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演奏家としてのバド・パウエルが影響を受けた先輩ピアニストのなかに、アール・ハインズがいることはほぼ間違いないと思う。ハインズが開発したトランペット奏法はシングルトーンを中心にしている点で、ナットコールと共通点があるともいえるが、同じシングルトーンでも、柔らかでメロディアスなコールは系譜的にはジョン・ルイスへとつながり、一方、硬質な音色とスピーディーな動きが持ち味のハインズは、ビリー・カイルを介してパウエルにつながってゆく。
もっとも、いうまでもないことであるが、パウエルとハインズとの間にも妥協し難い「違い」は存在するのだ。ブルースがインプロビゼーションの動機として重要な位置を占めるハインズに対して、パウエルの場合はブルースも音楽的な題材のひとつに過ぎず、しかも「異教徒の踊り」などに見られるようにコード進行上もしばしば変形がみられる。また、オン・ビートのハインズとは同じ硬質の音であっても、タッチが全然違っていて、オフ・ビートのリズムに乗って紡ぎ出されるフレージングは粘り強く、たとえそれが♭9のテンションを多用したワンパターンの解決方法であったにせよ、地を這うようなフレ−ジングは魅力である。
ビリー・カイルとは、いうまでもなく1953年以降のルイ・アームストロング楽団に在籍した名ピアニストであるが、彼もまた、シングルトーンを中心にしながらもときおり交えるブロックコードで趣味のよい演奏を聴かせてくれたものである。バド・パウエルはブロックコードの使い方がビリー・カイルによく似ている。
アート・テイタムからも影響を受けたと大抵の評論家諸氏は仰るが、私は彼の耽美的なまでのバラード演奏がテイタムの影響下で形作られたのではなく、エロール・ガーナーのどぎついバラードにビリー・カイル的な修正を施して生まれたスタイルであると思っている。もちろん、ブルー・ノートに録音した「オーバー・ザ・レインボウ」や「イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー」などは、あくまでアート・テイタムふうな曲の処理をしているだけで、以後このような演奏がなくなっていったことを思えば、この場だけのお遊びだったのかも知れない。 |
よっしージャズ研究所
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「佐賀県モダンジャズ研究所」としていたのを改名しました。初心者、大歓迎。ジャズに関する質問などでも結構です。分からないときは分かる人が応えるというのもいいかなと思っています。
ジャズ・ファンのかたのコメントをお待ちしています。
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一般に、1947年から1953年までをバド・パウエルの全盛期と見る見方が有力のようで、私もそれについては異存がない。もっとも、この時期にあってもパウエルの健康状態が常にベストであったわけではなく、レコードのうえからうかがい知ることはできないが、彼の持病であったパラノイア(統合失調症)との格闘があったようだ。
バド・パウエル研究の第一人者である佐藤秀樹氏が「ザ・バド・パウエル・トリオ」(ルーレット)のライナーノーツに書いた文章から引用してみると、「病院には若い頃から何度も入っていたが、51年に麻薬常習の疑いで逮捕されたあと牢獄の中で精神病が再発、電気ショック療法を受けたのち、53年に社会復帰を果たす。第一線に戻った彼はバードランドを拠点として演奏、それ以後病状により好不調の波の多い活動を続ける。」とある。
現在でもまだ電気ショック療法が統合失調症に対する有効な治療手段として認められているのかどうか、寡聞にして存じ上げないが、医学の素人として私が感じるのは、随分乱暴で無計画なこの「療法」が、バド・パウエルという才能豊かな音楽家の前途を無茶苦茶にしてしまった可能性がある。現に、同じ持病を持つフィニアス・ニューボーン・ジュニアの場合、それほど演奏活動に深刻な影響を被っているという話を聞かない。
故油井正一氏もパウエルとニューボーンとの違いに着目しておられた。もっとも油井氏の場合、両者の違いは資質の差に起因したものであるかのような漠然とした結論に導かれている。私は、何度も言うように、両者に加えられた「治療」の質に起因しているのではないかと思う。 |
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ジャズ史的に言えば、アール・“バド”・パウエルがレコードの上ではじめてその片鱗をあらわすのは、1944年のクーティー・ウィリアムスのバンドにおいてであるが、可もなく不可もなしといった程度のこの録音も、ことパウエルファンにいわせると、必ずコレクションの一角を占めておかねばならないアルバムということになる。それほど、ここに聞かれるバド・パウエルの短いソロのなかにほとばしる彼の個性は秀逸である。
彼の初期の演奏としては、1946年のデクスター・ゴードンのもとでの演奏や同年ソニー・スティットらとサヴォイに吹き込んだ4曲があるが、パウエルに関してはいずれ劣らぬ名演ぞろいである。後者で、“ビバップ・イン・パステル”というタイトルでスティットのオリジナルナンバーとしてクレジットされている曲はまぎれもなくパウエルの有名なオリジナル“バウンシング・ウィズ・バド”と同曲である。ブルー・ノートにおける49年の演奏と比較してみると、ブルーノート組がサヴォイ組を圧倒している。これは、この時期のケニー・ドーハムではナバロと比較しようもないなど、個々の演奏家の実力の差とみることもできようが、他方、ロリンズの「荒削り」な短いソロでも46年当時のスティットのソロよりも説得力があるなどというのは、わずか3〜4年のうちに彼らバッパー第2世代が急速に力をつけていったことの証拠である。現に1949年テナーサックスでパウエルと再演したスティットはまるで別人のようで、バップ期における最強のテナー奏者であることを証明して見せた。
