登場する。腕っ節に物を言わせて一角千金を夢見る彼らにとって、拳闘とは拳骨を振り回す商売であって、それ以上でもそれ以下でもない。彼らから見ると、ジョー・ルイスはいかにも弱弱しく見える。187センチの身長は決して小柄ではないが、193センチのエイブ・サイモン、199センチのバディ・ベア、205センチのプリモ・カルネラに比べれば、いかにも小さく見え、しかも撫で肩で、荒っぽさの少ない慎重なファイティングスタイル、威圧感のない顔つき、ジャブを中心にした攻撃パターンなど、拳闘を制するにはまずは腕力という旧来のボクシング観をもった人間たちにとって、ルイスがチャンプでいてくれる間にタイトルをいただかない手はないと考えるほど、絶好のカモと受け取られても仕方がなかった。
しかし、ジョー・ルイスのボクシングには、黒人の解放に向けたプログラムが見事な完成度をもって織り込まれていた。ルイスのボクシングが表現したものは、「合理的に考えろ。われわれを長らく縛ってきたものは、実体のない演出に過ぎない。演出にだまされるな。それが見抜けたら、突破できる。俺が、バディ・ベアをノック・アウトしたようにな。」まるで、そう語っているようだ。無駄な肉を落としたルイスにとっては、エイブ・サイモンやバディ・ベアの隆々たる筋肉ですらパンチからスピードとキレを奪う非合理的な所産であり、馬鹿げた演出に過ぎなかった。
ルイスのパンチは相手をぶっ飛ばすような重いパンチではなく、相手の急所を「打ち抜く」パンチだった。肩を怒らせるのではなく、むしろ肩の力を抜き手首のスナップを重視した。ルイスはジャブを中心とする現在のボクシングスタイルを確立したのみならず、ジャブの引き手にあわせて右ストレートを打ち込む技、すなわちクロスカウンターをも習得していた。左は多彩で、ジャブのほかにフックやアッパーを使った。要するに、シュガー・レイ・ロビンソンやモハメド・アリに通じる技術の多くは、ジョー・ルイスによって完成されていたのだ。ジャック・ジョンソンの王座が白人の手に渡って22年。ここに黒人たちは、ただ沈黙していたわけではないことが証明された。静かに、だが確実に変化を迎えていた。
ジョー・ルイスが1937年6月ジム・ブラドックを倒して黒人の高度な技術が証明されて10年もたたないうちに、今度はスイング王ベニー・グッドマンの君臨した音楽業界で若い黒人たちがまったく新しいスタイルの音楽を生み出していった。高度の演奏技術と新しい感性に基づくその音楽は、多くの白人の評論家にとって理解しがたい音楽であった。ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーらによって発展していったその音楽が、ジャズジャーナリズムの無理解にもかかわらず、やがてジャズの主流となる。後年、モダンジャズと呼ばれたこの音楽は、ミュージシャンたちによって起こされていった。
歴史は作られていく。演出されているものとそうでないもの、信じることと疑うこと、沈黙している間に、いろんなことが整理され、前に進むのだ。終わったのではない、たとえ沈黙がどれほど長かろうと。
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よっしー拳闘研究所
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モハメド・アリのボクシング・スタイルは、多くの黒人にとってテキストとなっていった。しかし、白人の中にアリ・スタイルを見出すことはあまりなかった。これは、モハメド・アリの存在そのものが黒人社会にとって解放の原点とも言うべき希望に満ちていたからではないか、そしてアリ自身がシュガー・レイ・ロビンソンの姿に学んだと同じように多くの貧困な少年たちに、一条の光として差し込んでいたのだと思うとき、アリの肉体を通して表現されたものは黒人たちに解放の暗号として伝わっていった。白人たちは、これに対抗するには、ロッキー・マルシアノまで遡る以外になかった。
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モハメド・アリにとっての天敵は、ケン・ノートンであった。もちろん、それ以外にもアリが苦戦を強いられた相手は少なくなかった。ジョージ・シュヴァロ、オスカー・ボナベナ、ジミー・ヤング、ジョー・バグナー、そしてジョー・フレイジャー。しかし、彼らは特にアリに対して力を発揮したというわけではない。シュヴァロやヤングはジョージ・フォアマンにとっても脅威であったし、ボナベナとフレイジャーとは互いに恐るべき相手だった。ケン・ノートンの場合は、もちろんデュアン・ボビック戦等で実力を証明したが、ジョージ・フォアマンやアーニー・シェバースといったハード・パンチャーには意外と早く眠らされている。ところが、アリの巧打を受けてもトラブルを生じない、アリに対して特別な強さを発揮するボクサーだった。
