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沢木耕太郎の対談集「貧乏だけど贅沢」には、いろんな人たちが登場する。井上陽水、高倉健、群ようこ、そして八木啓代‥‥。しかし、どの対談もイマイチ面白くない。沢木の土俵で相撲を取らされているせいか、対談相手の底の浅さが際立つ格好になってしまっていた。高倉などは、ミスキャストと言いたくなるほどだった。ただひとり、八木啓代を除いて‥‥。 八木には沢木を相手に勝負を挑もうなどというケチな考えは毛頭なかろうが、なんせ話題豊富な八木、しかもその話題というのが聞きかじりというものでなく、自ら体験したことであってみればどのような形の引用もできるわけで、「旅とは何か」というテーマに落ち着かせたい沢木ではあるが、八木にとってそのような退屈な企てが関心を持てないであろうことは沢木ならずとも想像に難くない。一言で言ってしまえば、沢木耕太郎が八木啓代に食われてしまっただけの話なのだ。それでも、話題がキューバに移ったところで、ようやく接点が見え始め、半ば強引に「キューバを世界遺産へ」という結論に持って行って、ようやく幕引きとなった。
八木啓代の書くものは本当に面白い。現在、「パンドラ・レポート」を読んでいるがこれがまた面白い。
さて、オーネット・コールマンは、チャーリー・パーカー、バド・シャンクと並んで私が最も好きなアルト奏者であるが、特に私はアトランティック時代、それもドン・チェリー、チャーリー・ヘーデン、ビリー・ヒギンスと組んでいた頃が最高に好きである。やがて、ドラムがビリー・ヒギンスからエド・ブラックウェルヘ、ベースがチャーリー・ヘーデンからスコット・ラファロ、ジミー・ギャリソンへと変化、トランペットのドン・チェリーもソニー・ロリンズと共演したり、ニューヨーク・コンテンポラリー5に加入したり、チャーリー・ヘ−デンとともにリベレーション・ミュージック・オーケストラのメンバーとなったり、身の回りが忙しくなってオーネットのもとを離れていく。 いっぽう、オーネットの方は、デヴィッド・アイゼンソンのベース、チャールス・モフェットのドラムとメンバー一新し、以後、タウンホール、チャパカ、クロイドンコンサートでそれぞれ名演を残す。 本当は何がやりたいのか、バド・シャンクのボサノヴァかオーネット・コールマンの音楽がやりたいのだ。 |
よっしージャズ研究所
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「佐賀県モダンジャズ研究所」としていたのを改名しました。初心者、大歓迎。ジャズに関する質問などでも結構です。分からないときは分かる人が応えるというのもいいかなと思っています。
ジャズ・ファンのかたのコメントをお待ちしています。
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またまた八木啓代さんの著書です。
とにかく、文章がうまいっ! ジャズにはある程度通じているつもりの私ですがラテン音楽にはさっぱりで、知らない人の名前ばかり並んでいます。さぞかし、読んでてもつまらないだろうと思いきや、不思議と惹かれていくんですよねえ。それは彼女の生き方が痛快で、そしてそのことを表現する力も兼ね備えているからだろうと思います。
何よりも音楽に対する関心の持ち方が、我々とは雲泥の差というか、日本の音楽評論家たちが真っ青になりそうなくらい、音楽評論に対する真摯な姿勢が脈打っています。こういうのを読まされると、音楽評論というものがいかに学術的であらねばならないか、そして本来はとてもとても大切な役割を果たすことが期待されている職業なのだなあと実感。
八木氏は歴史的な考証を非常に重んじます。そのうえ、その土地その土地に出向くことを厭わず肌で感じたモノをミックスさせることで、立体感のあるアプローチになって、しかも八木氏自身の生活描写がほどよく絡んで面白おかしく描かれているのだから、とても読み応えのある作品になっています。
これほど、音楽というものを大事にする人がいようとは、思いもよらなかったというのが正直な感想です。中南米がアメリカからの容赦のない介入にさらされながらも、人々が持ちこたえているのは、実に音楽などの誇るべき文化があるからなのか。
それに比して、ジャズジャーナリズムが何か役割を果たしてきただろうか。あまりにも、アマチュアっぽいか、マニアックなだけのマスターベーションに過ぎなかったと私には思えてきました。
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かつて私は、バド・パウエルのノン・ペダル奏法が、ジョン・ルイスやセロニアス・モンクのペダルを駆使してシングルトーンに表情を持たせるやりかたと好対照をなしていると書いたことがあった。その考えは今でも変わっていないが、時代的要請によって多少同じような傾向を持つこともある。例えばバド・パウエルのフェバリット・ナンバーである「アイ・シュッド・ケア」におけるアプローチの変化を47年のルースト盤と56年のヴァーヴにおける演奏とで聴き比べてみた時に、後者が前者ほどの健康状態と勢いを保持できなかったことを割り引いてみても、56年の演奏が名演であると認識されるためには56年まで待たねばならなかった。同じことはモンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」についても言える。54年のヴォーグ盤の演奏と57年のリヴァーサイドの傑作「セロニアス・ヒムセルフ」における同曲とではアプローチが全く違うし、後者の演奏が聴衆に受け入れられるためにはいくつかの段階を踏んでもらう必要があった。