ところで、問題は第1世代のバド・パウエル自身であるが、サヴォイでの46年の演奏の方がよく聞こえてしまう。第1世代、第2世代というのは、ビバップの形成にいかに関わったかを指すもので、年代とは区別されなくてはならない。たとえば、第1世代とは、ガレスピー、パーカー、パウエル、ペティフォード、ケニー・クラークらを指し、第2世代と言えば、マイルス、ロリンズ、アル・ヘイグ、デューク・ジョーダン、ハンク・ジョーンズ、パーシー・ヒース、ジョージ・デュビビエ、アート・ブレイキー、シェリー・マンといったところがあげられるだろう。もっとも、各楽器によって事情が異なり、チャーリー・クリスチャンやジミー・ブラントン、レスター・ヤングを第1世代とするなら、バーニー・ケッセル、レイ・ブラウン、ミンガス、ワーデル・グレイ、デクスター・ゴードンあたりまで第2世代となってしまい、ナバロ、スティット、ローチたちは、はて?ということになってしまうのだが、要は第1世代のバド・パウエルよりも第2世代のハンク・ジョーンズやジョン・ルイスの方が年上であったが、それとこれとは別問題だといいたかったに過ぎない。
話をパウエルにもどすと、これまで1947年のルースト盤が最高傑作であるという評価が定着しているが、―もちろん47年のルースト盤が素晴らしい出来であることに異存はないが―それ以前の1944年から1946年までの期間は、宝の山である可能性がある。パーカーにしろ、パウエルにしろ、この時期が一番興味をそそる。モダンジャズの第1世代とは、こういう連中を言うのかもしれない。 |
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1964年の5月の演奏を最後に、ウェイン・ショーターはジャズメッセンジャーズを離れ、同年7月にはマイルス・デイビスのバンドに加入します。そして、すぐに録音されたのが「マイルス・イン・ベルリン」で、なかにはこのアルバムをしてマイルスのベスト・アルバムに挙げる人もいるほどのスリリングなライブ・セッションとなりました。
一方、ジャズ・メッセンジャーズのほうは、ウェインの後任としてジョン・ギルモアが加入しました。シダー・ウォルトンの後任にジョン・ヒックスが、一足先にやめていたフレディ・ハバードの後任にはリー・モーガンがカムバックしました。そして、1964年11月、Limelightレーベルに“‘S Make It”を残したのを最後に、カーティス・フラーも去り、1961年6月から続いた3管体制もひとまず終わりをなします。
テナー・サックスのジョン・ギルモアがアルト奏者のゲイリー・バーツに代わったりしましたが、この当時のジャズメッセンジャーズにとってもっとも衝撃的な出来事は、1966年1月、ブレイキーとそれ以外の当事無名であった4人の若者とがカリフォルニアのヘルモサ・ビーチにある「ライトハウス・クラブ」でおこなったライブ・パフォーマンスでしょう。アルバム「バターコーン・レディ」(ライムライト・レーベル)に参加したジャズ・メッセンジャーズのメンバーは、チャック・マンジョーネ(tp)、フランク・ミッチェル(ts)、キース・ジャレット(p)、レジー・ジョンソン(b)、そしてアート・ブレイキー(ds)。当事、キース・ジャレットは21歳。残念ながら、キース・ジャレットはこの1回のレコーディングだけで、ジャズ・メッセンジャーズを離れ、以後、チャールス・ロイドのバンド(「フォレストフラワー」などに参加)を経て、1970年にマイルス・デイビスのバンドに参加。いっぽう、ジャズ・メッセンジャーズは以後、メンバーが定着しない時期がしばらく続きます。
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ベニー・ゴルソンがジャズ・メッセンジャーズに在籍していたのは、1958年(この年は10月までジャズ・メッセンジャーズのレコーディングはないため、何月ごろベニー・ゴルソンがメンバーになったのかは不明)から翌59年の春ごろまでで、長くても1年程度、おそらく半年程度の短い期間であったと考えられます。ベニー・ゴルソンの後任には、再びハンク・モブレイが入っています。
1959年11月5日テナー奏者ウェイン・ショーターとピアニストのウォルター・ビショップ・ジュニアがゴルソンやティモンズと入れ替わってデンマークのコペンハーゲンでライブ録音し、以来テナー・サックス奏者兼アレンジャーとしてショーターがメンバーとして入ります(ピアニストはこののち、再びボビー・ティモンズになります)。
このリー・モーガン(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)、ブレイキー(ds)という過渡期的性格を持つメンバーによる時代は意外と長く続き、1960年3月からちょうど1年間近く活躍します。この当時の作品としては、「チュニジアの夜」「ジャズ・コーナーで会いましょう」がありますが、リー・モーガンとボビー・ティモンズのファンキーなソロに人気が集まり、ウェイン・ショーターの新感覚のソロは、異彩を放ちつつも、まだ聞き手から充分な支持を受けるにはいたっていないようです。
1961年6月にまずカーティス・フラー(tb)が入り、同年8月にフレデイー・ハバード(tp)、シダー・ウォルトン(p)が加入するに及んで、ファンキー路線からモード路線へと脱皮を果たしました。この時代を代表するアルバムとして、「モザイク」(ブルーノート)、「スリー・ブラインドマイス」(ユナイテッド・アーティスツ)。さらにベースがジミー・メリットからレジー・ワークマンにかわって、「キャラバン」(リバーサイド)があります。
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