ノートンはアリにとって天敵であったばかりではなく、アリとの類似点もある。というよりも、アリとの類似点こそがアリ自身を苦しめていたように思えるのである。
まず、彼のフリッカー・ジャブはアリのアゴによくヒットした。アリがノートンに苦戦を強いられた第1の理由は、ジャブの打ち合いでアリはノートンに対して圧倒的優位に立つことが出来なかったからだと思う。同じくジャブを得意としていたジョージ・フォアマンのジャブがアリ戦では見事に封じられたのだから、ボクシングとは分からないものだ。
ノートンとアリの類似点の2つ目は、肘から手首にかけての返しが非常に早く威力があったことだ。そのためノートンの左フックはしばしばアリにヒットしたばかりか、ノートン得意の右のロングフックにみごとに活かされ、アリを苦しめボビックをマットに沈めた。
3つ目はフットワークのよさだ。もちろん、アリシャフルに対して、ノートンの場合は追い足が速いということになる。ノートンの半身の姿勢、しかもクラウチング・スタイルであるから、それでバランスを崩さず追い足が速いということは、いかに肩でリズムをとっているからといっても尋常の脚力や持久力ではもたなかったであろう。
ケン・ノートンがアリ攻略の糸口としたのは、アリの研究を重ね、その結果をアリ対策として捉えるのではなく、自分のスタイルに積極的に取り入れることであったかもしれない。
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悲運のフェザー級チャンピオン、ボビー・チャコン。
小柄ながらリーチは長く、体系的にはソニー・リストンや辰吉丈一郎に似ていた。
とにかく、クリーンなファイトと明るい努力家とのイメージがある。
彼の時代は同じクラスに強豪が多かった。
フェザー級時代には、ルーベン・オリバレスと2度戦い、ともにKO負け。ところがラバーマッチで、判定勝ちを収めた。
ダニー・ロペスとは1勝1敗。ともに激しい打ち合いの末、KO決着。
フェザー級時代から対戦が期待されていたアレクシス・アルゲリョとはジュニア・ライト級(今のスーパー・フェザー級)で激突。序盤はヒット・アンド・アウェイ作戦が功を奏し、チャコンが優勢だったが、深追いしすぎて逆に左フックのカウンターを狙い撃ちされ、形勢は逆転し、ダウンを奪われた末に負傷TKOで敗れた。この試合で、ラウンド終盤にアルゲリョの連打攻撃を受け、上手くかわしていたが、ゴングがなった後にアルゲリョの強打を受けてしまった。詫びるアルゲリョに対して、ちっとも気にしてないそぶりを見せるチャコン。こういうところがチャコン・ファンをしびれさせる所以。
ボビー・チャコンには、ほかのボクサーにはない人懐っこさがあった。青春の象徴でもあった。殿堂入りの式典のときだったか、かつてのライバルでもあったダニー・ロペスと会ったときは、本当にうれしそうにしていた。チャコンは誰からも好かれたナイスガイだった。
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フリオ・セサール・チャベスというメキシコで英雄視されていたボクサーがいました。ボクサーという商売は、どんなに強いパーフェクトな技術を持った選手でもいつかは倒される日がきます。しかもその日は前触れもなくいきなりやってきます。
チャベスの戦跡はその日が来るまで90戦近く試合をして無敗。8割を超える脅威のKO率は対戦者を震え上がらせましたが、それだけではなく、リング上で示す態度が人々から尊敬を得ていました。試合開始前には微笑を絶やさず、試合後の相手選手に対する労わり、さらに試合中の相手の反則にもナックアウトで借りを返すという潔さ、それらは会場の応援と共鳴して、とりわけメキシカンの熱狂を呼びました。
その日の対戦相手、フランキー・ランドールはトップコンテンダーではあったもののそれほど目だった選手ではありませんでした。ただ40戦を超えるキャリアはチャベスの半分とはいえ侮りがたく、そのうえランドールはチャベスを研究し尽くしていました。。試合は1994年の1月にラスベガスで行われました。
クロスファイトが続いていましたが、11ラウンドに転機が訪れます。チャベスの放ったボディショットをレフェリーのリチャード・スティールはローブローと判定し、減点を言い渡したのです。チャベスはこの判定に不満げでありましたが、間違いなくローブローでした。実は、チャベスの左フックはしばしばローブローになる癖があったのですが、これまであまり減点されたことがなかっただけでした。さらに、このラウンドにはチャベスの両足がそろったところをうまくワンツーで狙い撃ちされ、生涯初のダウンを喫してしまいます。終盤も終盤にきて都合3ポイントをプレゼントされたランドールは勝利を確信し、最終ラウンドを無難にやり過ごすと、スプリットディシジョンで予想どおり新チャンピオンになりました。