話が思いもよらぬ方向へ進んでしまって、このあたりで急ブレーキが必要になってきているが、ビバップの特徴的スタイルであったノンペダル奏法はかくしてジャズシーンから姿を消していった。バド自身はもとよりソニー・クラークやバリー・ハリスらのパウエル直系のピアニストたちは、リズムに対して遅れ目に乗るというやり方で個性を維持し、あるいはデューク・ジョーダンのようにタッチの強弱が生み出すダイナミズムに活路を見出すもの、ケニー・ドリューのようにオスカー・ピーターソンのようなスタイルに次第に変わっていくものもあった。
そんななか、私が注目したのはウィントン・ケリーだった。ケリーといえば、「ケリー・ブルー」の印象が強く、とくに「朝日のようにさわやかに」のイメージが強烈で、ファンキーなピアニストの代表みたいに思われている。しかし、私が注目したのは彼の微妙なタッチであった。指が鍵盤を抑えている時間がわずかに長いため、とても人間的な温もりを感じさせるということに気がついた。
そのルーツを、私はカウント・ベイシーにみる。もちろん、ピアノスタイルそのものは全く異なっている。あくまで、鍵盤と指との関係、鍵盤にからまる指の状態である。といってもピアノが弾けない私が言っているだけであるから、たかだか知れている。1967年録音のマイルストーン盤「フル・ヴュー」を聞いてそう思った。ちなみに、カウント・ベイシーの方は「カウント・ベイシー1942」というフィリップス盤を参考にした。
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Yahoo! JAPAN政策企画によると「本日の公示から12月16日の投開票までの選挙期間中は、インターネット上で特定の候補者を当選させることや落選させることを目的とした書き込みをすることが禁止され」るそうなので、大事をとって、ジャズ・ボーカルの話題でも。
ナンシー・ウィルソンという歌手のことを私は長い間詳しくは知らずにいたし、ジャズからポピュラーまで歌う姿勢に根拠のない違和感を覚え、自然と遠のいていたのかも知れません。しかし、この歳になって若い頃のナンシーの歌を聴くと、このあたりがジャズ・ボーカルのひとつの曲がり角だったのかなと思います。それまでのジャズ・シンガーといえば、ビリー・ホリデイやダイナ・ワシントンほど極端でないにしろ、アニタ・オデイにしろサラ・ボーンにしろ、クリス・コナー、カーメン・マクレイにしろ、それぞれにアクの強さがあり、それがまた魅力であったわけですが、ナンシー・ウィルソンから一種のアクのなさが個性となる時代へ入ったのかもしれません。
こういうとナンシーのボーカルを否定的に聞いているように思われそうですが、ひとことで言って大好きです。ただ、ダイナ・ワシントンやビリーやアニタほど好きになるのに時間がかかったわけではない、聞いた瞬間、ああ、いいなと反射的に思えたというだけの話です。平たく言うと、色気にやられたということかね、やっぱし。
続きまして、偉大なるエラ・フィッツジェラルドの話。
この人の歌は、それこそジャズを聴き始めて間もない人から、何十年と聞いてきたうるさがたまで、ひろくアピールするところにあります。くわえて、チャレンジ精神が旺盛なのも持ち味の一つで、お馴染みとなった「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」が、得意のスキャットをはさんで、いつのまにか「煙が目にしみる」に変わって終わるという、一流のジャズでありながらエンターテイメントの極致を切り開いたところなどがそれです。トミー・フラナガンとの呼吸もばっちりでした。
この人が、いかにすごいテクニックを持っていたかということは、かのチャーリー・パーカーをして「あんたがホーン奏者でなくてよかったよ」と言わしめたという逸話からも明らかですし、いかにアメリカ人から愛されていたかということは、モハメド・アリの誕生日(おそらく40歳の‥と思いますが)を祝うTVショーに、病身でありながらサプライズとして出演し、アリや司会を務めていたレナードはもとより、会場全体がスタンディングオペレーションで迎えたことからも分かります。偉大なシンガーでした。 |
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私はこのアルバムを30年くらい愛聽してきましたが、今まで気づかなかったことがあります。先述のCANDID盤のライナーノーツで藤井肇氏が書いていたことですが、タイトル曲の「ロング・イエロー・ロード」は童謡「七つの子」をモチーフ的に使っているという指摘です。どうりで親しみ易く感じたわけですね。
若い頃は、ここでアルトソロを取っているゲイリー・フォスターに入れ込んだものですが、その後、もうひとりのアルト奏者、ディック・スペンサーの方を好むようになりました。しかし、キャンディッド盤のチャーリー・マリアーノのソロがやっぱり最高。
ルー・タバキンのテナーは迫力はありますが、それほど好きではありません。すこし単調な印象を受けます。トム・ピーターソンや今回はバリサクで参加の名手ビル・パーキンスのレスター・ライクなソロも聞きたかったです。
2曲目「ファースト・ナイト」はフルート群とベースとの2ビート(曲は3/4拍子)による絡みにはじまるテーマ部分が秀逸。そのまま、ボビー・シューのフリューゲルホーンとベースのデュオになりやがてピアノ、ドラムス、アンサンブルが絡み重厚さを増していきます。
3曲目「オーパス・ナンバー・ゼロ」はドン・レイダーのトランペット・ソロからディック・スペンサーの艶やかなアルト、ルーのテナー
というふうに絡んでいき、最後は5本のサックスによるコレクティブ・インプロビゼーション。ちょっと、やりすぎのような気もしますが、短いながらトム・ピーターソンのテナーの音色が印象的でした。 ゲイリー・フォスターとディック・スペンサーのアルトも対照的なら、ルー・タバキンとトム・ピーターソンのテナー同士も対照的です。ビッグバンドアレンジの緊張感と日本人の根源的なふるさと観とが調和した佳作です。
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