リターンマッチが行われたのは3ヵ月後、試合会場は同じくラスベガスでしたが、会場はチャベスの雪辱を期待する多くのメキシカンでいっぱいです。
しかし、この日のランドールは自信に溢れ、思い切ったブローを容赦なくチャベスに浴びせます。8ラウンドにまたもやハプニング。偶然のバッティングで額を大きくカットしたチャベスは、レフェリーにアピール。
ところが、この日レフェリーを務めたミルズ・レインはチャベスがサミングを主張しているものと勘違いしたのか、ランドールに減点を言い渡します。結局、試合は続行不可能ということで、WBCルールによってそれまでの採点結果による判定にもちこまれ、チャベスがチャンピオンに返り咲きました。
もっとも、この採点には多くのブーイングが寄せられました。チャベスからいつもの英雄らしさは影もなく消えうせ、一転して悪役のイメージ。それでもチャベスは悪びれもせず、「メヒコ、メヒコ」と勝利のアピールを繰り返しますが、それに応じるファンがいるわけでもないしらけムード。一方、ストレスの溜まったファンの怒りはどういうわけか、ランドールに向けられ、殺気を感じ取ったランドール陣営は走って控え室に逃げ込むという割のあわない顛末になりました。あれほどの人気と尊敬を集めた「英雄」フリオ・セサール・チャベスも、熱狂と無縁の日があったのです。
人生、良いときもあれば悪いときもある。自分で持っていたよいイメージとかけ離れた自分自身を発見するのは実にシンドイ経験。けれど、負けたら駄目です。それを体験してこそ、真のやさしさを勝ち取ることができるという信念でがんばりたい。最近、悪いこと続きのわが身を、チャベスの「あの日々」に味わったであろう失意の念と重ねてみて、明日を生き抜く糧としている私です。
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ウィルフレド・ベニテスという選手がいた。ジュニア・ウェルター級、いまでいうスーパー・ライト級で、かのアントニオ・セルバンテスを判定で破るという快挙を成し遂げたのが17歳と6ヶ月という若さであった。この試合は、ベニテスのホームで行われ、しかも2−1のスピリット・ディシジョンであったため、ホームタウン・ディシジョンかセルバンテスの油断によるものかだろうと当時の私自身にも俄かには信じがたい結果であった。最近になって、そのときの映像を確認したところ、セルバンテスは油断しているどころか、1ラウンド目からベニテスの類まれなる技術に脅威を感じているふうで、余裕なき戦いを強いられていた様子が見て取れる。
ちなみに、アントニオ・セルバンテスは日本人相手に防衛戦をしたこともある(ライオン古山・門田恭明)のでなじみも深い選手であるが、106戦して91勝(44KO)12敗3分という脅威のレコードをもっており、そのなかには後にライト級で世界王者となったロドルフォ・ゴンザレスをKOした試合や同じくエステバン・ヘススを大差の判定で退けた試合が含まれ、ロベルト・デュランとともに中南米の中量級をリードした、偉大なボクサーのひとりであり、18歳にも満たない選手に敗れたという話を俄かには信じがたかった思いも理解できよう。それどころか、現在の日本であれば児童の虐待の防止に関する法律でマッチメイキング自体、プロ活動自体が禁止されると思われ、そういう意味で当時の国際社会で下手をすれば児童相手のリンチにもなりかねない試合が何ら批判を受けなかったとも思われない事情を考慮すれば、ベニテスが年齢を偽って挑戦していたのかどうかは別としても、まだあどけなさの残るベニテスの容貌と比類なき技術とのギャップがセルバンテス側に2重のプレッシャーとなっていたことは想像に難くない。しかし、セルバンテス自身も公の記録では18歳でプロデビューを果たしており、最初のラウンドでベニテスの驚異的な技術を察知した結果、気持ちを切り替えたことであろう。
ウィルフレド・ベニテスの特徴は、まずフットワークの自在さにある。相手との距離を適正にキープするために必要な技術をこのような若さで身につけていたことは、驚嘆に値する。第2に、フェイントによるかく乱の技術であり、第3にロープ際における攻防一体となった妙技であり、さらに加えればどこまでも試合を諦めない精神力とそれを可能にする脅威のタフネスぶりであった。しかし、レナードやハーンズ、カリー、ムガビ、ハグラー、デュラン、クエバスといった選手たちと較べて、スラッガーという印象は薄い。62戦53勝(31KO)8敗1分という戦跡は堂々たるものだが、慎重な試合運びが、KO勝ちでも後半に集中させる結果となっているためであろう。
試合後、相手を称えることを忘れない好選手であった。
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